第23話 FIREの先達

 いつのころからか、私の外来に来られるようになったBさん。軽度の高血圧と脂質異常症で定期的に投薬と、半年に一度、血液検査でfollowしていた方だった。私の外来に来られるようになった最初のころは、「足底筋膜炎」を持っておられ、整形外科にも通院され、ステロイドの注射なども受けておられたとのこと。

 「趣味のゴルフに行くでしょ。ラウンドしていたら、だんだん足の裏が痛くなって、なかなか楽しめないんです。テニスもするんですけど、やはり足の痛みで、自分のレベルが落ちているなぁ、って感じるんです」と仰っていた。


 医者と言えばゴルフだテニスだ、というイメージがあるようだが、少なくとも私は日常の仕事に疲れて、休みの日にスポーツをする、そんな気力もなかった。子供時代、学生時代も本当にお金がなかったので、テニス、ゴルフ、スキーなどとは全くの無縁だった。そんなブルジョアなスポーツ、プロレタリアートである私には全く関係のないスポーツである(ドレスコードのあるスポーツは嫌い!(貧乏人の僻み))。実際問題、いつ呼び出されるかもわからないのに、山奥に行くなんて恐ろしくてできない。


 そんなわけで、ゴルフやテニスの話をされても、こちらは全くの初心者(いや、初心者ですらない)。外来診療の大切なことの一つは、患者さんの話を聞き、コミュニケーションをとって信頼関係を気付くことと、お話の中で、疾患に関連するような訴えがないかどうかを注意深く聞くことだと思っている。なので、Bさんの話は楽しく聞かせていただいた。Bさんご自身も、明るく爽やかでフレンドリーな方、少し診察も楽しみにしていた。


 Bさんの年齢は60代後半か、70代前半かくらいの、普段診察している患者さんの中では若い方に属しておられた。年齢的には仕事を退職してすぐくらいか、という印象だったが、それだけゴルフやテニスを楽しめるって、すごくリッチだなぁ、と思っていた。


 最古参の看護師さんからの情報では、もともと大企業に勤めておられたそうだが、若いころから資産運用に励み、職場を早期退職して、資産運用で生活されているとのことだった。今話題になっている“FIRE”のまさしく先達であった。先を見通す力がおありだったのだろう。


 実際にBさんは生活を楽しんでおられた。しばらくすると足底筋膜炎も落ち着き、ゴルフやテニスを楽しまれ、時には旅行にも出かけられていた。トヨタの博物館で旧車を見学されたときの話を伺った時は、私も車やバイク、鉄道も好きなので、大変興味深くお話を伺ったことを覚えている。


 Bさんの体調は良く、最初に私の外来に来られた時よりもすごく血圧のコントロールもよくなり、降圧剤は本当に少量にまで減量できた。Bさん自身も体調不良を感じてはおられなかったのだが、ある時の定期採血で、LDHだけが300を超えていた。


 「LDHは、身体のすべての細胞が持っている酵素で、身体の中で細胞が激しく壊れるような状況の時に上昇します。ただ、お身体を診察しても、今回の採血の他の項目を見ても問題になるようなものはないので、2か月後に採血しましょう。熱が出たり、何か不具合があればすぐご相談くださいね」

 とお伝えし、followとしたが、採血をするたびにLDHが上昇、ついには600を超えるようになった。


 「Bさん、LDHが600を超えるのは、やはり何か身体の中でおかしなことが起こっているサインだと思います。それが何かは、診療所でできる範囲の検査ではよく分かりませんでした。大学病院できっちり調べてもらいましょう」

 とお話しした。悪性腫瘍が一番心配なのだが、体重もそれほど変化していない。ただ、やはり悪性リンパ腫などは鑑別の上位に上がると思われた。大学病院の総合診療科あてに紹介状を作成。腫瘍炎症シンチグラムやPET-CTなども含め、原因検索を依頼した。


 Bさんは2週間ほど入院され、先に述べた核医学検査も含め、全身検索を行われたそうだが、やはり大学病院でも「原因はよく分かりません」とのことだった。


 内服中の薬を変更して経過を見たが、やはりLDHは600を超えていた。ただ、ご本人はお変わりなく通院されていた。結局、私がBさんをfollowしている間には、原因は不明のままで、ご本人もお元気なままだった。深刻な病気の兆候が1年以上のfollowでも見られなかったので、やはり本当に原因は不明であった。Bさんは、COVID-19流行前はテニスやゴルフ、旅行を楽しまれ、外来で楽しくそのお話を聞かせてくださった。


 BさんがうまくFIREできたこともすごいと思うが、Bさんのように明るくてフレンドリーな性格が何よりもうらやましいなぁ、と思った次第である。


 プロの将棋棋士で、株主優待を利用してうまく生活をされている桐谷さん。彼が中学生向けに書いた本を目にしたが、配当金での収入が年間700万円とのこと。それだけあれば仕事せずとも問題なく生活できると思うが、その配当を手にするための株式資産は4億円以上あるとのことだった。今私は、自分のお小遣いで少し株を買っているが、その規模は桐谷さんの1/200程度、なので、配当が年間で35000円程度。


 うん!FIREは無理だ!やはり私のような、才覚のない庶民はコツコツと働くことが一番である。それに、やっぱり自分はこの仕事が好きなんだと思う。仮に宝くじが当たって、大金を手にしても、やはり医者の仕事は続けていくと思っている。

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