三 『追憶Ⅰ』

 学園都市アンブローズとはその名の通り、偉大なる魔術師の始祖マーリンから名付けられた都市である。

 一応ではあるが、学園では各国から優秀なモノが選ばれ、一時でも在籍するだけで永遠の栄誉で得られるとも謳われていた。

 だから一応はどんな学科であろうと頭脳明晰な、世界各国の才能に秀でたものが集うのだ。人族に問わずたとえ亜人であろうとも、その才能に秀でていれば学園は彼らに対してもその門を開いていた。


 変人奇人が集う中でも目立つ、異質な雰囲気を纏っていた彼女は一際強く私の印象に残った。

 彼女はとても不思議な人だった。

 人によっては冷たいとか、怖いとか噂するけれど、私にとってはまるで違う世界にいるような人だった。

 彼女は一片の混じり気のない黒く長い髪を高い位置でふたつ結わえているが、それを誰に見せるわけでもなく、髪をフードの中に全てひっつめている少し変わった少女であった。

 瞳は榛色だが時折金色に輝くときがある。目付きはまるで猫のようで、しかし猫のように感情が豊かなわけでもなかった。きっと微笑めば誰もが虜になるだろうと簡単に想像できるのに、ただの一度も笑っている姿を見たことがなかった。それどころか感情を露わにしている瞬間すら見たことがない。彼女の専門である貴族科では愛想笑いが出来ているのだろうか、それ以外の時間は吃驚するほど貴族科らしくない人であった。

 彼女はいつも被る必要がないフードを被り、なるべく肌を見せないようにしていた。手袋も決して外さないことから見えない傷でも負っているのだろう。

 私服も制服と同じ全てが黒色に染まっていた。全寮制であるので、誰しも毎日が制服というわけではないのだが、とりわけ彼女は黒色を好んでいるようで、そしてその全ては肌を一切見せない服装であった。

 制服の時は首元を見せているが、そのときも必ず包帯を上から巻いていた。休日の時は自身の体格よりかなり大きいタートルネックを着て過ごしているらしい。

 さて、何故私が彼女の休日の姿を知っているかというと、彼女をよく図書館で見かけたからだ。

 図書館は迷宮のように広く、迷いやすい。本は建物のために存在しているわけではない。建物がただ本の為に存在しているその構造は異空間というに相応しい。

 しかし何故か彼女とはよく出くわすもので、その内一回は私が話しかけてみようかなんて考えてしまうほどの距離が近いときがあった。


「――あ」


 しかし、勇気を出したとしても、その声が彼女の耳に届くことはなかった。


 ――ヨルルカさんは決して人と群れようとはしない。喋ることが元々得意ではない人のようだ。けれど勇気を出して話しかけた人がいたとして、決してその人の否定はしなかった。近しい人間であるならばきっと軽口をたたくのだろう。けれどその、楽し気な様子をついぞ見ることはなかった。私が勇気を出していざ行動に移そうとしたとき、一足さきに彼女は教授に話しかけられて、私は彼女とお近づきになれる機会を失ったのだ。

 そのときは眉間に皺を寄せていて、雰囲気も普段とは違い恐ろし気な様子を見せていた。話の内容を盗み聞きなんてとんでもない。彼らは声を潜めて喋っていたからそもそも聴こえる余地などどこにもなかった。

 それにしても、教師に対する態度にしては気安かった気がした。元々教授とは知己だった――といった方が納得できる。けれど彼女は一切公私混同をする様子がなく、私が勘違いしていたかと思うほど、教授と向かい合って話をしていたのはその一度きりであった。

 私は級友に相談した。あの少女と仲良くするにはどうすればいいかと――


 しかし級友たちは謎めいた少女より美麗の教授が学園に来訪したことに注目していた。彼は界隈では有名な人間で、あの異世界の獣を研究している噂もあった。

 異世界の獣とは魔術師の世界でも十分脅威に成りえる異次元の化け物。そんな獣は、一体で一個の生物を絶滅し得るほどの力を持つらしい。そんな化け物を一体どころか何百体も保管しているという噂だから、実力は推して然るべきなのだろう。しかし真に恐るべきはその実力ではなく、外見にあった。

 シリウス教授は美しい銀髪を高く結わえて、片眼鏡モノクロを掛けている正しく容姿端麗の文字が似合う御仁だった。最高峰の教育が受けられる学園の生徒と言えども年頃の子女がいれば色めき立つのも仕方ないと言えよう。年齢は三十代前半だろうか。少しくすみだした肌はそれでも彼の美貌を引き立たせる道具となった。そんな彼に、冬の空のような淡い色で見つめられれば同性ですら顔が赤くなってしまう。というか、何度もそのように顔色が変化する人間を目撃してしまえば、この人は一体何人の初恋を奪ってきたのだろうかと察するものがある。

 しかし教授は勿論生徒を預かるものとして、色恋沙汰を見せる様子は勿論なかった。と、見かけに騙されて告白し、見事玉砕した級友が言っていた。彼女が聞いたところによると、教授は最愛の人間がいるから自分たちを恋愛の対象としては見られないという思ったよりまともな断りを入れていたのだ。

 その禁欲的ストイックな姿にますます人気が高まったのは言うまでもない。私にとっては非情にどうでもいいことなのだが。

 

 さて、ここまで私があまり教授に好意的な想いを抱いていないのは察してくれているだろうか。

 私は級友たちに対して思う。恋愛事に現を抜かす暇があったら、一つの問題をなんでもいい、解く時間をくれとこいねがった。本当に必死なのだ。少しでも気を抜けば更なる地獄が待っている。これほど錬金術科に属していたことに対し恨んだときはない。

 そう、我々錬金術科の生徒にとって件の教授は鬼門なのだ。恋情を抱くなんてとんでもない。そんな少しの隙を見せてしまえば、教授は嬉々として更に追加の課題を出してくるに決まっている。

 本当に彼は鬼畜だ。人が徹夜で課題をこなして提出して安堵の息を吐こうものなら、今度は十倍の量の課題を提示してくる。最早我々に生徒間の情報の守秘なんていう言葉はなく、寧ろ教授の課題をこなすために情報の共有を徹底して行い一丸となって立ち向かっていた。

 皮肉なことに錬金術の腕は短期間で向上したことを実感してしまった。錬金術とは生涯を掛けて、全身全霊を掛けて行うものだ。先人たちの研究を受け継ぎ、真理へ至るための道。本当なら、自らの進捗も自分でしか実感できないものだった。けれど、他人の進捗ですら感じ取れるほど、我々は成長していた。

 本来なら他人と情報共有なんて絶対にあり得ないことだ。先祖が伝えてきた秘儀を無償で、無条件で他人に渡すバカなどいない。しかしそんな悠長なことを言っていられるほど学園――というより教授は甘くなかった。寧ろ辛い。現実逃避したくなるほどの強烈な学園生活。今までの学んだ知識を脳にしまっておくなんて生易しいことはできない。情報として出し合わなければ間違いなく落第するのだ。

 そうして最後まで自尊心プライドを捨てられず、自らの知識を守り切るという名目で退学する生徒も勿論いた。けれど教授曰く、秘密に出来る程度の知識などどうでもいいと言い切った。事実、私たちは知恵を掛け合わせることで新しい人類の進歩を目の当たりにしたのだ。

 私は落第手前までいきながらも、何とか教授の厳格かつ過酷過ぎる教育に耐えていた。目の隈はいつまで経っても落ちないし、寧ろ濃くなるばかりで寝る時間も暇も教室に行く時間さえ惜しいのだが、充実していた毎日だった。

 

 そんな日々を過ごしていた中、あくる日、教授はとんでもないことを言い出した。今までの課題とは全く趣旨の違った文字通り、命を掛けた課題。それを一言で言い切ってしまうなんて、狂っていなければ決して出ない提案だった。


「本日は異世界の獣を一体狩りにいってもらいましょう」


 錬金術科はあくまで錬金術を専門とする学科だ。『異世界の獣』と相対したこともなければ、知識もない。専門外もいいところで、実力があまりにも足りないのだ。

確かに異世界の獣の材料は希少で高級だ。錬金術の材料にも大いに役立つ。けれど自らとってくるとなれば、話は別だ。異世界に行くなど文字通り、自殺願望でもなければ無理に等しい。

 下手をすれば間違いなく死亡する課題に、それでも教授は「大丈夫」だと謎の自信を持っていた。

 他の学科からも一人助手として駆り出されることになった。教授曰く、危険が迫れば自分とこの少女が対処してくれるらしい。

 そうして現れた彼女は、いつもより不機嫌な表情をしていた。


「……よろしくお願いします」


 彼女、ヨルルカ・ノアさんはこれから遠足ピクニックに行くような気軽さで行く教授とは裏腹に、まさに獣狩りに相応しい服を身に着けていた。彼女が履いていたのはいつも革靴ではなく、恐らく鉄板が仕込んである長靴であり。恐らくこちらの方が普段着として着用していたのだろう。コートも学園指定のものではなく使い古された、恐らく大量の武器が内ポケットに入れられている重そうなコートを羽織っていた。コートから覗く衣装には黒い革の鎧を身に着けていた。首には丈夫そうな防護型の眼鏡ゴーグルがぶら下がられて、しかしこれから異世界の獣を狩るというのに、緊張というものがどこにもなかった。


「……お前バカなの? 戦闘の経験もない者たちに素材を取りにいかせようと考える人間こそ阿呆の極みだ。それこそ、専門の者にさせればいい」


 彼女はいつも仏頂面で人と話すことは得意ではない。しかし、このとき我々は表面上とはいえ教授に反抗的な態度をとった彼女を心中で心配し、そして思い切り喝采を浴びさせた。今まで教授に逆らうものはいなかった。いたとしたらそれは退学という最終の切り札を使って去っていったものしかいない。

 けれど彼女は確かに在籍したまま教授に苦言を呈したのだ。この時の彼女の印象は優秀な一生徒から錬金術科の救世主へと昇華した。

 彼らのやり取りに私たちは口を挟めず見守ることしかできない。教授は、彼女の言葉を助言として受け取ったらしい。


「ふむ。確かに、何の準備もさせずに死地に赴かせるのは愚策か。分かった。君の意見を飲もう」


 この瞬間、我々に一筋の希望の光が見えた。そう、我々は何の準備も何も事を聞かされていなかったのだ。勿論服装だって制服のまま。ナイフの一つだって持たされていない。

 そう、このままでは我々はただの生贄として獣の胃袋に収まることになってしまう。かのじょはそれを良しとせず、ついに教授を説得したのだ。

 教授は顎に手を当て推察する。次の一言は、私たちを慮った、最大限の譲歩の筈、だった――


「彼らには相応の装いと交通手段を私が同行するついでに何とかしよう。では皆様、今から戦場に行きますよ」


 やはりこの教授は悪魔だった。皆が最後の綱である彼女を見つめたが、彼女は諦めろと言わんばかりに首を振った。やはり神は存在しているわけがなく、いたとしてもとっくの昔に神は死んでいるのだ。

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