第34話 薄い一枚の盾

 私の記憶にはかすかにしか残っていないのだが、小学1年生の時、インフルエンザワクチンを接種した際、2回目の接種で(母曰く)目に強いアレルギーが出たらしい(私はしばらく眼科に通ったのは覚えているが、そういう理由だったのかどうか記憶にない)。そんなわけで、それ以降私はインフルエンザワクチンを受けたことがない。


 私が小学生のころは、毎年、日本脳炎とインフルエンザは学校で集団接種をしていた。あいうえお順で出席番号をつけられると、私はかなり後ろの方になる。なので、日本脳炎のワクチンの時は、先に打った友人に

 「なぁ、痛かった?」

 と聞きまくり、自分の番が来るまでおびえることになっていたのだが、インフルエンザの時は、みんなが嫌な思いをしてワクチンを打つのを横目で見ながら、ラッキー、なんてアホなことを考えていた。それがたたったのか、小学4年生か5年生のころに、結構ヘビーなインフルエンザを発症し、1週間ほど高熱が続き、解熱後、学校に通い始めても、体調が戻るまで一か月近くかかったことを覚えている。


 さて、小学生なら

 「痛い思いをしなくてラッキー!」

 で済むのだが、幸運なことに、というか、因果なことに、というか、内科医を職業として選択してしまったので、毎年たくさんのインフルエンザの患者さんの診察をすることになった。しかも、母の言うことが本当なら、再度インフルエンザワクチンを打てば、おそらくもっとひどいアレルギーが出るであろうから、失明したりする可能性もある。そうなれば私も家族も路頭に迷うことになる。


 そんなわけで、毎年、インフルエンザワクチンは打たずに仕事をしている。初期研修医1年目の時は自分の仕事を甘く考えていたのか、あまりマスクを着けずに仕事をしていたので、見事に感染した。ちょうどER当直の日で、当直が始まろうか、という頃に熱感が出現。同期に抗原検査をしてもらうと見事にA型インフルエンザが陽性だった。ER当直のリーダーだったお地蔵先生に、

 「A型インフルエンザでした」

 と報告すると、

 「スタッフに感染すると、とても迷惑なので、すぐ帰ってください!」

 とのお叱りと、タミフルをもらって強制送還となった(もちろん診察料は払っている)。運よく薬がよく効いて、翌日にはほぼ解熱したが、5日間、自宅療養となり、ほかの先生方に迷惑をかけてしまった(研修医1年目で戦力としては大したものではないので、それほどみんなが困ったわけではないとは思うが)。そんなわけで、それからは仕事の時は必ずマスクをするようになった。普通のゴム製のマスクだと、ゴムが耳に当たってちぎれそうに痛い(眼鏡とゴムの両方で耳を刺激するからか?)ので、外科の先生が手術室で使うようなヒモ型のマスクを使っていた。普段から眼鏡をかけているので、九田記念病院時代は、マスク、しっかりした手洗い、眼鏡で、それ以降インフルエンザにかかることはなかった。いつぞや、新型インフルエンザが流行したとき、私以外の家族3人がインフルエンザに倒れたが、私だけが無事だった(家族はみんなワクチンを打っていたのだが)。


 診療所に移ると、外来を担当する時間が増えたので、その分、インフルエンザの患者さんとの接触も多くなった。マスクについては、出入りの業者さんに頼んで、私の使う用にヒモ型マスクを仕入れてもらい、そのマスク1枚とメガネ、あとしっかりした手洗いで、毎年のインフルエンザシーズンを乗り切っていた。誰が持ち込んだのかわからないが、時に病棟で入院中の患者さんがインフルエンザを発症することが年に1,2度あり、その時は、インフルエンザの患者さんは個室に移動、同室者には予防投薬としてタミフルを飲んでもらい、ご家族に連絡して予防投薬を開始したことを連絡していた。


 ある年、とある(癖の強い)かかりつけ患者さんが、熱、鼻汁、咳を主訴に来院された。おそらくインフルエンザだろうと思いながら、患者さんを診察。胸部聴診のため、患者さんのそばに近づいたところで、患者さんが全く遠慮のかけらもなく、思いっきり

 「はっくしょ~~ん!!」

 と大きなくしゃみをされた。くしゃみが出そうなら、鼻や口を手や肘で押さえるのが礼儀だと思うのだが、全くそういうことはなく、眼鏡の上から、患者さんのしぶきが顔中にかかった。その場ですぐに顔を洗いに行く、というのも失礼かと思い(後で考えると、患者さんの方がよほど失礼だよなぁ、と思った)、診察を続け、鼻咽頭から検体を採取し抗原検査を施行。検査の間、待合室で待ってもらい、その間に慌てて石鹸で顔を洗い、目は水道水ですすぎ、マスクも新しいマスクに変えた。患者さんはA型インフルエンザと診断、投薬を行ない帰宅となった。


 その数日後、なんとなく私が熱っぽい。熱を測ると38度を超えていた。自分で自分の鼻に綿棒を突っ込み、抗原検査を行なったところ、見事にA型インフルエンザだった。さすがに顔中に飛沫をかけられたら、たまったものではない。やはり感染するのだ。院長の源先生に報告し、抗ウイルス薬を処方していただき、解熱後48時間、発症後5日間のルールで休むことになった。


 診療所は医師が多いわけではないので、他の先生にはずいぶんご迷惑をかけてしまった。その後は、インフルエンザにかかることなく診療所で仕事をしていたが、すごいなぁ、と思うのは、私以外の3人の医師は、インフルエンザの流行期でもマスクをせずに仕事をして、それでも全くインフルエンザにかからない、ということである。こまめに手を洗っておられるか、というとそういうわけでもなく(こらっ!)、何十年と仕事をしていると、本当に免疫ができるのだろう。上野先生は、

「もう何十年も、インフルエンザにかかっていないよ」

とおっしゃっているほどであった。


 私はというと、やはりそこまでの自信はなく、眼鏡も、普通の眼鏡ではなく、医療用ゴーグルに近いものがいいなぁ、と思っていた。今、COVID-19の対応をしている医療スタッフはみな、医療用ゴーグルをつけているが、その当時に、普通の診療所の診察室で、そんな医者が出てきたらびっくりするよなぁ、と思っていたところ、花粉症の人用の

 「花粉が入ってこないメガネ」

 が発売されていることを知った。花粉症のスタッフがその眼鏡をかけているのを見たのである。

 「これはいいかも!」

 と思い、眼鏡屋さんに行くことにした。花粉症用の眼鏡のフレームを買い、レンズは自分の眼鏡に合わせて度をつけてもらった。

 「これでこの冬は大丈夫」

 と思っていたら、その年の冬は私が体調を崩し、長期休業することになった。


 その後は、COVID-19が流行し始め、いいタイミングでその眼鏡を買うことができた、と思っている。今も、職場では、花粉症用の眼鏡をつけ、ヒモ型のマスクを装着し、こまめに手洗い、手指消毒をして、仕事をしている。もちろん、医療従事者なので、ワクチンも2回接種しているが、常に自分が感染しないように、自分が感染を広げないように、注意を払いながら毎日の仕事を行なっている。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る