二 『ヨルルカ・ノア』
軽快に音が鳴り響く。大理石の床は靴が鳴らす音を反響させた。
音を刻んでいるのは私だ。久しぶりの、勉学をする為だけに誂えた革靴はとても居心地が悪い。
大自然とは真反対の、調整された世界の中にいた。そよぐ草もなければ唸る風もない。窓の外は雲一つない美しい青空で、計算し尽くした校舎は正しく人間が造りだした究極の美と言えるだろう。
教室に入ると洗練された機能美に富んでいる空間の中、洗練つくされた人間が一斉にこちらを見た。
「……」
この年になって染み一つない白いシャツを着て黒いネクタイを締め、ブレザーを羽織り糊の利いたズボンを穿きローブを羽織るなんて思わなかった。ローブには校章が縫われている。これを一目見れば自身がこの学園の生徒だと見分けが付いた。
同い年に見える少年少女たちの顔は頬がぷくぷくと膨らみ体つきはふくよかで、淡く色付いている。魂そのものがきらきらと輝いていた。皆、将来に夢を見ているお年頃だ。未だ見ぬ未来へ歩み出そうと勇んでいる青少年たちは希望にありふれた瞳をしていた。
対して私は――殆ど目が死んでいる。視界に目標が映っていなければ、教壇から覗く光景は昔と変わらず、特に新しく目を惹くものもなかった。
本来の年齢であれば恐らく私は教授として教鞭を振るう筈なのだが、残念ながらこの見た目では指導できる人間だと思われず、いやこの外見であるからこそ正攻法で攻略できるのだろう。そう、私とシスは貴族学園に入学していた。私は外見に似合うよう、生徒として挨拶を交わしたのだ。
「初めまして、この度栄えある学園アンブローズの『貴族科』に転入いたしました『ヨルルカ・ヴォルフガング・フォン・ノア』と申します」
何が悲しくて数多有る学問の内、最も不得意である貴族の作法が専門の学科に入学しなければならないのだと絶望に陥っていたが、この学園の空いていた枠がここしかなかったから仕方ない。私は最もらしい貴族の仮面を被って、演じ切るしかないのだ。
私たちはシスが教授として与えられる一室の中で座っていた。彼に与えられたのは研究室と幾つかの権限である。彼はその権限を早速使い、私という人間を召致した。打ち合わせもしたかったので丁度良かったが、転校したばかりで友達もいない不安げな少女を往来で呼び寄せるのだけはご遠慮していただきたかった。
部屋の中はシスの専門らしく沢山の鉱石が棚に並び、植物が天上を覆いつくさねないほど鉢に植えられている。人間はついでばかりと、私はテーブルに付属している小さな椅子に座らされていた。
シスは上流階級らしい黒のスーツの上に白衣を着ている。不自然な膨らみも見えず、如何にも研究者らしい装いの彼はどこに武器を隠しているのか一瞥しただけでは分からない。そもそもギルドで見たときとは服が一新されているのだ。ただ、
「過去を最も疎んでいる筈の貴方がかつて名乗っていた名前を使うと思わなかったよ」
「何故私の過去の名前を知っているんだよ、シス」
確かに昔、この名前を使っていた。けれども遠い過去のことだ。今回偽名を名乗るに当たって一番都合良く演技できそうな名前を使っただけの話。この名前なら、高位貴族に相応しい振る舞いを演じることが出来た。
愛想笑いなんてものは『黒』である『月蝕のヨル』はしないが、王侯貴族である『ヨルルカ・ノア』なら息を吸うと同じぐらいに簡単にできる。扇子の向こうに顔を隠し嘲笑することだって、貴族同士の隠語を使うことだって難なく出来る。自分を偽るのに都合のいい仮面があるから使うだけ。そこには何の感慨も郷愁の憂いもなく、短い期間であるが貴族の象徴である名字を呼ばれても違和感なく返答することができた。
しかしシスは私にギルドにおいての名前を呼ばれることは大いに不満だったらしい。周りに聞こえぬよう、しかし確かな声で抗議した。
「――シリウス教授と呼びたまえ。ここでは貴方も、私の生徒の一人だ」
「……過去も任務をこなす内のひとつの道具に過ぎない。貴方が私の狩りを邪魔しない限り、私は貴方に従順な生徒で在り続けよう」
「……」
彼は錬金術科の教授であった。錬金術は真理――不死を以て真理に至る学問であり、所属するギルドにおいても彼の右に出る者はいないだろう。まさしく(彼だけに限定すれば)適材適所の配属であった。
私とシスの所属する学科が違うのはその方が効率よく吸血鬼探しができるから。正直、貴族科に所属した理由などそれだけに過ぎない。本来であれば私に最も適しているのは錬金術なのだが、科目は満点をとる程度であれば重視されない。そもそも、私はこの学園で学びに来たわけではない。目標を撃退できればとっとと退学するつもりでいた。
私は首の後ろを摩る。正直に言えば先ほどから植物が動き首元を掠めていうからむず痒くて仕方なかった。
「状況を整理しよう。今回の任務の内容は『月蝕のヨル』と『天狼のシス』の二人が学園に潜入し、吸血鬼の発見次第撃滅――できるならば、彼らの主目的を探ること副題としている」
「残念ながら未だ目標の発見には至っていない――シリウス、お前、吸血鬼の見分け方は知っているの?」
「愚問だな、私がその辺を抜かる筈がないだろう」
「ふーん」
私は一度頭から落ちそうになったフードを羽織りなおす。植物が先ほどからちょっかいを出してきて、どうにも居心地が悪かった。
「それはそうと、さっきから植物が私の首元に掠るんだけど。何? 自殺願望でもあるの?」
「親元が恋しいんだろう。金色の蔦は全ての植物の。たとえ自ら枯れ果てようとも母親に触れたくて仕方あるまい」
今の私は室内でも(不用意に触れられない為)フードを被っているので植物が触れられる筈がないのだが、それでも彼らは私に一目見ようと触手を動かしているようだ。
けれどこれは、赤子のような明確な意志を持たない者でも腐らせてしまう呪い。
「あるいは貴方を助けようとしているのかもな」
「私を殺そうとしているんじゃなくて?」
「ここに生えているものは、私の植物だからな。私の意思には逆らわないよ」
金色の蔦の呪いは術者が死ななければ解呪など不可能だ。そして術者はこの場にいなければ私の死を望んでいる者でもあり、私を心から助けようとするものなんてどこにもいなかった。
最も私を助けようとすればこの身に触れなければならないのは確実である。そして魂を持つものならば間違いなく冥府へと堕ちるのが決まりであった。
結局誰も私を助けられるものなんていないのだ。どちらにしても、私は呪いから解放されようと動いていないし、この程度の痛みならば慣れているから無視する程度で良かった。
「……」
私は張り出された点数の順位を眺める。すべての教科の一位には私の名前が載っていた。しかし次回からはこう素直にはいかないだろう。人間は優秀な人間を排しようする傾向がある。それは昔から変わらないとなれば、愚かな人間たちが徒党を組んで私を排斥しようと動くのは火を見るより明らかだった。
けれど、全教科の満点の維持と模倣的な生徒であり続けることがとある学科の転入の条件であるからには、私は脅しに屈せずやり遂げなければならないのだ。獣の狩りではない、
私の後ろにはいつの間にかシスがいた。彼は小声で周りの人間に聞こえないよう、更には私に話しかけているとは思えない位置に立ち私に話しかけてきた。
「――驚いたな、正確かつ精確な解答をしなければ満点をとることすら至難の業だろうに、貴方が難なくこなすとは。私も少し係わったが、在籍する生徒では解くことはおろか思考を始めることすら難しい問題もあった筈だ。貴方がまさか完璧な処理を知っていると思わなかった」
「ギルドからの任務を忘れたの? この学園の生徒及び教師を調査し、吸血鬼だと判断できた場合、駆除する。中でも帝王学科の連中に接するのは容易じゃない。貴族ですら接触はおろか視認することもできない。帝王学科に転入の条件は一定の国力がある王家の血を引き、全ての教科で満点をとり模倣的な生徒でいること。ギルドの中で条件を満たせそうなのは私しかいない。それに――」
ギルドからの要望は学園に潜入し、この学園にいる者全ての調査と吸血鬼の駆除であった。けれど帝王学科の人間だけは教授として雇われたシスでさえ出会うことは叶わなかった。
帝王学科とは文字通り、王家などの特別な地位の後継に対する特別な教育を施す学科である。国の中でも権限のある人間しか属することを許されない。しかし、その連中と相まみえるには数多有る案の中で転入が一番現実的であった。将来国を率いる人間が集う帝王学科に転入するには、自らが優秀であると示し続けるしかなかった。
私が『ヨルルカ・ヴォルフガング・フォン・ノア』を名乗ったのも、自らが王家の血筋を引いていると周囲に示す為だ。『ノア』の名前を率いる王家は既に滅亡しているが、今でも強国として名を馳せている国の近親者であれば、私が帝王学科に入学する条件も満たせるだろうとの算段だ。ノアの直系は皮肉にも彼らの庇護を受けていた内の『天使』によって滅ぼされた。皮肉にも、それは『天使』が第零亜級指定害獣が解け、『亜種』として認められるかもしれない矢先での話だった。結局『天使』は第零亜級指定害獣から外れることはなく、『ノア』の王族は無能の烙印を押し付けられた。私がノアの一族でありながら無能だと判断されなかったのは、私が『天使』の唯一無二の被害者だと認められたからに過ぎない。あのとき私は殺人者だと糾弾され、裁判にかけられる予定となっていた。ギルドに駆け込まなければ、国選弁護人もいない状態で処刑され、汚名も雪がれることはなかっただろう。
「習ったことは全部覚えている。ギルドに所属する前はそれしかすることがなかったから」
「……」
ギルドに所属する少し前、とある『天使』を殺して国を出奔する前は地獄そのものの生活を送っていた。孤児とどちらがいいかと問われたら間違いなく余程人間らしい生活を過ごせていた孤児の方がいいと即答するだろう。それほどまでに、帝王学科に係わる輩は人を甚振り痛めつけることに長けていた。
「出来れば、帝王学科そのものが駆除対象になればいいな。そうすれば世の中、もっと綺麗になるのに」
出来れば、ああいう輩は絶滅した方が世の中平和となるが、残念ながら人間であるからには彼らを罰することも殺すこともできなかった。大義名分がなければ殺すこともできない社会。けれど『吸血鬼』であるならば、それだけで駆除対象となる。
彼らはそれほど人類に対し長年虐殺し続け、人類の絶滅を望んでいた。歴史上、吸血鬼がこちらの世界に台頭していた時代は、『天使』より余程長い。彼らは『天使』と同じくこの世にいてはならない生物なのだ。
「望むな。帝王学科の一人でも吸血鬼であるならば国の滅亡に係わる」
「お前の愛しい人に何の関係もないのに? たとえ世界が滅んでも自分たちだけ存続すればいいんじゃないの?」
「だからこそだ。愛しい人が住む世界が壊れたら、彼女が生きづらくなってしまう」
「へぇ……お前も生きづらそう」
シスは彼女の為に人間社会を存続させると宣言した。いつか愛しい人が目覚めたときの為に、彼女がすぐに適応できるよう力を尽くしているようであった。
素直な感想と口にしたところだった。どこからか強烈な視線を感じ、私の身体は瞬時に反応する。
「!」
ほんの瞬きの間、砂嵐が視界に映ったかと思えば銀髪の少年と黒髪の少女がこちらを見ている気がした。殺気はないがどうも気になって振り返ってみたが、該当する少年少女
は勿論いない。しかし彼らがいた背景は確かにここで間違いない。中庭が一望できる廊下。草が整然と生い茂り、噴水が昔と変わらずあるそこにいた筈なのだ。
「……」
「どうした。蜃気楼でも見たか」
「……いいや、目標ではなかった」
気のせいではなければ、黒髪の少女は自分に酷似していた。しかし今の自分よりもっと酷く窶れている様子で――しかし、彼女は今の自分には全く似合わない笑顔を少年に振りまいていた。
憐れみではなかった。純粋に少年を慕っているかのような笑顔を向けていた気がした。けれど確認するには、あまりに判断材料が少ない。
私は結局、一人でその場を後にした。吸血鬼ではない。普通の人間であった。であれば、私が特段気にする理由もないのだ。
「……」
「あらぁ、可哀そうに。これじゃゴミの上に座ることになってしまいますねぇ」
ここ最近、ずっとこんな調子であった。定位置に着こうと思えば必ず腐臭が放った生ゴミが落ちている。廊下を歩けば水が降ってくる珍事まで出くわした。私物も少し目を離せば紛失する始末。大事なものはすべて防水性のコートの中にしまっていたので全く問題ないのだが、こうもあからさまに嫌がらせさせると流石にそろそろ対処せねばなるまい。
「お前……」
私は一人突っかかってきた少女を指さす。この教室にいる人間の姿は勿論、彼らの来歴も頭に叩き込んでいた。彼ら自身が知りようもない事実も。本来なら私が係わることもないのだが。これは自己防衛のために必要な処置だった。
私は彼女に一つの現実を突きつける。彼女も薄々気づいていた筈だ。彼女の教育費用が支払われていない事実に。
「お前は彼の国の男爵令嬢。お前の結婚相手は決まっている。黒い噂がたっぷりとある、商家の跡取り息子だ。あぁ――来月末には取り引き成立するようだね。なるほど、借金のカタに売られてしまったのか。可哀そうに。きっと明日にでも退学届を出さなければならないだろう」
次いで彼女の後ろにいた少年を名指しする。彼もまた私に対しての加害者であり報復対象であった。私は一切の容赦をせず、最も知りたくない現実を口にした。
「お前は此の国の伯爵令息の次男坊か。お前の父親は愛人の息子を跡継ぎに考えている。伯爵の名前も、魔術も何もかもお前に渡す予定はない。生まれたばかりの赤ん坊に全てを奪われるなんて、可哀そうになぁ」
私が何故彼らの秘密を知っているか。それは既にギルドが調べていたからだ。少しでも『吸血鬼』のある可能性の者は親類まで、果てには血縁か怪しい親類まで調べていく。私も調査には参加していた。特に貴族は少しでも脛に傷があるものが血縁者にいると隠したがる。調べるには難航したが、脅すには最も適した副産物。
私は情報を容赦なく奮う。まるで死に神が鎌を奮うように。その時は何の前兆も予兆もなくくるのだ。けれど先に手を出したのは――彼らである。
「さてお前は――公爵家の長男か。何でお前が魔術科にいる? あぁ……栄えある帝王学科に入る資格がなかったのか。可哀そうに。帝王学科に在籍できる条件など解釈次第でどうにでもなるのにねぇ。親の努力不足で君はこんな辺鄙なところにぶち込まれたわけだ。このままでは弟の方が将来台頭しそうだなぁ?」
本当は帝王学科に在籍する条件は彼らが想像するより遥かに得難い。けれども私はあえて彼の親の努力不足――愛情不足を強調した。彼は日ごろから親からの愛情を疑念に抱いていた。その隙を突く形で指摘したら結果はこの通り。
「こんなものか」
彼らは酷く動揺し、狼狽えている。しかし彼らは運が良かった。私が本物の悪党であったら、これらの情報を悪逆の限り利用し尽してしただろう。
しかし私は善意ある『黒』の人間である。問題を提示したなら解決するのが私の仕事であった。
「――残念ながら、今言ったことはほんの一部だ。実際にはもっと悪質な……今にもお前たちの足元を掬おうと企んでいる輩もいる。まぁでも、そんなに悲観するものでもない。少しでも自分の将来を明るくしたいなら、今夜、私の寮部屋の扉を叩くだけでいい。他人を頼るのは悪くない。不器用な人間が集まるから魔術科とも言えるんだ。そんな不名誉、自らも背負うことはなかろうて」
私は今言った彼らの問題に対して全て解決策を提案、更に実行する実力も権力もある。彼らが一言助けてと言えば――その力を振るうことに対して吝かではなかった。
けれど彼らの動揺は未だ止まない。当然だ。私が年相応のうら若き女性に見えることも一因しているのだろう。ならば、相談役を増やすのも一つの手だった。
「私が頼りなく見えるなら、同じく転校してきたばかりの教授にでも相談すればいい。彼はああ見えて、大層な子ども好きだ。君たちと同い年ぐらいの少女を死の瀬戸際から救った医者でもある。さて、私の演説はここまでにしておこう。後は少年少女諸君、君たち自身がどうしたいか考えるべきだ」
シスはかつて私が保護した少女の手術を請け負っていた。他にも何人か手術が療養が必要な人間の保護を依頼している。彼に頼めばどんな者でも、息がある限り肉体の蘇生を可能としていた。その代わり、何体か獣の遺骸を提供して、彼の今後の研究に役立ててもらっていた。
彼は外見だけでいうなら私より余程大人びていて、尚且つ変人であるが人間の子どもに対しては比較的まともに接する部類だ。ならば、対処法もそれなりに知っているだろう。
「説教するつもりはなかったのに」
彼らは授業が始まる前だというのに、何人かは教室を飛び出してしまった。余程の緊急性が高いのだろうか。私は溜め息を吐きながら、しかし未だ自分が座るはずの席が片付けられていない事実に気づいてしまった。
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