第12話 ハナ婆の昔話 ―前編―
初めての給料日から数週間経ったある日の朝、ヒカリは始業時間前に仕事の準備をしていた。そこへマリーがやってきた。
「ヒカリ! ちょっといいかしら?」
マリーが声をかけてきた。
「あ、はい!」
ヒカリは立ち上がりマリーの正面に立った。
「今日は、ばら園の方の手伝いをしてきてちょうだい。急に従業員が休んじゃって困ってるから」
マリーはそう言った。
「そうなんですね。わかりました!」
ヒカリは元気よく返事をした。
「ということでシホ! ヒカリは、ばら園に回すからね!」
マリーはシホに声をかけた。
「はい! わかりました!」
シホはマリーに返事をする。
ヒカリはシホと受付の仕事の引継ぎを済ませた後、ばら園へ向かった。しばらく歩いて、ばら園に着いたものの、誰に話をしたらいいのかわからなくて困ってしまった。あたふたしながら周りを見渡していると、奥の方にばら園のスタッフがいたので、近づいて話しかけた。
「おはようございます! マリーさんに言われてお手伝いにきました!」
ヒカリが話しかけたのは、かのやばら園と書かれた緑のメッシュキャップとポロシャツ、ベージュのズボンに白い軍手と黒の長靴を身につけた若い女性だった。こんがり日焼けしていて元気な笑顔が特徴的な人だ。
「あら、新人さんね! えっと、名前はたしか…………」
その女性はヒカリの名前を思い出そうとしていたが、なかなか思い出せない様子だ。
「ヒカリです!」
ヒカリは自分の名前を伝えた。
「そうそう、ヒカリちゃん! ごめんねー! 花の名前は覚えられるんだけど、人の名前はどうも覚えるのが苦手で! ははは!」
その女性は元気に明るくはきはきと言った。きっとこの人は、とんでもなく花が大好きな人なのだろう。
「私の名前はカスミ! 今日は急に来れなくなった従業員さんがいて困ってたんだ! すごく助かるよ!」
カスミはとにかく元気に話す。
「でも、私、薔薇の手入れとかしたことないんですけど、大丈夫ですか?」
ヒカリは心配になってカスミに質問した。
「まぁ、ベテランのハナさんと一緒だから、指示に従って作業してもらえれば問題ないよ!」
カスミはそう言った。
「ハナさん?」
ヒカリはもちろん誰がハナさんなのかもわかっていないので、気になってつぶやく。
「あっ、ちょうど来た! ハナさーん!」
カスミがヒカリの後ろの方を見て手を振る。
「なんよー」
その声が聞こえて、ヒカリが後ろを振り向くと、一人のお婆さんがキャリーカートを押しながら、ゆっくりと近づいてきていた。頭に白い手拭いをかぶり、花柄の割烹着とズボンを身につけ、腕にはアームカバーをし、黒い長靴を履いている。おそらくこの方がハナさんなのだろう。
「この子がお手伝いのヒカリちゃん!」
カスミがハナにヒカリのことを紹介する。やはり、ハナさんはこのお婆さんだった。
「よろしくお願いします!」
ヒカリはハナに頭を下げて挨拶をした。
「えぇ」
ハナは少し微笑んでそう言った。
「それじゃ、今日も一日頑張っていきましょう!」
カスミは拳を突き上げながら元気よく言った。
「あっ。……おー!」
ヒカリもカスミに合わせて慌てて同じポーズをとった。
「おう!」
ハナも同じように拳を突き上げようとしているのだろうが、あまり腕が上がらない感じだった。それでも少し笑っていたようだ。
それから、ヒカリもカスミと同じ服装に着替えた後、ばら園の手入れ作業を始めた。
「まずは、水やりをすっど」
ハナがホースの付いている水道を指差しながら、ヒカリに声をかける。やはり、ハナは鹿児島の生活が長いのだろう、基本的に鹿児島弁を話すようだ。
「はい!」
ヒカリは元気よく返事をしてホースを手に取る。
「婆ちゃんが言ったところだけ、かけていって」
ハナはそう言って水をかける場所を細かく指示した。それに合わせてヒカリは水をかけていく。
「どこでも水をあげていいわけではないんですね!」
ヒカリはハナに話しかける。
「そりゃそうよ! 水を欲しがってるところにはたくさん。そうじゃないところにはそれなりよ」
ハナはそう言った。
「へぇー。でも、それをどうやって見分けるんですか?」
ヒカリは気になって質問した。
「ふふふ」
ハナは含み笑いをした。
「あー! ハナさん! 意地悪しないでくださいよー!」
ヒカリは急にハナがお茶目な行動をとったので、それが面白く感じた。
「ほっほっほっ」
ハナもなんとなく楽しそうに見えた。
「ふふ……。もう!」
ヒカリは笑いながら言った。それから、しばらく作業をした後、ハナがヒカリに話しかける。
「お嬢ちゃん。疲れんかよ? いったん休憩すっど」
ハナはヒカリにいったん休憩だと伝え、木陰のベンチに向かって歩いていく。
「……はい!」
ヒカリは頬をつたう汗を、首にかけてあるタオルで拭きながら返事をした。ハナの後をついていき、木陰のベンチに座る。ハナがキャリーカートから水筒とコップ、さらにはお菓子をいくつか取り出した。
「はぁ。すっごく汗かきました」
ヒカリは全身汗だくになっていた。タオルで顔の汗を拭きながら、メッシュキャップを外す。
「麦茶でよかけ? まぁ、麦茶しか持ってきとらんけどね。ふふ」
ハナは麦茶をコップに入れてヒカリに渡した。
「ありがとうございます! ……いただきます!」
ヒカリはそう言って麦茶を飲んだ。氷で冷たくなっている麦茶がとても気持ちよく、乾いた喉を潤してくれた。
「お菓子もあるから、適当につままんか」
ハナはお菓子も好きに食べてよいと言った。
「えー! 嬉しい! ありがとうございます!」
ヒカリはお菓子まで貰えたので嬉しかった。
「こげん天気のよか日は、麦茶とお菓子でピクニックよ! ふふふ」
ハナは楽しそうにそう言った。
「なんかいいですね。薔薇に囲まれてお茶ができるなんて」
ヒカリは目の前に広がる薔薇の景色を見ながらそう言った。よく考えてみれば、こんなにも素敵な環境でお茶ができるというのは、すごく幸せなことだと思う。
「あんたの髪留めを見ると、昔のことを思い出すがよ」
ハナはヒカリの薔薇を模した髪留めを見ながら言う。
「このマリーさんから貰った髪留めですか?」
ヒカリは髪をほどいて髪留めを手に取り、ハナに見せる。
「……せっかくだから、ちょっとだけ婆ちゃんが昔話をしてあげるが」
ハナはヒカリの手の上にある髪留めを見て、少しだけ何かを考えているような表情を見せた後、そう言った。
「昔話?」
ヒカリは少し首を傾げた。その後、少しだけ沈黙が流れた。その間、ハナは遠くの薔薇を見ているようだった。
「……あるところに、一人の魔女がおったとよ。その魔女は、魔法使いの世界で、最強の魔女と呼ばれるほどの魔力の持主だったそうだ」
ハナは昔話を始めたようだ。
「最強の魔女? マリーさんのことですか?」
ヒカリはすごく気になり質問した。
「そうよ。……当時十七歳のマリーちゃんは、すでに最強の魔女と呼ばれるほどの魔女になっていてね。でも、マリーちゃんは自分のやりたいこともわからなくて、人生がすごくつまらないものだと感じていたのよ。だから、それをどうにか変えたいと思って、本当に自分がやりたいことを探すための旅に出たわけよ。それから――」
ハナはどこか遠くを見つめながら話し続ける。
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