第16話・愛姫はめんこいな


 成実の「姫さん」という言葉がわたしの脳内で「奥さん」に変換されている。これって不倫のお誘い?


(成実。なに考えてるの?)


「政宗には内緒でさ。そしたら姫さんの発言はあいつには黙っていてやる」

「付き合うって? ばっ、馬鹿言わないでよ。あは。やだ。成実ったら何かの冗談? 止してよね? わたしそう言った冗談には慣れてないんだから」


 成実のお誘いにわたしは仰天した。そんなこという人には見えなかったから。笑ってその場を逃げ切ろうとしたわたしの退路を断つように成実が見下ろしていた。


「俺が冗談を言うとでも? 姫さんに初めて会った時から惹かれていたんだ。だから姫さん、元の世界に帰るだなんて言うなよ」

「なぜそれを……!」


 聞き返そうとしたわたしの唇が塞がれていた。一瞬の隙を突かれたのだ。彼の唇がわたしの唇を味わうように触れ合わされる。


「ん……んん……」


 キスなんて生まれて初めての経験。柔らかな感触が唇を通して伝わって来る。誰だっただろう? 初めてのキッスはイチゴのように甘酸っぱいものだって言ったのは。甘酸っぱいのは唇じゃなくて、ドキドキしてるわたしの心だ。


「ああ、なんて可愛いんだ。愛って呼んでもいいよな?」


 唇が離れて呆けてるわたしに、成実が頬ずりして来る。異性とこんなに近い距離で触れあったこともないわたしには、こんな時どうしたらいいのか良く分からない。頭のなかが一気にフリーズした。


「ああ。めんこくて仕方ないぞ。愛(めご)は」

「めん恋?」

「可愛いって意味だ。三春でも年寄り連中が方言で言ってなかったか? おまえの名前の愛(めご)は可愛いって意味だろうが」

「へっ? そうなの?」

「知らなかったのか? おまえの為にあるような名前じゃないか」

「そ。そう……?」

「たまんないな。その初心(うぶ)なところも。ああ、食べてしまいたい」


 彼の声が上擦って聞こえる。わたしはそわそわして来た。


「なあ。愛」


 耳元で囁く言葉がくすぐったくてチョコレートのように甘い。チョコレートの誘惑に流されそうになる。少し齧ってみてもいいかなって思ってしまう。


(でも駄目だよね? こんなのって)


 だってわたしはあの政宗の奥さんなんだもの。いくら相手がいけ好かない相手でもこれじゃあ不倫になっちゃう。非道徳な行動はしちゃいけない。


「止めて。成実……」


 彼の手がわたしの頑なな心を揺さぶるように背中へと回されていた。わたしは彼の思いがけない行動に慄いた。


「好きだ。愛」

「……成実」


 互いの視線が絡みあった時、廊下の方から「成実」と、彼の名を呼ぶ声がして来た。


「小十郎か」


 成実が残念そうな声をあげたが、わたしから離れる様子はなかった。わたしを見つめ続けていた。


「成実。どこだ? 成実?」

「ここだ。小十郎。何用だ?」


 成実がわたしから視線を外さずに応え、髪の毛に触れてくる。小十郎の声が段々と近付いて来るにつれ、わたしは背徳のようなものを感じてドキドキした。小十郎にふたりのこんな場面を見られたならきっと見咎められることだろう。


「成実。まだ愛姫さまのもとにいたのか? 政宗さまがお呼びだぞ」

「分かった。すぐ行く」


 小十郎は部屋に入って来なかった。部屋のなかにわたし達がいるのは分かっていたはずなのに廊下から先に言ってるぞ。と、成実に声をかけ行ってしまった。成実はわたしの額に自分のそれを当てて言った。


「姫さん。また来る」

「成実……」


 額が離れるのが淋しく思われて、わたしは彼の袖を掴む。なんでだろう。成実を前にすると我慢がきかなくなる。


「なんだ? 愛。名残惜しいのか?」

「違うわ」

 

 成実の冷やかしにすぐ手を放すと、その手を掴まれた。


「愛。続きはまた今度な」


 成実が手の甲にキスをしてじゃあな。と、退出して行った。


(もお。ばかぁ。なんて事してくれるんだ。マジ惚れちゃうじゃないか)


 わたしの心は大いに揺れまくった。



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