第76話 やはり外来診療には落とし穴

 数か月前から訪問診療を始めたCさん。80代の女性で、HCC(肝細胞癌)を持っていたが、それほどは大きくなく、肝機能障害も目立たなかった。生活上の一番の大きな問題点は認知症の進行だった。ご主人と、大きなわんちゃんとお住まいで、山の手の高級住宅街の奥まったところにお住まいだった。


 Cさんの認知症の程度は強いが、暴れたりすることはなく、ある程度身体は動くのだが、意思疎通、という点ではほとんど成り立たなかった。訳の分からないことをいうわけではなく、ご本人は、ご本人の思いを言葉にしてくれているのだが、キャッチボールで言えば投げっぱなし。こちらがその言葉を受け止めて、相手に投げ返してもそれは受け止めようとはせず、また新しいボールを出してきて、こちらに投げてくる、という感じだった。耳が悪くて聞こえていない、というわけではない。簡単な指示にはきっちり従ってくれるのだが、気持ちのキャッチボールができない、話したいことを論理的に組み立てて話していく能力が奪われている、という感じの認知症だった。


 ご主人は奥さんへの思いや愛情は感じられるのだが、それがうまく日常生活に反映しない。わんちゃんにも、奥さんにもケアが不十分な印象だった。もちろんご主人が手を抜いているわけではないのはよく分かったのだが。ケアマネージャーさんやヘルパーさん、訪問看護師さんにも来ていただいているのだが、ご主人と、看護、介護スタッフとのコミュニケーションもうまくいっていない印象だった。かろうじて、医師の言うことは聞いてくれるかなぁ?という感じで、ゴーイング・マイ・ウェイという印象だった。


 数か月訪問診療に通ったが、ご主人やCさんご本人との気持ちのやり取りについては、何となくぎくしゃくした状態だった。


 ご主人から、

 「妻がしばらく施設でお世話になるので、訪問診療はいったん中止してもらえますか」

  と伺い、ケアマネージャーさんとも確認し、一旦訪問診療を中止した。


 それから3ヶ月ほどだっただろうか、午前の外来中に施設から連絡があり、

  「下痢と腹痛を訴えているので、外来受診させてほしい」

  とのこと。とにかく診てみないとわからないので受診してもらうように伝えた。


 Cさんは外来に来られ、処置室に案内された。私もちょうど患者さんと患者さんの合間のタイミングだったので、Cさんの様子を見に行った。Cさんは

 「おなかが痛いです」

 と冷や汗をかいておられた。下痢はそれほどひどくないとのこと。むしろ腹痛そのものが深刻な問題だと考えた。血圧を測ると80台、脈拍は120台と、ショックバイタルになっていた。


 Cさんの基礎疾患で気になるのはHCCのことだった。HCCそのものは大きくはなかったが、肝表面に極めて近いところに腫瘍があったことを覚えていたので、腹痛の可能性として、HCC rupture(肝細胞癌の破裂)は外せないと考えた。その日は、技師さんのいない日で、CTを動かすにも時間がかかること、CTを動かせる私が外来中で、それなりに待っておられる患者さんがいるので、CT撮影だけに時間をかけるわけにもいかない。


 Cさんはショックバイタルなので、とにかく貧血の進行をすぐに確認することにした。1号液で点滴路を確保。輸液の速度は高齢者だが早めにして、CBCのみを検査した。


 在宅の時に行なっていた検査と、緊急検査を比べると、Hbで3g/dl以上の低下を認めた。おそらく、腹腔内出血、原因はHCC ruptureと考えた。


 HCC ruptureには、苦い思い出がある。九田記念病院で3年目だったか、腹痛の患者さんに腹部エコーを行なったことがある。指導者はERにはいなかったのだが、とにかく教科書を読んで、技術を身に付けなければ、という思いからだった。もちろん超音波検査で患者さんを傷つけることはない。その患者さんは右上腹部痛を主訴に救急搬送されていた。腹部エコーでは胆嚢壁の肥厚を認め、「急性胆嚢炎の疑い」ということでエコー技師さんに依頼、きっちり診てもらったところ、肋間操作で胆嚢の見える視野から2肋間上にHCCを認め、腹水貯留があった。正しい診断は「HCC rupture」だったことを記憶している。


 閑話休題。その当時と比べて、きっちりエコーのトレーニングを受けてはいるが、問題はショックバイタル。診療所で無駄な時間を使うことは許されない。行うべきことは決まっている。輸液でバイタルを維持しながら、速やかに急性期病院に転棟させることである。


 すぐに紹介状を作成。

 「HCCに罹患している方の激しい腹痛、ショックバイタル。HCC ruptureの疑い」

 として紹介状を作成、急性期病院もすぐに見つかり、速やかに転送となった。


 それから1ヶ月ほど経って、返信が届いた。


 やはり診断は予想通りHCC rupture。緊急でIVR(Interventional Radiology:放射線透視下で、血管内カテーテルなどを用いて塞栓術などを行なう手技)を行ない、HCCの栄養血管に塞栓術を行ない、HCCからの出血は止まったが、その後全身状態の悪化が進み、3週間の経過で永眠された、とのことだった。


 「下痢、腹痛」なんて、だれでも罹患したことがある症状である。でも、よくある症状の中に、致死的な疾患が隠れていること。それを過たず診断すること。言葉で言うことは簡単だが、とっても難しい仕事である。Cさんの経過はHCC rupture後の医療介入は極めて適切に行われたと思う(当診での判断も含め)。そういう意味では寿命を全うされたのかもしれない。

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