第45話 命拾い(いろいろな意味で)

 内科診断学では、診断方法として大きく2つのパターンがあるとされており、一つは「直感的診断」、もう一つは「分析的診断」である。「直感的診断」は言葉通り、患者さんの病歴、呈している症状から直感的に診断をつけることであり、「分析的診断」は、患者さんの病歴、身体所見から解剖学的、生理学的に起こっている異常を考え、鑑別診断を考え、検査結果でそれらの鑑別診断を評価し、診断を順序だててつけていく、という方法である。ベテランの経験豊富な医師であれば、直感的診断で診断をつけていくことが多くなり、その正確性も高くなるが、直感的診断には各種の「バイアス」という落とし穴がある。分析的診断は見落としが少なくなるが、診断に時間がかかるのが難点である。実際に診療所で外来をしていると、すべての患者さんを分析的診断で診療を行なうと、とてもじゃないが患者さんの数をこなせない。ということで、熟練の医師は、主に直感的診断を行ない、その診断に違和感を感じるときには、分析的に考えて、正しい診断に辿り着くのである。


 冬になると、インフルエンザが流行するが、その時のように、特定の病気が多量に押し寄せてくるような状況では、当然直感的診断で診察を行なっていくことが多い。実際に、流行期では典型的なインフルエンザの症状を呈している患者さんが、実際にインフルエンザである事前確率は70%近くとされている。なので、インフルエンザっぽい人の7割は本当にインフルエンザなのである。


 ただ、これが曲者で、インフルエンザっぽい人の3割はインフルエンザではないのである。さらに付け加えるなら、インフルエンザの迅速検査も検査の感度、特異度とも100%ではないので、偽陽性、偽陰性が生じるのである。また、事前確率が高いと、検査で陰性が出ても、事後確率はそれほど下がらない(Bayesの定理)。実際に検査キットの感度、特異度と、事前確率から計算すると、流行期であれば、迅速検査陰性でもインフルエンザである確率は40~50%となる。ということを考えると、インフルエンザらしい患者さんが来て、インフルエンザの検査の結果を見て、その割合を考えると、迅速検査陽性のインフルエンザ患者さん>迅速検査陰性のインフルエンザ患者さん>インフルエンザのように見えて、インフルエンザではない患者さんという分布になる。

 さらに、インフルエンザの時期は「数の暴力」が起きるので、平静な心で外来診療を行なうのも難しくなる。なので、時に大きな落とし穴が隠れていることがしばしばなのである。


 九田記念病院時代の先輩の話でも、たくさんのインフルエンザの患者さんが来ていて、高熱、頭痛→インフルエンザ、高熱、咽頭痛、吐き気→インフルエンザ、高熱、咳、頭痛→インフルエンザ、高熱、頭痛→細菌性髄膜炎、という落とし穴に落ちかけたことがあったと聞いたこともある。


 そんなわけで、直感的診断に頼らなければ仕事が終わらないけど、直感的診断だけで仕事をすると、時にとんでもない地雷を踏んづけてしまうのが外来診療の怖いところである。


 とある冬の土曜日、普段の土曜夜診は源先生の担当なのだが、その日は市医師会の忘年会があり、付き合い上、私以外の3人の先生が顔を出さざるを得なかった。そんなわけで、その日の夜診は私一人で頑張ることになった。インフルエンザ大流行の時期なので、たくさんの患者さんが待合室で待っておられた。18時の診察時間開始とともに、戦争が始まった。中には、高血圧や脂質異常症の定期受診の患者さんもおられるが、圧倒的に発熱の患者さんが多かった。定期受診の患者さんは、体調を確認し、何か変わったことがなかったかをきいて、血圧を測定、しばらく採血されていなければ

 「次回採血しましょうね」

と説明して投薬。発熱でインフルエンザが心配、という患者さんは病歴を確認し、病歴におかしなところがなければ、身体診察。インフルエンザなどのウイルス性上気道炎では、咽頭後壁のリンパ濾胞が腫れて、イクラみたいにモコモコとしていることが多く(後鼻漏症候群も同様の咽頭所見を呈することが多い)、発症から12時間以上経っていれば迅速抗体検査を行ない、陽性であれば「インフルエンザです」と診断、薬の話、学生さんなら出席停止の期間、職場に診断書を出さなければいけない、と言われれば、学生さんの出席停止期間を参考にして、治癒と判断されるタイミングで再診して、そのタイミングで診断書を書きましょう、などと諸説明を行ない、抗ウイルス薬、アセトアミノフェンを出して診察終了としていた。発症から12時間経っていなければ、偽陰性のリスクが上がるので、

「明日は日曜だけど、当直医がいるので、調子が悪ければ、電話をかけて、再受診してください」

と伝え、アセトアミノフェンなど対症療法薬を出していた。発症から12時間以上たっていて、迅速検査が陰性の人に対しては、症状がインフルエンザに典型的だ、と思われる人には、翌日の再検査を勧めていたのだが、その中で一人、気になる症状の方がいた。


 患者さんは19歳女性、受診当日の昼過ぎから40度近い発熱があり、身体がとてもしんどいので、インフルエンザの検査をしてほしい、とのことで受診された。上気道症状(咳や鼻水)はないとのこと。簡単に身体診察を行なったが、のどは先ほど述べた所見は見られず。心音、呼吸音に異常を認めなかった。

 「インフルエンザの検査をしてほしい」

ということで受診されたこと、ひどくぐったりしていたので、発症から12時間は経っていなかったが、迅速検査を行なうこととした。迅速検査は陰性だった。患者さんがひどくしんどそうなのが気になり、再度詳しく病歴を確認した。3日ほど前から誘因なく吐き気がひどく、他院でPPIを処方してもらったが改善はなかったとのこと。下痢はしていないと。咳や鼻汁、咽頭痛や頭痛もないとのこと。ただ熱が高く、ひどくしんどい、とのことだった。

 「呼吸器系の病気ではなさそうだなぁ、でも重篤感が強いし、点滴と採血を確認しよう」

 と考えた。


 当診の私以外の3人の医師は、習慣なのか、あえてそれで十分だと考えているのかは不明であるが、ほとんどの場合、採血はCBCとCRPのみを提出する。私個人としては、CBCとCRPだけで何がわかるのだ、という気持ちが強く、CBC、CRP以外にも院内で可能な生化学検査は一通り出すようにしていた。電解質は検査に時間がかかるので、電解質異常も鑑別に上がるときは電解質(といってもNa、K、Clのみだが)も、そうでないときは電解質抜きでの生化学検査(GOT、GPT、CPK、Amy、BUNのみだが)を提出、血糖値は自己血糖測定器で評価していた。この患者さんは院内フルセット(といっても上記のように大したものではない)と外注検査を指示し、1号液で点滴を開始した。結果が出るまでの間、他の患者さんを再び、バタバタと診察しながら検査結果を待った。患者さんもだいぶ片付いてきたころ、ようやく採血結果が出た。結果を見て椅子から転げ落ちそうになった(またかいな)。


というのは、GOT>1000,GPT>1000という値を見たからだった。3日前からの嘔気もそれで得心が行った。CBC、CRPは上昇しておらず、年齢を考えても、おそらくウイルス性肝炎、しかも身体所見、検査データから考えると極めて重症そうである。結果説明の際に、この1ヶ月ほどの間に海外旅行に出かけたか、この半年以内で新しい彼氏ができたり、性交渉があったか、ジビエ料理などを食べたか、違法薬物を注射したりしたか、など確認したが、いずれもないとのことであった。とはいえ、血液検査では肝細胞が急速に破壊されており、高次医療機関での精査加療が必要であった。土曜の夜であり、病院探しには大変苦労した。最初に、某公立病院に連絡したところ、当直医から、

 「その状態は非常に危険なので、救命救急センターに連絡してください」

 と断られ、近隣の救命救急センターに連絡すると、

 「専門医がいないので対応できない」

 とけんもほろろに断られた。なので、とにかく信頼できる高次医療機関を次々に当たり、ようやく、A病院が受け入れ可能と返事をくれた。一緒に来られていたご家族に病状説明。重症の肝炎を起こしていると思われ、経過によっては命にかかわることもありうること、当診では十分な検査、治療ができず、A病院が今から緊急で受け入れてくれる、とのことなので、救急車で同院に移動してもらうことを伝え、救急隊に連絡。彼女を無事に搬送できた。


 たくさんいた患者さんもすべて診察が終わり、重症の患者さんを見落とすことなく高次医療機関につなぐことができてほっとした。たぶん彼女を、

 「明日また受診してください」

 と言って帰宅させていたら亡くなっていたかもしれない、と思った。また、たまたま、検査をたくさん出す(きっちり出す?)私が外来担当だったから拾い上げられたのかもしれない、とも思った。CBC,CRPは特に問題がなかったので、私以外の医師が診察していたら、本当に帰していたかもしれない。そういう点で、彼女はラッキーだったのでは、と思いながら帰宅した。


 それから1ヶ月ほど経って、A病院から返信が届いた。返信を確認すると、本当に彼女は死の淵に立っていたようで、同院に到着時の採血結果から、急性B型肝炎と診断(キャリアがserocoversionしたものではなく、新しく感染したB型肝炎だとのこと)、劇症肝炎(急性B型肝炎が最も劇症化しやすい。劇症肝炎では肝移植なども治療の選択肢に入り、致死率は極めて高い)に移行する可能性を予測式で計算すると、劇症化のリスクがかなり高く、積極的に核酸アナログを用いた抗ウイルス薬の投与を行なうことで劇症化は免れた、とのことだった(その当時、核酸アナログ製剤など、B型肝炎に強い効果のある薬剤が市販され始めたころで、それまでは、急性肝炎の治療は、身体を休め、保存的に経過を見て、症状が治まるのを待つのが一般的だった)。感染経路は不明のままだった、とのことだが、それはそれでしょうがないことである。これまで診た急性B型肝炎の患者さんで、主訴が「高熱」だったことは記憶になかった。


 同院到着時の血液データを見ると、総ビリルビン値は4台と上昇しており、落ち着いて結膜を診察していたら、黄疸が診断できたであろう(先に述べたように、インフルエンザモードで身体診察をしていたので、結膜を診ていなかった)。また凝固因子(肝臓で作られ、出血の際に血液を固めて止血するのに必要なたんぱく質。寿命が短いので、肝臓の合成能を反映する)の指標になるPT-INRは4近くに上昇し(正常は1.0)、本当に当診を受診された時点で、肝臓の機能はほぼ停止していたようであった(急性肝不全という状態)。診察終了後に感じた

 「あの子、もし帰宅させていたら亡くなっていたかもしれない」

という感覚は正しかった。あの時、迅速抗原検査陰性のインフルエンザ患者と判断し、

 「明日来てください」

と言っていたら、手遅れになっていた。彼女は本当に亡くなっていた。


 たまたま、私が診察時に感じた違和感を放置せず、できる検査をしっかり行ない、急性肝炎を見逃さず、専門医に素早く紹介したことと、専門医の適切な評価と治療のおかげで、彼女は命拾いをした。と同時に、彼女を見逃さなかったことで、私自身も命拾いをしたのである。


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