第22話 やっぱりはまる、落とし穴

 とある土曜日、私と北村先生が午前の外来をしていた時、受付に、2軒隣の歯科クリニックから意識障害の患者さんが連れてこられた。なんでも、待合室で急に意識を失ったらしい。私たちが外来をしていたので、上野先生がその患者さんを診てくださった。


 私の外来が終わろうとするころ、処置室から、

 「あなたは私を馬鹿にしているのですか!」

 と上野先生の怒鳴り声が聞こえてきた。診察を終え、私も処置室に向かった。


 「先生、どうされたのですか?」

 と先生に声をかけると、

 「この患者さん、自分の名前は言うのに、そのほかのことはニヤニヤするだけで、何も答えないんだよ。私を馬鹿にしているとしか思えない!」

 と怒っておられる。私は患者さんの方を見た。

 「意識を失った」

 という主訴だったが、自発的に開眼されている。

 「お名前は?」

 と声をかけると、歯科の診察券に記載された名前を答えられる。

 「生年月日を教えてください」

 と聞くと、困ったようにニヤニヤして、生年月日を答えられない。その態度を見て、上野先生は怒っておられたのだが、生年月日を答えられないのは意識が障害されていることを示唆する大事な所見なのである。意識レベルはJCS-Ⅰ-3、明らかな意識障害である。しかし明らかな片麻痺は認めなかった。


 「上野先生、患者さんは先生を馬鹿にしているわけではなくて、意識レベルが明らかにおかしいのですよ。JCSでⅠ-3です」

 と伝えた。上野先生は怒りを解かれ、

 「あぁ、保谷先生、そうなのか。さっき血液検査をしたけど、院内での緊急項目には特に異常はなかったよ」

 とおっしゃられた。


 九田記念病院のERで、同様の症状の患者さんで、前大脳動脈の閉塞に伴う広範な前頭葉の脳梗塞の症例を経験したことがあるので、私は上野先生に、

 「私が研修医の時に経験した脳梗塞の症例で、広範な前頭葉の脳梗塞の患者さんが、このような症状を呈していました。広範な前頭葉の脳梗塞の可能性が高いと思います」

 と伝えた。上野先生も

 「それなら、すぐに転送しないといけないね」

 と言われ、私が転送先を探し、O大学病院の脳卒中グループが受け入れをOKしてくれた。上野先生が救急車に同乗し、患者さんを大学病院に搬送した。


 2日後の月曜日、土曜日の採血結果が帰ってきたのだが、その結果を見て、私はひっくり返りそうになった。この患者さんの血糖値が35だったからである。


 ERでの落とし穴をまとめたよい教科書である「研修医当直御法度」という本を学生時代から愛用していたが、そこに、

 「意識障害の時は『Do DON’T』」

と記載されている。DON‘TはDextrose(ブドウ糖)、Oxygen(酸素)、Naloxone(ナロキソン:麻薬の拮抗薬)、Thiamine(ビタミンB1)のことで、意識障害ならまずそれを投与しなさい、と書いてある。その章の提示症例はまさしく私たちと同じように、意識障害の患者さんを診察した研修医が、頭部CTを撮れる病院に患者さんを転送させようと判断。救急車を呼んで救急隊が到着したところで検査室から『低血糖です!』と連絡があり、ブドウ糖を投与すると意識が改善し、「どうしよう」と研修医が途方に暮れる、という症例が書かれていた。


 振り返ってみると、診療所では、一般の採血では血糖値は測定されず、血糖を測定したいときには、簡易血糖測定器で測定しないといけないのである。もし私がこの患者さんを最初から見ていたら、必ず血糖測定も指示していたと思う(重症の人が来た時には、診療所でできる検査は絶対にすべて行なう、と心に誓っているので)。残念なことに、途中から診療に加わったことと、九田記念病院では緊急採血項目に血糖値も入っているので、上野先生が

 「血液検査には問題がない」

 と言われたときに、無意識に血糖値が正常と考えてしまい、低血糖を除外してしまったのであった。九田記念病院研修医時代の「失敗症例」に必ず出てくるような失敗を今頃になってしてしまった。


 みんながはまりやすい落とし穴は、やはりふとした瞬間にはまってしまうものだ、と改めて痛感した。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る