七 『ティリ』
満月の夜は、たとえ偽物といえども酷く美しかった。けれど、月だけは本物と違って――蝕まなければ眩すぎて見ていられないほど。それでも彼は一人で歩いていた。目指すは、きっと神に祈りを捧げている敬虔な少女。
シリウスは酷く彼女を嫌っていた。同族嫌悪なんてものではない。この世に在ることさえ許したくない存在。彼女も自分と同じく、自分がそこに在ることさえ度し難い怒りをもっているのだろう。
二人はやがて邂逅した。
「……シリウスね」
「ティリ。久しいな。二度と会いたくはなかったがな」
意外だった。祈るわけでもなく、抵抗するわけでもなくただ腰かけているだけの彼女。木製の椅子はあまり居心地がないだろうに、それとも最早その身体でさえ朽ち果てようとしているのか。
ならばあまり時間はない。けれど今度こそは必ず――逃がすわけには、いかなかった。
「ヨルルカはどこ? お前なんかに興味ない。私の玩具、私の――大事な人」
しかし振り向かずとも彼女はその一言だけで――どこまでも不遜で傲慢で高慢で、誰よりも『天使』らしい性質を持っていることが分かる。
たった一人の愛しい人さえ壊さずにはいられない衝動は『天使』が見せる本能だ。どうなっても抗えないその稟性は、『天使』たち害獣指定するまでに至った。
だから彼は宣う。この世界で永遠に朽ち果てていろと。冥府なんてそんな贖罪、この天使にとっては生ぬるい。
「彼女はここにはいない。この世界の権限は私が奪った。お前はここで永遠に、自身を慕う吸血鬼どもと戯れていろ」
吸血鬼たちは閉じ込めた。後はどうしようが彼女の、またこの『天使』の自由だ。既に害獣の封じ込めには成功した。もちろんこの『天使』も最早打つ手はない。けれども最後の奇跡の一手を持っているかもしれない可能性を鑑みれば、希望の芽すら踏みつぶさなければ、この『天使』は何度でも這い上がる。実際過去にどう見ても完全な一手を指した筈なのに、この『天使』は反則めいた技を使って引きずり降ろされた筈の舞台に堂々と上っていた。
その時は盤上の駒を乗っ取って自ら女王を名乗ったわけだが、今度はそうはいかない。彼女が乗っ取れるのは世界にいる『天使』であった。で、なればこの世界に存在しなければ、彼女はどこにも行くことはできない筈――であった。
「私が唯一、本当にお前から奪われたくなかったからわざと祝福を授けたのに、お前はなんでいつもあの人に縋ってしまうの」
彼女は怨嗟の声を上げる。この『天使』もまた、彼に邪魔されながらもどうにか彼女に接触しようと――運命の再会を遂げようと足掻いていた。
しかし――方法に納得しても、運命の再会を果たした後のこの『天使』は天使の本能のままに振る舞いどこまでも彼女を蝕んだ。
「大切な人なら、何故甚振る。何故嘲笑する。何故壊そうとする――あぁ、そうだな。お前たちはいつだってそうだ。『天使』は最も大切なものを可愛がりすぎていつも壊してしまう。慈しみ愛することを何故覚えない。いいや、それこそ『女神』が課せられた試練か」
女神。かつてこの大地に堕とされ、魂さえ砕け散った幼き女神。その残骸がこの『天使』だった。それだけでも腹が立つなのに、こいつらはこの世界に何とか根付き生きようと藻掻いている。彼らは知らないのだろうか。その傲慢さゆえに、本物の楽園から追放されたという事実に。
「魂が初めから腐っていれば呪いなんて効きやしない。そう言いたいのね、お前」
ここで『天使』が初めて振り向いた。憎悪に満ちた表情はとても愛しい人をただ待っていたとは思えない、邪悪すぎる眼差し。
彼はその瞳を以てしても、心は揺り動かされない。既に自身も呪われていたから彼女の言葉など心に少しも響きやしなかったのだ。
「慈愛の心を覚えていれば、俺なんかより余程彼女の心に近付けたのに、馬鹿な女だ」
「馬鹿は貴方でしょう。砕けて力を失ったとはいえ元『女神』の呪いを引き剝がそうなんて、おこがましいにも程があるのよ」
「――いいや、あれは俺にとって確かな祝福だった」
彼は両手を広げながら宣った。そう考えなければおかしいのだ。そうでなければ自分も彼女も呪いなんてくだらないもの、掛かる筈がないと確信していた。
「一番大切だった人を忘れるんだ。それはつまり俺が一番大切だった――ということだろう?」
彼女の記憶は常に砂が零れ落ちていくように、どうしても自分だけが消えていく。姿も形も、出会ったことさえ彼女の中にはなかった。穴を塞ぐすべはない。この『天使』が在り続ける限り、彼女は永劫に呪いが掛かっていた。
けれどそれでいい。その事実が。自分が彼女にとって一番得難く、大切だと実感できるから。彼女が本当にどうでもいいと感じたときこそ、彼の本当の地獄であった。
「お前――歪んでいるのね」
「お互い様だろう」
この『天使』が呆れるなんて余程のことだろう。けれど改めるつもりはない。この程度で悔いるなら、そもそも
「お前は忘れられたくて一縷の望みを掛けた。忘れられれば、今度こそ何も知らない彼女と再会できるから」
この『天使』は『女神』の因果も何もなしにただの人間として彼女と親しくなりたかった。ただこの『天使』は失敗した。天使の性質に囚われ抜け出すこともできない哀れな人間。それがティリ。既に結末を変えられないと知りながらも抗うことをやめない最も愚かな人間。
「今度こそ――未来永劫、絶対に再会させない。お前が望んだものは決して手に入らない」
彼は宣言する。彼女がこの『天使』と再会する度に彼女の魂が軋んでいくのが分かる。あのままでは寿命を迎える前に壊れてしまう。だからその前にこの娘を封印する。
決して手を触れさせない。今度こそ彼女を完全に封印して、彼女の安寧を守り切ってみせる。
「あは、あはははははは!」
しかしそんな決意とは裏腹に、この『天使』は大層おかしそうに嗤った。
まるでおとぎ話に聞く天使と同じ種族だとは思えない真逆の表情。邪悪そのものが具現化したような『天使』は、自分をそれでも負けていないと主張した。
「貴方、私をここに封じた――とでも思っている? でも、私は私として在る限り、絶対にあの人と再会してみせるわ。箱の中の子猫のようにね。だってこれは、そういう呪いだもの。世界を閉ざした程度なんていつかは破れる。ざぁんねん。貴方の目論見なんて、とっくのとうに知っているのよ!」
『天使』は彼の顔を覗く。瞳を三日月に歪め嗤う様は、最早道化であった。
「でもねぇ、お前になんて本当は聴かせたくなかったけれど、暫くは誰も聞いてくれなさそうだから敢えて言ってあげる」
その内、ほんの刹那の間、『天使』は誰かを想うような表情をして――誰かなんて愚問だ。この『天使』はいつだってたった一人のことしか考えていなかった。
しかしそれもほんの束の間、瞬きの間に天使は清廉潔白とは程遠い表情に戻る。けれど気のせいだろうか。ほんの少しだけ、男には『天使』が、悲痛を訴えているような患者と重ねてみえたのだ。
「私はただ――あの子に傍にいてほしかっただけ。どうしようもない感情は歪みに歪み切って、『女神』の試練とかそんなことも言い訳にできないほど私は罪を犯したけれど。これだけは誰にも踏み入れたくない、私の唯一の――本物の感情なのよ」
◇
先ほどから視線の端でちらついて鬱陶しい。夜中一人で事後処理をしている間も、ずっと銀色の髪の少年と黒髪の少女が付き纏っているのだ。嘲笑するわけでも、何をするわけでもなく、彼らは手をつないでまるでそこに草原があるかのように地べたに座ったり、かと思えば共に本を読んでいたりしている。時には私に話しかけたげな瞳をしているのだ。声が聞こえていると気付かれたら、きっと彼らは私に語り掛けてくるだろう。
それが幻覚であるということは分かっている。しかし長期間に亘ってこうも視界に移られると、どうにも疎ましくて仕方ない。
この学園にきてから何かがおかしい。自分に悪影響を及ぼすわけではないから放っておいたが、二人が現れている頻度が多すぎるのだ。
まるで自分たちが幸せなのだと主張されているようだった。どうにも心の底が疼いて仕方ない。これではまるで、私が今不幸ではないのだと言われているようで腹ただしい。けれども何故だろう。どこか懐かしい風景を眺めているようでもあるのだ。
もどかしくて、私は何かを忘れているようで――
「……ヨルルカ」
月に照らされた部屋の中。
今度は目の前の少年がそのまま大きくなったかのような人間が現れた。
でもこれは――私は知っていた。けれど問題はそうではなく。私はいつから忘れていた?
「……なん、で」
そう、私は忘れていた。何で今、呪いが解けかかったのか知る由もない。けれど事実、私は
身体に力が入らず膝を突く。身体が疼いて仕方ない。頭に掛けられた呪い。思わず左手で顔を押さえるがそれだけではどうにもならない。
私の異変に
「ヴ、ぁ……」
しかし心配したのも一瞬。記憶の蓋が今度こそ剥がれそうになった。今度こそ思い出したら、いけない。何の為に私は今まで思い出さなかったのか。それを忘れてしまえば、今度こそ次は二度と思い出さなくなってしまう。
「思い出すな……思い出しちゃったら、今度こそ砂になって零れちゃう……!」
一面に赤い花が咲き乱れた花畑。交わした約束。将来の夢を語り合った、まだ幼くて世界の穢れも何も知らなかった自分。全てが全て灰になって元に戻るなんてそんな奇跡、どこにもないからこそ私は思い出さなかったのに。
「嫌だ……思い出したくない……ッ」
涙がぼろぼろと零れてしまう。涙腺がまだあるなんて思わなかった。泣くなんてそんな人間らしいこと、あの時からしたことなかったのに。
「何で、どうして……思い出したくないのに、忘れたくないのに」
「ヨルルカ!」
「私の一番の思い出、壊したくないのに」
「……ヨルルカ」
彼の顔が、あの少年を重ねて見えてしまう。きっとあの銀髪の美しい少年は泣いているだろう。あぁ、もう私なんか放っておいていいのに。そうすれば、私は思い出して忘れたとしても、未練など断ち切って――新しい世界に旅立てるのに。
「大丈夫だよ、俺が覚えている。君が忘れても、俺だけはいつまでも覚えている」
けれど彼はいつまでも私をこの世界に繋ぎ止めていた。今なら分かる。彼はずっと私の傍で見守っていた。私の為に異世界そのものを相手にして、私の呪いを打ち消そうとずっと思案して研究して人間の道理など知ったことかと――虐殺の限りを尽くしてまで。
この呪いは私が唯一掛かってしまった魂への呪い。この呪いに掛かってしまったから、他の呪いが受け付けないのだ。
彼は私を手袋越しで頭を撫でながら語り掛けてくる。泣いている幼子をあやすように優しい手つきは、やはりあの時と同じようで。
「何度だって約束する。忘れてもいい。忘れたらまた新しい思い出を作ればいいんだ。大丈夫、俺はいつだって君の傍にいるから」
「……うん」
もう彼の名前さえ思い出せない。二度とあの少年が名乗った名前を思い出すことはないだろう。けれど忘れたなら、彼はもう一度名乗ってくれると約束してくれた。必ずもう一度自己紹介してくれると言ってくれた。
あぁ――でも何故だろう。私はまた忘れてしまうという確信をしていた。
彼が名乗るたびに悲しい顔をしていることが辛くて。けれど。
この呪いは大切な人をどうしても大切に出来ない。
こんな悪辣で醜悪で邪悪な呪い。自分も彼も自力で解くことが出来たら、とうの昔にやっている。
◇
「任務は達成された。学園に退学届は出しといたから、向こうが何か言ってきたら、適当にあしらっといて」
執務室で工作やら何やらを無事に終えて、退学届も出したということにしておいた。シスは学園長を操り人形にしたから、もう少しやることがあるのだそうだ。
私たちは今、ギルドの受付でマリさんの前に任務が完了した旨を報告している。この後シスは再び事後処理へと現地に飛び立つことになっているが、私のするべきことはとりあえず終わった。
結局、吸血鬼の血というものは味わえなかった。シスが全て鹵獲してしまったからだ。けれど、後で吸血鬼の血を持ってきてくれると約束してくれたから私はただ口を開けて待てばいだけである。出来れば生きたまま血を啜ってみたが仕方ない。抵抗されるのが目に決まっているのだから、新鮮なまま持ってきてくれるというのならそれに越したことはない。
何の憂いもない。その筈なのに、マリさんはどこか胡乱げな顔をしている。訝しんでいるような、納得いっていないような表情だ。
マリさんはシスに何か言いたげの様子だ。まさか愛の告白とも一瞬くだらないことを考えてしまったが、マリさんの恋愛対象は女性だ。それに公私混同する人でもない。ならば、それは仕事に関することなのだろう。
「えぇ、分かったわぁ、……シリウス君、あなたはそれでいいのぉ?」
「えぇマダム。私は、これでいいんだ」
「?」
けれど彼女が語り掛けた言葉は、どうにも私には理解できなかった。二人の会話はこの二言で終わった。私がするべきことも終えれば、既にここにいる理由もなかった。
「あぁ――本当……」
外を出ると既に日差しは半ば差し掛かっていた。思えば、随分と過ごしやすい時間帯になったものだ。
そのとき、ぐぅとお腹がなった。そういえば、ここのところ最近、美味しいご馳走にありつけていない。そろそろ美味しいものが食べたい。けれど、満たすのは何よりも美味しいものであるといい。
「お腹空いた」
踵を返してギルドで小腹を満たしても良かったと考えてしまった。しかし何となく戻るのも億劫で、私はとりあえず、近頃できたという評判の
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