第58話 診療所創立50周年に

 一つの企業であれ、組織であれ、半世紀の歴史を持つ、ということは大変なことである。診療所も創立50周年を迎える年になった。その2年前に上野先生は理事長を勇退し、所内に先生の趣味である「囲碁クラブ」を作り、先生を慕う事務スタッフの女性方が参加されていたようであった。例年、診療所では法定の健康診断を行ない、その所見は労働衛生コンサルタントの資格をお持ちであった上野先生がつけておられた。


 たまたま、先生がご自身の胸部レントゲン写真を見ておられた横を私が通りがかった。

 「先生は大切な方だから、私にも写真を見せてください」

 とお願いし、産業医として私も先生の胸部レントゲン写真を読影、特に問題はないと判断、二人で

 「特記すべき所見はないですね」

 と確認した。


 50周年記念行事を10月頃に行なおう、ということで、夏ごろから準備を始めたのだが、その頃から上野先生は

 「年のせいか、なんか身体がしんどいなぁ」

 とおっしゃるようになった。先生も76歳になられ、それでも精力的に仕事をこなされておられ、お疲れなのだろう、と僕たちは考えていた。30年以上、先生と一緒に仕事をされていた古株の看護師さんは、

 「先生、大丈夫ですか?」

 とずいぶん心配されていた。


 8月の終わりか、9月の頭ごろだったか、上野先生が、

 「後頭部におできができて、ちょっと痛いんだ」

 とおっしゃられた。

 「膿瘍が熟したら、切開するから」

 とおっしゃっておられたが、どういうわけか、おできはなかなか膿瘍にならない。硬結のまま、2週間以上そのままだった。布団に入ると、おできが枕に当たって、上を向いて眠れない、ということでずいぶん困っておられ、しびれを切らされた上野先生は、北村先生にお願いして、おできの切開排膿を試みたが、膿汁は見られなかった。


 9月頃になると、古参の看護師さんが、

 「上野先生、顔がむくんでいない?」

 と言われるようになった。私はあまり変わらないように思えたのだが、看護師さんはしきりに、

 「先生、顔がむくんでいない?」

 とおっしゃっていた。しばらくすると、他の看護師さんも、

 「上野先生、顔がむくんでいませんか?」

 と上野先生に声をかけるようになってきた。看護師さんたちから私に、

 「保谷先生、一度上野先生を診てもらえませんか?」

 と声をかけられた。


 「上野先生、看護師さんも心配されていますし、心不全など確認のため、胸部レントゲンを撮りましょう」

 とお願いし、胸部レントゲンを確認した。胸部レントゲンを確認すると、心不全を示唆するような心拡大はなかったが、健診の時には見られなかった、φ2cm程度の淡い影が左中肺野外側に見られた。レントゲンは上野先生にも見てもらい、

 「先生、健診の時にはなかったと思いますが、左中肺野外側に陰影があります。胸部CTを確認しましょう」

 と伝えた。その日は放射線技師さんの出勤日だったので、すぐに胸部CTを撮ってもらった。


 胸部CTでは、左S3の外側に胸膜と接する形で、内部に空洞を形成する不整形の腫瘤があり、うっすらと胸水がたまっていた。上野先生に結果を報告した。

 翌日は私の九田記念病院での訪問診療日だったので、

 「師匠にも写真を見てもらい、ご意見をもらいます」

 と伝えた。


 翌日、訪問診療出発前にいつも参加させてもらっている内科カンファレンスが始まる前に、師匠にCT写真を見てもらった。


 「保谷先生、肺がんでStageⅣです」


 と師匠は診断をつけてくださった。師匠に詳しくCTを見ていただくと、気管支周囲のリンパ節がゴリゴリと腫れていて、腫大したリンパ節が上大静脈を圧排していた。上大静脈症候群である。看護師さんたちが言っておられた

 「先生、顔がむくんでおられませんか?」

 という言葉は正しかったのであった。そこに気づかなかった私たち(特に私)は全くイケてない医者である。


 九田記念病院の仕事を終えた後、がっくり肩を落として診療所に戻った。診療所創立50年の慶事は、一気に大黒柱である上野先生の病気で暗転したようであった。上野先生、所長の源先生に師匠の読影結果を報告した。大事件である。


 気のせいか、翌日から急に上野先生の顔のむくみがひどくなってきた。50周年祝賀会も近づき、まずそれをこなそう。その後、上野先生が呼吸器内科として信頼を置いているT病院に受診する手はずを整えた。


 50周年祝賀会のあいさつで上野先生は

 「私もこれから命懸けの戦いに入ります」

 と宣言された。出席者全員が言葉を失った。


 もちろん「老舗」と呼ばれる、百年以上の歴史を持つような商店では、創立した当主、引き継いだ当主などを亡くす経験を何度も経ながら、のれんを守り続けてきたのであろう。診療所も半世紀、地域の医療のために力を尽くしてきて、その歴史の中で乗り越えなければならない大きな壁であるが、それでも、精神的支柱を失ってしまうのは、大変つらいことであるし、診療所にとっても大きな危機でもあった。



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