第44話 こんなこともあるものだ…。

 上野先生かかりつけの80代女性の患者さんが、腎臓がんで手術を受け、その後状態が安定したとのこと。自宅への退院調整目的で、診療所に転院することとなった。上野先生の患者さんは私が診ることになっているので、私に話があり、もちろん受け入れOKと返事、予定通りの日に、当診に転院してこられた。

 来院されたときは、車いす移動であるがベッドには自力で移動可能。バイタルサインも安定しており、受け答えもしっかりしておられた。お元気そうな様子で、患者さんとお互いに

 「よろしくお願いします」

 とあいさつをして入院となった。


 翌朝、出勤して病棟に向かうと、当直の看護師さんから、

 「患者さん、夜中にトイレに行こうとされたのですが、ふらつきが強くて転倒されました。頭は打っていないようでした」

 とのこと。高齢の方で転倒、というとやはり大腿骨頚部骨折や脊椎圧迫骨折が心配である。患者さんを診察に行ったが、前日は普通におしゃべりできていたのに、今日は呂律があまり回っていない。側臥位になってもらい、脊柱の棘突起を一つ一つ打診したが叩打痛はなし、仰臥位に戻ってもらい、両側の股関節についてPatrick signを確認したがどちらも陰性、心配していた椎体の圧迫骨折や大腿骨頚部骨折はなさそうだった。しかし、呂律があまり回っておらず、四肢の動きを見ると、どうも右上下肢の動きが悪い。頭部の視診、触診では外傷痕はなく、触診でも皮下出血は触れず、痛いところはないと言われる。しかし前日とは明らかに様子がおかしい。

 「今日は技師の先生がお見えになる日だから、緊急で頭部CTを撮ってもらってください」

 と看護師さんに伝え、カルテに指示を書き、指示書を作成した。頭部には確かに外傷の痕跡はなく、頭をぶつけたわけではない。でも症状は巣症状があり、何か脳に起きているような印象である。

 「何だろう??」

と思いながら午前診に向かった。


 午前診終了後、病棟に上がるとCT写真が出来上がっていた。写真を確認して驚いた。頭部CT写真では左の視床に出血が見られた。左視床出血である。外傷性の脳挫傷、硬膜下血腫、クモ膜下出血などはなく、転倒とは無関係の出血だと思われた。おそらく先に視床出血があり、それでふらつきが出て転倒されたのであろう。視床出血は高血圧などが関連するが、この患者さんは血圧は安定しており、おそらく出血の原因は加齢に伴う血管壁の脆弱化が影響したのだろう。


 視床出血は手術適応ではなく、血圧をコントロールしてリハビリを行なっていく、というのが今後の治療となる。手術適応ではないので、当診から転院する必要はないと判断した。ご家族の方に来てもらい、病状を説明。視床部の脳出血は内因性の脳出血では好発部位の一つであり、たまたま偶然、こちらに移ってきた日に発症したのであって、転院したことなどが誘因となったわけではないこと、脳の深いところの出血なので手術で治療する場所ではなく、血圧をコントロールし、リハビリを行なうのが治療であるが、血圧も安定しており、積極的に転院する必要はないことなどを説明した。高齢の方であり、ご家族には、侵襲的な治療は希望されないこと、急変時にいわゆる蘇生処置は行なわないことについては意思を確認、同意してもらった。


 翌日、患者さんの回診に向かうと、前日はろれつが回らないながらもおしゃべりしていたのが、呼びかけても開眼はするものの、すぐ閉眼。右上下肢は前日は不全麻痺だったのが、完全麻痺になっていた。

「あれ?病状が進行している」

と思った。確かに、脳血管障害の患者さんでは、病巣周囲の神経組織が、遅れて浮腫による圧排などで障害され、発症から1週間程度は病状の進行が見られることがしばしばあるのだが、それにしても病状の進行が激しいと思った。その日は技師の先生が来られない日だったので、午前診終了後に私がCTの機械を動かして、もう一度CTを確認した。出来上がった写真を見ると、明らかに前日より出血巣が大きくなっていた。

 九田記念病院でたくさん高齢の脳出血患者さんを担当したが、頭部CTのfollowで出血巣が大きくなっている、ということはほとんど経験したことがなかった。また、この方は、抗血小板療法、抗凝固療法は全くされていなかった。血圧も高くなく、抗血小板療法、抗凝固療法を受けておられないにもかかわらず、出血巣が大きくなっていることに驚いた。しかし手術適応がないので、いかんともしがたい。入院時は普通に食事をとられていたが、この状況では食事は不可能であり、晶質液の点滴を開始した。


 さらにその翌日には、呼びかけにも反応しなくなった。痛み刺激に身体をよじる程度であり、JCS-Ⅲ-200,昏睡状態となっていた。3日間連続で頭部CTを取るのもどうか、とも思ったが、やはり確認は必要と考え、再度私がCTを動かして頭部CTを撮影、画像を見ると、前日よりさらに血腫は増大しており、周囲は浮腫を思わせるLDA(Low Density Area)が見られ、midline shift(脳はCTで見ると、左右対称なのだが、片方の脳が出血、浮腫、腫瘍などで大きくなると、病側の脳が正常な脳を圧排し、本来真ん中にあるはずのものが押しやられている所見。直訳すると真ん中の線がずれている、という意味)も見られ、血腫と脳浮腫で周囲の脳が圧排されていることが分かった。おそらく脳ヘルニア(脳の入っている頭蓋内は骨で囲まれており、前述のように脳が腫れ、正常な脳を圧排する状態になると、命を掌る脳幹部も圧迫され、命に関わる状態になる。この状態を脳ヘルニアという)を起こしているのであろう。きわめて予後不良な状態である。院内にはマンニトールやグリセオールなどの脳浮腫を改善させる薬は置いていなく、救命のためには外減圧術(頭蓋骨を外して、腫れている脳にかかる圧力を減らす手術)などをするのかもしれないが、それをしたところで出血前の状態に戻るわけでもない。侵襲的な治療は行なわない、ということでもあり、再度ご家族においでいただき、この3日間の病状の変化、画像の変化をお伝えし、

 「現状では昏睡状態となっており、いつ旅立たれてもおかしくない状態です」

 とお伝えした。ご家族の方も、数日前までは元気だったのに、急にこのような状態となられ、大きくショックを受けておられたが、

 「何卒よろしくお願いいたします」

と私におっしゃられて帰って行かれた。


 予後不良であるので、点滴量は500ml/日に減量し、褥瘡ができないようにベッドにエアマットを入れ、ケアに重点を置いた治療とした。その後はCTのfollowは行なわないこととした。心電図モニタをつけるとCheyne-Stokes呼吸が見られ、呼吸中枢にも障害が出ていることが分かった。患者さんはよく頑張られたが、その後1ヶ月ほどで旅立たれた。


 転院した当日の晩に脳出血を起こされたこと、血圧も安定し、抗血栓療法も行なっておられない方で、発症当日のCTでは中程度の大きさの視床出血だったのが日を追うごとに血腫が増大し、深昏睡となられてお亡くなりになられたこと、これも運命なのかなぁ、と思いながら、こんなこともあるものだ…、と切なくなったことを覚えている。


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