第4話 To Err is human.

 50年近い診療所の歴史と信頼感、原則として時間外でも対応すること、年齢にかかわらず(ワクチン接種も考慮に入れるとまさしく『ゆりかごから墓場まで』)対応することから、診療所には、時々、診療所レベルでは対応が難しい患者さんがやってくることもある。


 ある日の午後、時間外で1歳の子供を抱えたお母さんが

 「卵を食べた後、ゼーゼーして身体が赤くなってきた」

という訴えで飛び込んできた。

 「保谷先生、診てください!」

 と外来から連絡があり、大急ぎで外来に駆け付けた。


 酸素化は維持できているが、胸部聴診ではwheezeを聴取。全身に膨疹が散在していた。明らかにアナフィラキシーである。お母さんに体重を聞くと8kgとのこと。

「じゃぁ、ボスミン(アドレナリン)0.08mlを大腿外側広筋に筋注、うまく確保できれば点滴路を確保。抗ヒスタミン薬の注射薬はアタラックスPしかないのでアタPを側管から点滴、H2 blockerの点滴剤は院内に置いていないのでパス。ステロイドはソルメドロールを側管から点滴し、酸素の状態に注意しながら小児科のある二次医療機関に転送(アナフィラキシーでは治療から6~8時間後に”second attack"と呼ばれるアナフィラキシーが再燃することがあるため)」

と考えた。


 まずボスミンの筋注を、と考え、

 「ボスミン 0.08mlを筋注」

と指示を出したつもりが、どういうわけか、口からは

 「ボスミン 0.8ml筋注」

 と言ってしまったようであった。成人の使用量が0.3~0.5mlなので、明らかに0.8mlを8kgのbabyちゃんに打つのはおかしいのだが、言っている本人は「0.08ml」と言っているつもりになっており、全く言い間違いに気づいていなかった。僕の頭の中では、1mlの小さなシリンジにごくわずか(0.08ml)しかボスミンが入っていないイメージが浮かんでいた。また、九田記念病院ERなら、みんなアナフィラキシーへの対応はよく経験しているので、「0.8ml」がおかしい、というのは看護師さんも含め、誰かがすぐに気づいて

 「おかしい!」

と指摘してくれるのだが、あまり大人のアナフィラキシーの経験もなかったんだろうか、だれもおかしいということに気づかなかった。


 紙カルテなので、所見、指示を手書きして、babyちゃんのところに向かうと、ちょうどボスミン0.8mlの入ったシリンジの針が外側広筋に刺さったところであった。そんなにボスミンが多いわけがない。そこで初めて、自分の口から出た言葉が、桁を間違えていたことに気づいた。

 「待って!」

 という言葉と同時に、薬液が注入されてしまった。明らかに私のミスである。すぐに連れてこられたお母さんに

 「大変すみません。私のミスで、薬の量を間違えて、10倍の量を注射してしまいました。薬の効果は短時間で切れますが、激しい動悸などが起こるので、すぐ小児科専門医のいる病院に転送させてもらいます」

と謝罪し、大急ぎで転送の手配を行ない、救急車で、近隣のS病院に転送した。


 事務部長に事の経緯を話し、

 「まず先生からご家族に謝罪してください」

 とのこと。夜にご自宅に連絡。お父さんが出られたので、本日の出来事について再度謝罪した。幸運にもbabyちゃんは、2時間の経過観察で問題なく、ご自宅に帰っておられるとのこと。

 「とにかく、子供が無事でよかったです」

とおっしゃられた。再度

 「本日は大変申し訳ありませんでした」

と伝え、電話を置いた。転送先からも返信が来て、

 「経過を観察しましたが、一時頻拍が見られましたが、30分ほどで改善。帰宅としました」

とのことであった。


 医療ミスの医師側の要因としては大きく二つに分けられて、一つは

「その技術、あるいはその知識がないのに医療行為を行なって患者さんを傷つけてしまう」

 というパターン、もう一つは、

 「その技術、知識はあるのに、何らかの要因で誤った指示をしてしまう」

というパターンである。


前者については「勉強不足」が原因であり、自分が知らないこと、できないことは無理をせず、できる施設に患者を搬送することであり、自分の能力を過信しない、ということが解決法である。

 後者が非常に厄介で、今回の私のように、すべきことは正しく頭の中にあるのに、特別に理由があるわけではなく桁数を間違えて(しかも本人は正しく言っているつもり)伝えてしまったのが原因である。これは”Human Error”と言って、これをゼロにすることはできないとされている。誰しも、ちょっとした言い間違え、勘違いは経験したことがあると思う。医師とはいえ人間であるので、やはりそういったことをするのである。なので、Human Errorに対する対応は、

 「気を付けます」

ではなく、

 「人は間違えるものだ(“To err is human.”)」

ということを前提に、間違えが起きたときに正す、あるいは「誤った指示だ」と注意を出すシステムを構築するが正解なのである。とはいえ、今回のように、私しか対応を理解していない(何で?)、ということであれば、そういうシステム構築も難しいよなぁ、と思った。いきなりの大失敗である。


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