第35話 連綿と続く医学の先人に感謝
とある月曜日、外来にカルテが回ってきた。カルテを開けてみると、前日の日曜日に受診歴のある方だった。3日前にA型インフルエンザに罹患し、タミフルを処方されている。前日に全身がだるくて力が入りにくい、という主訴で来られ、当直医は「タミフルの副作用」と判断し、タミフル内服中止の指示を出している。カルテを見た第一印象は
「なんじゃこりゃ?」
だった。カルテを見ても、患者さんの病気の流れがよく分からない。とりあえず、患者さんを呼び込むこととした。
患者さんは私と同年代、40代前半の男性。診察室に入ってくる様子がまずおかしかった。両膝を突っ張った状態で、ご家族に診察室のドアを開けてもらい入室してきた。ご両親も一緒に来ておられ、診察室に入ると、まずお父様が訳の分からないこと(おそらく苦情)を言い始めた。もう何が何だかわからない。すると、ご本人が動かしにくそうに手を動かしてお父さんを制した。診察室は静かになり、ご本人にお話を伺った。
年齢は40代の男性、職業は商店の雇われ店長とのこと。3日前に発熱、鼻汁が出たので当院を受診。抗原検査でA型インフルエンザと診断され、タミフル、カロナールを処方された。それを内服し、すぐに熱は下がり、2日前は体調は悪くなかったとのこと。しかし前日、起床しようとすると身体の力が入らず、起き上がるにも少し苦労する状態となったことに気づき、日曜日だが、当院の時間外外来を受診したとのこと。当直医は、診察をして、
「タミフルの副作用かもしれないから、内服を中止するように」
と指示されたと。タミフルの内服をやめたが、今日は身体を起こすのも、動くのも自分ではままならなくなったので、もう一度受診した、とのことであった。
「入ってくるときに膝を伸ばしたままだったのは、普通に歩くと膝折れしてしまうからですか?」
と聞くと、
「そうです」
とのこと。四肢の筋力を徒手筋力テストで確認すると、数日前まで元気に仕事をされていた人とは思えないぐらいに筋力が低下しており、抗重力運動がかろうじてできる程度であった。腹部診察をしようと思い、立ち上がって、ベッドに移ってもらおうとすると、両手を膝につき、身体を前にかがめて、手でよいしょ、よいしょと太ももをつかみながら身体を起こしていく。教科書的なGowers兆候だった。
急激にこのような筋力低下を呈し、しかし意識障害はなくせん妄などの症状もない、と考えると、真っ先に思いつくのは”Guillain-Barre症候群”である。インフルエンザなどの感染から、2週間ほど遅れて発症するのが一般的で、そこは時間的には合わないが、他に思い当たる病気はすぐに浮かばない。何が「タミフルの副作用」なのか、どこを診ているのだと腹が立ったのだが、それはそれとして、このような筋力低下疾患で困るのは呼吸筋にマヒが出て、呼吸が十分にできないことである。当時は血液ガス分析の機械が動いていたので、一般採血と同時に静脈血で血液ガス分析を行なった。静脈ガスはPCO2は動脈ガス+5mmHgと大まかに考えられているのだが、血液ガスの結果はPCO2 60mmHgと、明らかに二酸化炭素が貯留しており(静脈血なら、45mmHgくらいが正常)、緊急度の高い状態と判断した。ご家族、ご本人には、
「タミフルの副作用ではなく、Guillain-Barre症候群という病気の可能性が高いと思います。ご本人は今、呼吸苦は感じておられませんが、血液検査では身体の中に二酸化炭素がたまってきており、呼吸筋にもマヒが出てきています。命にもかかわることがある重症の状態です」
と説明した。診療所でこれ以上できる検査はなく、緊急の対応が必要なので、受診できる病院をすぐ探します、と伝えて、病院を探した。近隣の神経内科のある急性期病院に連絡したが、
「その病態なら、大学病院に連絡してください」
とのこと。O医科大学の神経内科に連絡。
「呼吸筋のマヒを伴うGuillain-Barre症候群の患者さんを緊急で転送したい」
と伝え、データ、紹介状を急ぎ作成しFaxを送った。15分ほどかかったが、大学病院から、
「すぐ来てください」
との連絡があった。救急車を要請し、患者さんは大学病院に搬送。後日、大学病院より、
「典型的ではないが、Guillain-Barre症候群として治療を行ない、状態は改善した」
との連絡があった。
ちなみに、「膝をぴんと伸ばした状態で歩いてきた」ということで、何故筋力低下があることが分かったのか、ということだが、子供たちが時々いたずらでする「膝カックン」をご存知だろうか。立っている人の膝を、後ろから自分の膝で軽く押してやると、ひざがカックンと折れて、倒れそうになるのである。実際にそれで転倒し、高度の障害を残した人もいるので、行うべきではないいたずらなのだが、なぜ膝カックンで倒れそうになるのか、というと、膝関節が完全に伸展している状態では立位を保つのにほとんど筋力を使っていないからである。膝関節が完全に伸展すると、膝関節を構成する大腿骨遠位と、脛骨近位のアラインメントが少しずれ、膝にロックがかかった状態になるのである。その状態になると、足は靭帯の張力だけで膝関節の伸展が保たれ、膝の伸展に筋力はほとんど使っていないのである。ところが、少しでも膝関節が屈曲するとそのロックが外れてしまうので、途端に膝関節の屈曲位で動かないようにしようとすると、かなりの筋力を要するのである。
この方が、膝をピンと伸ばして歩いていたのは、膝関節を支える筋力がなく、伸展位でないと、膝がカックンと折れてしまうからである。
その午前診の終了後、事務スタッフから、
「あの患者さん、保谷先生に診てもらってよかったです。最初はご家族は源先生の受付に名前を書こうとしていたので、『絶対こちらの保谷先生の方に診てもらった方がいいです』と強く勧めたのです」
と言ってもらった。その信頼に応えられて、よかったと思った。
患者さんを診断、転送した後は
「やった!ちゃんと診断できて、呼吸機能も評価して転送ができた。我ながら立派だなぁ」
と少し鼻高々だったのだが、しばらくして考えると、私が正しく診断に辿り着けたのは、師匠が私を鍛えてくれて、内科医の末席を汚す程度には内科の力をつけてくださったおかげであり、また、Guillain-Barre症候群という病気を発見した先生方、その特徴をとらえてくださった、偉大な先人たちのおかげで、私が診断に辿り着けたのだなぁ、ということに気づいた。私が正しく診断できたのは、本当は、たくさんの先人たちの努力の積み重ねの上に載っていただけだったのだと、鼻高々だった自分を恥じた。
まれな疾患を経験し、自分の経験値を上げる。そして、先人たちの発見に感謝し、指導してくれた師匠に感謝すること、それは自分の謙虚さを保つために必要なことだなぁ、と強く反省した次第である。
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