三 『赤烏のハレ』
「やぁ! これは鬼神の如き強靭さをもち、水面にうつる月の影より美しい『月蝕のヨル』じゃないか!」
初めてではない心地の良いハスキーボイスを聴いた途端、私はとても目が胡乱に――そう、とても機嫌が悪くなった。いや、悪くなるどころの騒ぎではない。そいつはそこにあるだけで私を不愉快にさせる害虫そのものだ。
油断しているとすぐに剣の柄に手が伸びそうになるが、逸る心をなんとか抑え元凶と向かいあう。
「死ね」
「そんなことを言わないでくれ。私たちにとって君は何より得難い『黒』じゃないか!」
「死ね」
こいつはハレ。『赤烏のハレ』。
二つ名にはある一定の法則がある。白金級までの二つ名まではもっとも相応しい性質が名前となる。私が『悪食のヨル』と呼ばれていたのだって、異世界の獣を喰らう姿から喩えられたものだ。だが、最高位の人間だけはその法則から外れる。性質を現すのはもっともだが、その法則に則る前に、天体を象徴する一文字を与えられた。赤烏はそのままの意味をとれば赤い鴉だが、赤の烏は譬えであり、その名前が指すものは太陽そのものである。
そう、赤烏は私と同じ最高であり最高の称号を戴いた――しかも私とは真逆の性質を抱いた『無色』の人間であった。
ハレは私が醸す拒絶に対し狼狽えもせず、寧ろ悦んだ風な顔を見せる。ちなみにいえば、ここはギルドの受付の前であり、私たちの険悪な様子を遠目で見守るものしかいなかった。受付嬢も、私がいきなり剣を抜かないか心配な目で見てきている。大丈夫。私はまだ、こいつに対して明確な殺意を抱いて――はいるが、まだ我慢できる範疇にあった。
彼は満開の向日葵のように満面の笑みを浮かべてくる――前言撤回。まずい。これ以上挑発されると、本当に私は彼を殺してしまいそうになる。
ここはギルドだ。『黒』や『無色』の人間でさえ武器を抜くことを許さない完全な中立地帯。逆に言えば、どんな犯罪者であろうとギルドにおいてはそこに在ることを許される。けれど一たび剣を抜けば、それはギルドと完全に決別する形となる。つまり、ギルドに所属する全員が敵となる。私だって、流石に『黒』か『無色』の人間と相対すれば無傷ではいられないだろう。
なので、結局我慢するしかない。ギルドに敵対するには世界を敵に回す覚悟でなければならない。殺し合いをするなら外で――がここでの不文律だ。
私は柄に手をかけるだけで殺意だけを駄々洩れにしているが、剣だけは絶対に抜かない。
こんな見え見えの挑発にかかるだけ無駄であった。
「ところで『月蝕のヨル』よ」
「私の見えないところで勝手に死ね」
「そんなこと言わないでくれ、我が誉れ高き『黒』の者よ!」
「……」
こいつには何を言っても無駄なようだ。何も反応しないことが一番なんて――察しが悪いと自分にすら自嘲したくなってしまった。
しかし彼は一々癇に障る言葉を次々に口に出してくる。
「やっと聞いてくれるのか。ありがたい! さてそれでは、『月蝕のヨル』。君を指名した依頼がきている」
「は? 私への依頼なのに何でお前が知っているの」
「私は誰よりもあの方に近しいからね! そう、あの方の影を担う君よりも!」
「……」
こめかみに青筋が浮かぶというのも仕方ないという話だろう。こいつは私がもっとも殺意を抱く言葉を的確に突いてくる。それが無意識であるならば尚たちが悪い。
私は彼を無視して、受付の人間に依頼の内容を訊ねる。それはどうやら、個別の部屋で詳細を訊かなければならないらしい。
「じゃあ行こうか!」
「……何でお前が私と一緒にいるの?」
「それは勿論、君と私で任務に当たれと言われていたからさ!」
なおも明るい笑顔を向けてくる彼が本当に不愉快で溜まらない。私は話しかけてくる彼を置き去りにして、ギルドの人間と一緒に部屋に入った。
部屋の中は清潔そのものだ。品がある木調の部屋は最高位の人間が説明を受けるに相応しい場所である。けれど私はあまりにも視界にハレが映ること自体我慢がならず、せめて彼の身体に触れないようソファーの隅っこに座った。勿論ハレは堂々の真ん中で座り、あと数センチ近ければ、私とぶつかりそうな距離であった。
あまりここに居座りたくないので、ギルドの人間から任務の詳細を聞くことにする。
「……また、異世界の獣の駆除ねぇ」
私は呟く。最近、異世界の獣の目撃が頻繁に上がっている。世界の規律を破った不束者が闊歩しているのだ。これは許されるべきではない。彼らは須く駆除すべき存在であった。
ただ普段と違うのは――今回の目標である獣は徒歩では絶対いけないところにあった。ならばどうやって行くのかと問われれば、足を使わなければいい。
しかし問題は経路ではない。同行する人間だ。私はどうやら、どうあっても彼と共に行かなければならないらしい。
「よろしく! 大丈夫、私『赤烏のハレ』がいれば何も怖いことなんてないさ!」
「……言っておくが、私が獣の討伐を依頼されるということは、私が獣を食べてもいいってこと。私の狩りを邪魔するなら、幾ら『無色』の人間であろうと――殺すぞ」
こいつには前科がある。獣を殺さず、異世界に還した所業――彼らにとって言わせば功績として『無色』に繰り上がったのだろうが、私としてはそれは実に愚かなことだと評価している。一度人里に降りた獣は、里の味が忘れられずまた降りる。異世界の獣も例外ではなく、一度追い返したからと言って二度と来ないなんてことはあり得なかった。
そう、私はこいつととことん合わない――異世界の獣に対する姿勢が合わないのだ。彼は獣ですら絶対の不殺を謳っている。私は絶対の屠殺を望んでいる。相反する思想が、交差するなんて永遠にないのだ。
私達は飛空艇に乗り空中散歩している。
速度を出す飛空挺は雲をかき割り進んでいく。上も見えなければ下の大地がどうなっているかも分からない。時折雹が落ちてくるほど結構な寒さであるから、着込まないとすぐに凍えてしまう。白い息を吐けば、息は後ろに流れていく。私は既にゴーグルを羽織り赤くなった鼻をそのままに、せめて目に水が入らないよう対策していた。
目的地までは空路を使わないと辿り着けない。しかし空路は通過する地域によって、時に海路よりも危険である。
私は無言で剣を抜いた。全てを問答無用で毒に冒してしまう魔の剣ではなく、普通の大剣。全身が敵の襲来を予感している。瞬間、四方八方から魚が顎門をむき出しにして私達に襲いかかってきた。
「ヨルくん!」
「名前を呼ぶな! 気持ち悪い!」
何体か斬り伏せると、同じく槍で敵を刺し殺したハレが声をかけてくる。恐らくは生存確認なのだろう。けれど『黒』の私に声をかけるだけ無駄だ。どうせならもう一人の同乗者に気を使えと言う話だ。
「ヨル様、ハレ様が呼んでいるのです。返答してあげては如何ですか?」
「……」
本人は後ろで敵を殺すわけでもなく操舵手を守っている体だから、生存を確認する必要もないのだが。
「神は見ておられますよ。女神の御加護があらんことを」
私は最後まで彼女の方を向かず、ハレが殺しそびれた魚にトドメを刺す。詰めが甘いとその強固な顎で脹ら脛を噛みちぎるぐらいのことをしてくるだろう。彼らはいつだってそうだ。無駄な殺生はしない。どんなに過酷であろうと死を許さず、自らに牙を剥いてもいいから生きることを強いる――それが彼らの戦闘のルールであった。
その、無駄な殺生をしたばかりの私を見て、女はため息を吐く。どうでもいいが、こいつらのルールの為に自分の脚が食いちぎられるのだけは業腹であった。
溜め息を吐いた女の名はテル。『慈愛のテル』。彼女のまた慈愛の名の通り、全てを蝕む私とはとことん相性が悪い人間であった。テルは自らの聖力を以て他者を癒やす力を持つ僧侶でもある。彼女はハレと組んでいた。付き合っているとかは知らない。興味もないから彼らの関係性について私から一言も問いただしたことはない。
それでもなんで彼女の存在を知っているかというと何回かギルドで鉢合わせとなり、聞いてもないのに勝手に始まった自己紹介で知ることになったからだ。
彼らは人気ものだ。無色、黒と合わせても十人しかいない最高の――清廉潔白と何一つ後ろ暗いことはない最強のハレと、慈愛を以て人間を癒やす――次の『無色』の称号を与えられる可能性が最も高いテルは、今や人々の希望として名を馳せていた。
彼らは優しい。それは私も認める。だからこそ合わないのだ。水と油が決して混ざりあわないように、私は彼らを理解はしても納得はしない。
私はこの飛行船に無謀にも襲い掛かった魚を一匹広げて、その腹を掻っ捌こうとした瞬間、後ろから声がかかってしまった。
「ヨルくん」
「……何」
「この魚は――ある国にはとても尊ばれているものだ。決して、食べてはいけないよ」
「……こいつらはもう死んでいるけど、食べないなんてそれこそ冒涜じゃないの?」
「今回のリーダーは君ではなく、私だ。リーダーの方針には従ってもらう」
今回の指名のリーダーは確かにハルであった。私がリーダーであると彼らを殺しかねないから、そのための措置なのだろう。リーダーの決定は隊の意思そのものである。普段だったら最高と称される『黒』である私がリーダーを務める筈だったけれど、残念ながら『無色』のハレに決定権をとられてしまった。
私は舌打ちをして、手にしたナイフをしまう。そして食べられない食料に興味を失くし、魂が失った死骸を飛空艇の外に投げた。
テルが何か言いたげな瞳をしているが、無視。この調子で一々咎められてはやっていられないので、唯一の目標である指針をもう一度確認した。
「……目標は食べるからな。私を雇うに当たって『獣を食べる邪魔をしない』――これだけは譲れない。もう一度だけ言う。邪魔するなら殺すぞ」
「勿論! 我々の今回の目標は獣の討伐だ! ギルドから直々に害獣と指定されてしまったからには幾ら民衆から神と崇められていようと、殺すしかないからね」
「……」
ハレは大仰に手を広げて私の意思は邪魔しないという。未だテルの視線が怪しいが、どんなに不満があろうとルールは絶対である。これが守られるからギルドに所属できる。守られなければ――その身は間違いなく処刑台に上るか、仲間に裏切られて朽ちていくか。
私たちはついぞ会話を止めて、目的地の到着まで暇を潰した。幸いなのは、操舵手に傷がつかなかったというべきだろうか――彼が死ねば、私たちは冥府に落ちる。食べられなくても仕方ない、そう思わなければとても彼らと共に行くなんてこと我慢がならなかった。
「着いた! 飛空挺が迎えに来るのは一週間後だ! それまでに討伐しないとね!」
「……」
その場所は徒歩では絶対たどり着けない。崖を登るとか、海を潜るとかそういう物理的な話ではない。普通の人間が最後に辿り着く唯一の場所、向こうの世界とこちらの世界の境界線――冥府の入り口。辺りは霧に包まれ、一寸先は全て闇だ。この霧が晴れることはない。ここは死者が閉じ込められる幽世でもあるのだから。
霧は深い。なので私たちは縄を繋いで、互いを見失わないようにしないといけない。それでも、テルは不満げな顔を隠さなかった。
「ハレ様、何故このようなものを雇ったのですか、幾ら『黒』の人間であろうとこんな嫌われ者なんて必要なかった筈です」
「テル君、前にも言ったけれど、今回の目標はヨル君の力が必要だ」
正確には私ではなく、魂が在るものなら全てを腐らせる剣が必要なのだろう。けれど私はこの剣を手放すことはないし、貸すことなんてあり得ない。彼女はハレの説明を受けても、未だに不機嫌のまま、ハレと自身の身体を縄で繋いだ。
正確にはここは冥府ではなく、冥府との国境に近い場所にあった。国境には柵の代わりに底なしの谷があり、たとえどんな者であろうと、生者であればその国境を跨がることは許されていなかった。唯一の門は三つ頸の犬が守っている。あの犬は世界の倫理を保つ獣でもあったから、私が望んでも食べられない唯一の獣でもあった。
冥府は向こう側にある唯一の、人間が人間としていられる世界である。今回私たちに下されたのは、冥府の監獄にて収容されていた獣の討伐であった。
冥府の監獄を如何にして脱獄できたかは知らないが、向こう側の獣も例外なく収容されることから考えて、神話の世界の獣が脱走したには違いない。でなければ私たち、『黒』と『無色』が揃って討伐に赴く筈がない。普通の獣なら白金級までならどうにかなる。けれど今回は冥府の監獄を脱獄できるほどの獣が相手なのだ。『黒』と『無色』が赴くのも当然の話であった。
獣は既に死んでいる。けれど魂だけでこれほどの大事を起こす獣――あの大鹿も相当であったが、今回もまた死闘を繰り広げられるとなると、心がつい躍ってしまう。
ついでにこいつらも死ねばいいと思っているが、流石にそう事は上手く行くはずがないだろう。けれど万が一も考えて、私は一人で帰路につくことも夢見て、歩を進めた。
「私達の故郷はね、それは遠い国にあったんだ。異世界の獣に故郷を滅ぼされ、私とテルは二人寄り添って生きるしかなかった……」
冥府は国境が具体的に決まっているわけではなく、しかし獣を見つけるには延々と谷を前に国境に沿って歩くしかなかった。また、国境近くまで来ると時間が狂うため、私たちはこちら側の基準で、日が暮れたら野営をする必要があった。
ラクダが一匹いればいいが、残念ながらそんな便利な動物はいない。それに不殺をもっとうとする彼らが今回とは無関係の生物の殺害を良しとする筈がなく、私は仕方なしに固形の携帯食料を齧る。
そんな中、テントを前にして唐突にハレが自らの過去を語り始め。ここには私以外の聞き手はいない。私は嫌々ながら彼の自分語りを聞かなければならなかった。
「大変だったよ。魑魅魍魎が跋扈している世界で生き延びるにはありとあらゆるものを犠牲にしなければならなかった。獣たちだって生きている。それは分かっている。けれど、だからといって弱者が強者を蹂躙していい理由にはならないんだ。私たちは、今でこそ絶対の強者ではあるが、弱者の立場を知っているからこそ、こちら側の世界では圧倒的に弱者になってしまう獣を殺したくないんだよ」
「……」
それに還せば――誰も犠牲にならずに済むしね、と片目を瞑るハレの視界には、うっそりと見つめているテルがいた。私がいなければ、こいつらこのまま始めるつもりだったのか――という喉から出かかった疑問を胸にしまい、私は沈黙を以て答えとした。
ハレはけれど――と、例外を口にする。彼は何度か口を開閉して、それから己の決意を表明した。
「けれど、今回の目標は――……その、ただの異世界の獣ではないんだ――もしかしたら、私たちの故郷を滅ぼしたかもしれない、異世界の獣であるかもしれない」
ハレとテルの故郷を襲った獣については私も耳にしたことがある。というか、私は彼らの仇である獣を討伐しているかもしれなかった。彼らの故郷はあちら側とこちら側の狭間の、限りなくあちら側に近い場所にあった。恐らく人間の世界だけでいうならば、あれほどあちら側の世界と接していた里はないだろう。
そして彼らはあちら側の世界の生き物たちに襲われた。圧倒的な力で、人間たちは為すすべもなく喰われていた。私が駆けつけていたときは、既に里は里としての機能を為していなかったのだ。
私が獣を処理したとき、彼らの姿は見えなかった。既に彼らは故郷を脱していたのだろう。
彼らは私がそのときの獣を殺したことを知らない。自分たちの仇を殺した恩人を前にしても尊敬の念を一切抱いていないのは、それが理由であるからだ。
けれど私は絶対に、彼らの仇をとっていたことは喋らない。恩を作りたくなかったし、彼らと絆なんて生まれたらそれこそ私の狩りの邪魔をされるのは目に見えていたからだ。
「だから私たちは仇を討たなくてはならない。大切な恩人を殺したあの獣をたとえ弱者であろうと、私たちは許しはいけないんだよ」
ハレは語る。ならば目の前のもう一人の恩人に対しての意見を尊重してほしいとも考えたが、言うだけ無駄なのでやはり口は閉じる。やがて人間の世界でいうところの夜となり、私たちは――正確には私だけが眠りについた。彼らは二人で、見張りをするらしい。
「……矛盾しているってわかんないかなぁ」
テントの中で、一人ごちる。勿論誰に聴こえるまでもなく、返事が来るわけでもなく、私の独り言は宙に浮かんだまま最後まで独り言のままであった。
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