第18話 いや、そう言われても・・・。
とある月曜日の夜、私は夜診&当直だったのだが、夜診終了後、その時間帯はoffのはずの源先生が私服姿で診療所に姿を見せられた。
「保谷先生、私のかかりつけの患者さんなんやけど、入院で診てほしいんです」
とのこと。患者さんはKさん、ご夫婦で古くからの当診かかりつけの方。80歳前後の男性。軽度の糖尿病で定期通院されており、長い間少量の内服薬でコントロール良好であったのだが、1か月前から類天疱瘡を発症。ステロイド外用で改善せず、PSL 20mgを開始。類天疱瘡は改善してきたが、血糖コントロールが不良となってきていた。1週間前に受診した際に採血をしており、血糖値は400台。その後、急激に食欲が落ち、2日前から呼びかけにも反応が薄くなってきたとのこと。その日の午後からは呼びかけにも反応しなくなり、夜に診療所に連絡。源先生が往診に行って来られたとの話だった。奥様は
「診療所で看取ってほしい」
と希望されている、とのことだった。長年のかかりつけの方で、
「当診で看取ってほしい」
と言われれば、受けざるを得ない。源先生に
「わかりました。今から来てもらってください」
と伝え、先生から奥様に連絡。Kさんは救急車で搬送されてきた。
外観はsick、ぐったりしているが頻呼吸は見られず。血圧は収縮期で80台と低値。意識レベルは疼痛刺激に身体をくねらせて嫌がるので、JCS-Ⅲ-200、心音、呼吸音に異常を認めず。腹部平坦、軟、圧痛ははっきりしない。下腿浮腫を認めず。水疱の瘢痕化したものと思われる皮膚病変が散在している。心電図は明らかな虚血性変化を認めない。院内採血ではWBC 10000,CRP 5台と炎症反応は高め、血ガスを確認したがpHは7.35とアシデミアは認めず。簡易血糖測定器ではHIと表示が出て、振り切れていた。なので血糖値は正確な値はわからず。ただ、診断としては高血糖高浸透圧症候群と思われた。Na値がわからないのも管理する上で非常に厄介であった。
本来なら、ICUで管理し、半生食(生理食塩水の半分の濃度の輸液。0.45%食塩水)を大量に投与、レギュラーインスリンをNa値、血糖値の動きを見ながら調整しつつ持続投与して管理するのが適切な医療であるが、奥様は
「どうしても診療所で看取ってほしい」
とおっしゃられる。なので転送するわけにはいかない。また、輸液についても大きな問題があった。九田記念病院では点滴の種類はほぼそろっており、末梢輸液では生理食塩水(Na 154mEq/L)、乳酸化リンゲル液(Na 130mEq/L)、1号液(Na 100mEq/L)、3号液(Na 35mEq/L)、10%及び5%ブドウ糖液(Na 0mEq/L)、点滴用蒸留水(Na 0mEq/L)があった。半生食を必要とするときは、点滴用蒸留水と10%食塩液、50%ブドウ糖液を組み合わせて、浸透圧を適切に調整した半生食を用意できたのだが、診療所には生食、リンゲル液、1号液、3号液しかない。点滴用蒸留水、10%食塩液がないので、半生食が作れないのである。また、急速に血糖値、Na値を下げることについても、超えてはいけない速度があり、以前に書いたようにNaも外注、血糖値も簡易血糖測定器ではHiの状態では正確な値がわからないので、急速に血糖値、Na値を下げることはリスクが高い。
「診療所で看取ってほしい」
と言われても、治療の術があるものを放置しておくわけにはいかない。
「いや、そう言われても…」
と思った。無茶振りである。
なので、逆のことを考えた。急速に血糖やNaを下げるのは止めよう。身体のホメオスタシスを保ちながら、ゆっくり血糖や電解質を整えていこうと考えた。診療所の装備で戦うにはそうするしかないと考えた。インスリンは強化療法で行く。ランタスを6単位、ノボラピッドを10-6-8単位で始めよう。輸液は3号液を使う。1日1000mlなら、急速にNaが低下することもないだろう。そのように考えて管理を開始した。週に2回採血を行なうこととした。血糖については簡易血糖測定器でHiが出なくなるまでは1日3回測定。その後はインスリンの量を考えながら、回数を考えよう、と思った。入院第3病日にようやく入院時の採血結果が届いた。血糖値1068mg/dl、Na 148との結果であった。高血糖高浸透圧症候群で、さらに高ナトリウム血症も非常に強そうだと思われた。
一般的には、血糖値が上昇するほど、検査データのNa値は低くなる(偽性低ナトリウム血症)ことが知られており、DKAなど、血糖値が異常高値となる病態ではNa 120台くらいになっていてもおかしくない(教科書的には血糖値が100上昇すると、Naは0.6~1低下するとされている)。にもかかわらず、Na値がやや高Naに傾いており、おそらく相当の高ナトリウム血症が隠れているはずだと思った。
入院第5病日くらいで、ようやく簡易血糖測定器で600代の数字が見られるようになった。具体的に数値が測定できるようになれば、インスリンの調整も容易になる。インスリンは強化インスリン療法の固定打ち+スライディングスケールでタイトレーションを行なった。定期的な採血では最もNaが上昇したときにはNa 180近くまで上昇したが、その後は徐々にNaは低下を始めた。血糖値、電解質が正常値に近づくまで、3週間ほど時間がかかったが、何とかICUに入ることもなく、急速な血糖低下、Na低下に伴う合併症も起こすことなく、検査値と、全身状態を安定化させることができた。
総合内科医として全力を尽くしてコントロールしたのだが、大前提として、正しい治療を行なったわけではないので、この努力は誰からも褒めてもらえない。学会発表なんて到底できるものでもなかった。
この経過中に、細菌性肺炎を1回、β-D-グルカンの上昇した肺炎を1回経験した。後者についてはST合剤で改善したので、おそらくニューモシスチス肺炎だったのだろう。患者さんは意識は清明となり、元気を取り戻された。ただ、3週間の臥床生活となったため、脚力低下が著しく、自宅退院は困難となった。なので、施設調整を行ない、施設で生活してもらうこととなった。その後、Kさんは施設で穏やかに過ごされていたそうである。
それから1年ほど過ぎたある日、AM 7:30頃に、施設で入所者の方が意識を失った、とのことで当診に診察依頼の電話があった。その時間帯、当直医は私だったのだが、どういうわけか施設からの電話にはすでに出勤していた源先生が対応し、私には何の連絡もなく
「来てください」
と答えていた。その後何も知らずたまたま外来に降りてきた私に源先生は、
「先生、ごめん。ついさっき、施設から意識障害の人を見てほしい、という連絡があったので『来てください』と返事しておいた。もしかしたらCPAかもしれない。あとはよろしく!」
と言って、そのまま外来を去っていった。
「そんなこと言われても…」
と思った。めちゃめちゃ理不尽である。ほどなくして救急隊から連絡があった。意識を失ったのはKさんであった。しかもやはりCPAであった。睡眠中にCPAになられたのかなぁ、もしそうなら死亡確認だけで済むかなぁ、などと甘いことを考えていた。救急隊が到着、CPRをしながら、Kさんが搬入されてきた。同乗してきたスタッフの方に状況を確認したところ、
「普通に起床して、車いすに移り、食堂のあるフロアにエレベーターで移動するところでした。エレベーターのボタンを押してエレベーターが来るまでの間に、別の施設利用者さんを車いすに乗せ、エレベーターホールに連れて来たところ、Kさんがぐったりしていたのですぐにスタッフを集めCPRを始めました」
とのことだった。CPAになったのはつい先ほど、しかも目撃者がおられ、最初からCPRの輪がつながっているではないか。これは本気でCPRを行なわないといけないパターンである。医師一人、看護師さん一人のところに本気でCPRを行なわないといけないCPAの患者さんを取る、なんて正気の沙汰とは思えない。すぐに除細動器の電極をKさんに付けて波形を確認。モニタ上はasystoleであった。救急隊の方に残ってもらうようお願いし、心臓マッサージを助けていただいた。私は枕元でアンビューバッグをもみ、一緒に当直した看護師さんに介助してもらい気管内挿管を行なった。看護師さんにはさらに、ルート確保の指示、ボスミン投与の指示を出し(看護師さん一人でとても大変!)、私は腕時計で時間を見ながら(つまり私がタイムキーパー兼CPRリーダー兼人工呼吸担当)、適切なタイミングでcheck pulseを行なった。モニタ上はずっとasystoleのままで、誘導を変え、倍率を変えてもasystoleのままであった。奥さんが急いで診療所に来られ、私がアンビューバッグをもみながら現状を説明。約30分近く蘇生処置を行なっていたが、心拍は再開せず、
「これ以上蘇生処置を続けても、いたずらにお身体を傷つけるだけになります。Kさんは頑張られました。ではこれから私が診察させてもらいます」
とお話しし、CPRの中止を宣言。対光反射の消失、自発呼吸の停止、頸動脈の拍動停止、心音、呼吸音を聴取せず、その時点で死亡確認とした。
死亡確認をした後に悩むのは、死亡診断書をどうするかである。施設ではそれまでお元気で過ごされており、直前まで普段と変わらない状態であったとのこと。その状態から急速に心肺停止となっており、当診に到着時の時点では心肺停止状態であった。ということを考えると、本来は「異状死」として死体検案を行ない、そのうえで死体検案書を書くのが筋である。少なくとも、私には死亡診断書を作成することができない。警察に連絡して死体検案かなぁ、と考えていたら、施設担当医から連絡があり、施設医の先生が死亡診断書を作成します、とのことだった。なので、死亡診断書の問題も解決し、Kさんはいったん施設に戻られた。
原因ははっきりしないが、おそらくKさんに何かのきっかけで致死性不整脈が起きたのだろうと推測している。予兆もないところで、本当の意味で一瞬で命を奪う疾患は、クモ膜下出血、脳幹出血、高度の肺塞栓、致死性不整脈、左冠動脈主幹部梗塞くらいしか思いつかない。あとは数分でも苦しむ時間があるからである。
それにつけても、このKさんのことについては、源先生はずいぶんと無茶振りをされたものである。特に、CPAかもしれない、と言いながらその現場を離れるのは、本当にいかがなものか、と思われる。
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