第60話 上野先生がいなくなって

 上野先生がいなくなって、診療所の内部では大きな変化がいくつかあった。病棟の担当患者さんについては、以前に書いたように源先生の患者さんは源先生が、上野先生の患者さん、私の患者さんは私が、北村先生の患者さんは依頼があれば私が、北村先生がご自身で管理される、ということであれば北村先生が主治医となっていたが、上野先生がいなくなられたので、結局各医師が外来や在宅で担当している患者さんを、病棟でも主治医となることとなった。


 また、北村先生もご高齢となってきたので、北村先生も夜診から撤退してもらい、夜診は源先生と私で担当することになった。診察枠は2枠用意していたので、土曜日以外は基本的に夜診終了まで仕事をすることになった。上野先生は院内勉強会の時間の水曜午後にも訪問診療をしていたので、その枠を私が担当することになった。今までは、スタッフの勉強会として、内科的に理解しづらい病態や、直近に来院された、興味深い患者さんの症例検討などを行なっていたが、それができなくなったのは残念だった。


 上野先生は産業医(労働衛生コンサルタント)としても月に1回仕事をされていたので、その仕事は産業医の資格を持つ私が引き継いだ。訪問診療の患者さんにせよ、産業医の仕事にせよ、残念なことにほとんど引継ぎができなかったので、特に自分の経験が浅い産業医については苦労した。もっと上野先生にくっついて、訪問診療や、産業医の仕事を見せていただいていればよかったとひどく後悔した。


 診療所のスタッフの中には、私が退職するのではないか、と心配していた人もいたようである。上野先生のおかげで医師になることができ、上野先生を慕って診療所に来たのだから、心配する人がいても全然おかしくはない。また、どうしても私の行なう医療が、研修医時代に骨の髄までしみ込んだ、二次医療的考え方に基づく医療であり、理事長、所長である源先生とずれがあることもスタッフが知っているので、その点でも不安だったのだろうと思う。


 源先生は常々、

 「当診は一次医療機関であり、診断能力に限界がある。なので多少の誤診が出てもしょうがない。そこを私たちへの信頼感で埋める」

 と言っていたが、基本的に私はそれは間違いだと思っていた。

 「当診は一次医療機関であり、診断能力に限界がある。しかし可能な限り誤診をしないように努力し、必要があれば躊躇なく診断能力の高い高次医療機関に紹介することが我々の仕事である」

 というのが私の考えだった。


 ただ、私はその時点では診療所を離れる気は全くなかった。第一に、上野先生の魂はこの診療所であること、第二には、私がいなくなれば、明らかに診療所の診断レベルが低下することがわかっていたので、診療所にかかる患者さんのためにもここを離れるわけにはいかない、と思ったからである。師匠のお宅での新年会をつぶされたりしたことがあり、それはそれで今でも悔しいのだが、それはそれとして、別に源先生に恨みを抱いたりしているわけではなく、むしろ、上野先生の遺志を継いで、理事長として精一杯頑張っておられる源先生をバックアップしようと思っていた。


 ただ、予想していたように、上野先生が亡くなられた後まもなく、二人の看護師さんが退職された。一人は訪問看護ステーションの管理看護師さん、そして、その方の友人だった診療所の看護師さんである。


 管理看護師さんのお父様(弁護士で、大学の教授もされていた)と上野先生は家族ぐるみの付き合いがあり、そのつてで、娘さんに訪問看護ステーションに来てもらった経緯があった。上野先生はその看護師さんに金銭的な援助もしていたらしい。また、診療所の看護師さんも、個人的に上野先生にお世話になっていたようである。その二人は、上野先生が亡くなられてから数か月と経たずに退職してしまった。


 少なくとも管理職についているものは、後任がある程度めどがつくまでは、よほどの理由がなければとどまるのが管理職の責任感であろう。そういったものは全くなく、突然に「辞めます」と言って、辞めてしまった。その二人が、何を考えて退職したのかはわからない。ただ、上野先生がいなくなると間を置かず退職されてしまうのは、どんなものなのだろうか?上野先生に受けたご恩をどう考えているのだろうか。それは何とも言えないが、私自身が上野先生から受けたたくさんのご恩を考えると、先生の残されたこの診療所を維持していくこと、この地域の人たちに適切な医療を提供することが先生への恩返しだと思っていた。


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