第59話 上野先生との別れ

 上野先生の最後の外来診察はいつだったであろうか?T病院の予約時間が11時過ぎだったので、先生は10:30過ぎまで外来診察をされ、そして診療所を出発された。先生の外来診察希望の方の診察を引き継いだのは私であった。それは先生の想いを引き継ぐような気持であった。


 私が呼吸器内科研修中、化学療法の導入などで数人、肺がんの方の入院管理をしたことがあるが、多くの場合、一時的には化学療法で腫瘍は小さくなる。小さくならずとも、進行がゆっくりになることが多かった。

 「先生はもう一度この診療所に戻ってこられる。その時には先生の持てる技を可能な限り引き継ごう」

 と決意していた。職員集会が開かれ、源所長から、上野先生の病状について説明、この危機をみんなで乗り越えようと話をされた。私も、

 「絶対上野先生はもう一度、ここに帰ってくるから、それまでみんなで力を合わせて、この診療所を守っていこう!」

 と話をさせてもらった。


 ところは現実はそれほど甘くはなかった。


 肺がんは組織型によって、扁平上皮癌、腺がん、小細胞がんと、いずれにも分類できない未分化な大細胞がんに分けられるのだが、上野先生の腫瘍細胞は極めて未分化の大細胞がんであった。


 人間の身体はもともと一つの受精卵という細胞が分裂して作られていくが、身体を構成していく中で、腸になる細胞は腸の細胞としての特性を、肺になる細胞は肺としての特性を、脳神経の細胞になる細胞は神経としての特性を持つようになり、そのように万能細胞→特定の臓器を構成する細胞に変化する現象を「分化」と呼んでいる。


 分化度の高いがん細胞は、もともとの臓器の特徴を色濃く備えているので、分裂増殖しにくく、化学療法なども行ないやすいのだが、分化度の低い、未分化な細胞は増殖能力が高く、そのような臓器特異性を持たないので、どんどん増殖し、正常な組織構造を破壊していくのである。ということで、悪性腫瘍については「高分化型」と呼ばれるものは悪性度が高くないもの、「低分化型」と呼ばれるものは悪性度の高いもの、「未分化型」とは「低分化型」よりもさらに分化度が低いもので、非常に悪性度の高いものである。


 残念ながら上野先生の病気は、私のそれまでの医師人生の中で診察した肺がんの患者さんの中で、最も病気の進行が速かった。一度だけ入院先から送られた胸部レントゲン写真のCD-ROMを確認した(2回目の確認は、もう心が辛くてできなかった)が、診断がついた時点で1cm程度だった腫瘍内部の空洞は1ヶ月で左上葉を置換するほどに大きくなっていて、まるで気胸を起こしているようだった。先生も、一度化学療法を受けられたが、1クールで身体が持たなくなり、2クール目はできなかった。放射線治療で一時上大静脈を圧迫していた腫瘍が小さくなり、顔のむくみが軽快したが、それも短時間で再度むくみがひどくなってきた。


 上野先生が休まれている間、残りの3人で上野先生の仕事を割り振り、私は診療所の訪問診療を開始し、外来担当枠も大きく増えた。そのため、上野先生のお見舞いには2回しか行けなかった。


 入院治療でできることがなくなった、というのが本当のところだろう。いったん在宅診療に移る、ということになった。私が主治医となり、診療所の訪問看護師さんが訪問看護を行なう、ということになった。初回の訪問診療の時は、かつての事務部長が往診の車を運転し、診療所の最古参の看護師さんが私の訪問診療についてくださった。


 先生のお宅は大豪邸かと思っていたが、高級住宅街にはあるものの、こじんまりとしたお宅であった。先生は奥様を亡くされていたので、お元気な時は、介護保険を使い、ヘルパーさんが食事を作っていたと伺っていたが、今は身の回りのお世話はどなたがしているのだろうか、と思っていたのだが、訪問して驚いた。


 どのようなつながりかは不明であるが、診療所の第2代看護師長さんが先生の身の回りをお世話されていたからであった。この師長さんは、仕事はきっちりしていたが、逆にスタッフにもその仕事の厳しさを要求すると同時に、酒癖が悪く、お酒を飲むとグダグダになるので、他の看護師さんとのトラブルが多く、

 「この人の下では、もう仕事ができない!」

 と言って複数の方が退職されたのと同時に、お酒を飲んでの執行部批判が激しく、けんか別れのような形で退職された、と聞いていた。


 ちょうどその頃に私は事務当直でアルバイトをしていたので、どんどん看護師さんが退職されていくのを見ていたのだが、その辺りの細かいことはよく分からない。最古参の看護師さんは

 「どうしてこの人がここに…」

 と絶句されていた。


 上野先生は在宅酸素療法を開始されていた。お身体を診察させてもらい、

 「訪問診療は私が担当させてもらいます。よろしくお願いいたします」

 と挨拶し、前医からの処方薬を継続処方、2週間後の訪問診療の予定とし、診察は終了した。上野先生は、長く働いてこられた最古参の看護師さんの手を取って、

 「ありがとう、本当に今までありがとう」

 と繰り返しておられた。


 訪問診療の帰りは、第2代師長が上野先生のお世話をしていたことに対しての疑問と怒り、上野先生の遺言ともとれる、たくさんの「ありがとう」という言葉で、最古参の看護師さんは混乱しながら、ずっと涙を流しておられた。


 それから数日後だったように記憶しているが、私が夜診の担当に当たっていなかったので、私一人で先生のお宅にお見舞いに行った。先生と何をしゃべったのかは覚えていない。ただ私は先生の手を取り、

 「まだ先生に何の恩返しもできていないのに!」

 と言って泣き崩れていたことだけは覚えている。私の実父が第一の父、継父が第二の父であり、私にとって上野先生は第三の父であった。診療所に来てから、世事に疎い私にいろいろなことを教えてくださり、生意気にも、上野先生の治療に異を唱えても大きな懐で受け止めてくださり、時には簡潔な言葉で叱ってくださり、身内でも何でもない、ただのかかりつけの患者さんに過ぎなかった私を医師に育ててくださった先生。


 男性の平均寿命が80歳を超えているのに、どうしてこんなに早く別れなければいけないのか、また、先に述べたとおり、数は少ないものの、それなりの数の肺がんの患者さんを診てきた中で、最も速い経過で悪化していかれた先生。たくさんの思いが胸に詰まり、泣きじゃくる私に先生は何もおっしゃらなかった。でも、私の気持ちを分かってくださっていたのだと思う。結局その日は、子供のように泣き疲れて帰途につき、それが先生とお会いした最後だった。2回目の訪問診療を行なうことなく、呼吸状態の悪化のため、年末にT病院に再入院された。


 ある日曜日の早朝、私は夢を見た。肺がんを乗り越えられた上野先生と、旧事務部長と、私と3人でお茶を飲みながら、上野先生が

 「しかし、健診の時のレントゲンはわからなかったよねぇ、あはははは」

 と先生は愉快そうに笑われていた。私も、先生が快癒されて本当にうれしかった。

 ふとそこで目が覚めた。少し日が昇り始めた7時前だった。二度寝する気にはあまりなれず、リビングに降りていき、新聞を読んでいた妻に、

 「さっきこんな夢を見たよ。今日は日曜日だし、上野先生のお見舞いに行こうか」

 と声をかけ、朝食のパンを食べ始めた。しばらくして、私の携帯が鳴った。源先生からの電話だった。

 「先ほど、上野先生が永眠されました」

 との連絡だった。


 先生の病気が見つかってすぐ、私はもう一度先生の健診の時の写真を見なおした。でもやはり私の目では病気は見つけられなかった。健診で先生の病気を見つけられなかったことを私はずっと悔やんでいた。先生はずっと悔やんでいた私を、最後に助けに来てくださったのであろうか。夢の中ではあったが、先生が快活に笑ってくださったおかげで、少し後悔は楽になった。


 日曜日であったが、先生が亡くなったと聞くとじっとしていられなかった。何ができるわけでもないが、診療所に向かい、診療所の事務室で葬儀の予定や会場などの情報を待つことにした。ただただ、家にじっとしていられなかったのである。


 月曜日の夜にお通夜、火曜日の午後に告別式、診療所としては2か月後をめどに、患者さんたちのために、上野先生のお別れ会を開くことになった。お通夜、告別式には、理事長として源先生、50年来の盟友として北村先生が出席されることになった。どちらにも私は出席せず、診療所でお留守番、であった。


 でも、それでよい、それがよいと私は思った。なぜなら、上野先生の魂は、どこでもなく、この診療所にあるからである。二人の先生がお留守の間、この診療所を守って、来院される患者さんに医療を提供することが、上野先生のお気持ちにお応えすることだと思ったからである。


 上野先生を偲ぶ会は2月に行われたように記憶している。上野先生と一緒に仕事をされた、診療所とゆかりのある人々が北海道から、九州からお見えになられ、地域の方々も含め、600人以上の方が先生を偲んで会場に足を運んでくださった。ありがたいことである。会では、源理事長、北村先生をはじめ、ゆかりある人々から献花を始め、集ってくださった皆さんに献花をしていただいた。


 そして会が終わり、ある程度の会場の片づけを終えてから、診療所のスタッフが献花をすることになった。その時点で私も献花をすることができた。献花をして、先生の遺影に手を合わせると、たくさんのことが思い出されて涙が止まらなかった。本当に悲しい、でも、これからは医師として本当に自分の足で立たなければいけない、という決意でもあった。


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