すすきのがんかけ
juno/ミノイ ユノ
すすきのがんかけ
曖昧なものを吹っ切るように、これまでの年月と月日をなかったことにするために、すすきを一本、手折る。
意外なほど簡単にそれは折れて、私の掌に寄り添うようになよなよと枝垂れた。こんなに味気ない重みだったのか…こんなもので本当に縁が結べるものかと、悔しくて、情けなくて、行き交うカップルの多いこの結社の前で、私は泣いた。正体を失くすほど号泣した。一頻り泣いた後、すすきを社の向こうへ放り投げた。後ろに居るカップルが正面の私を邪険にして舌打ちをする。行き遅れの一人身が半ば狂って、縁結びに躍起になっているのだと思っているに違いない。それも一理ある。しかし私は幸せな恋など望んではいない。未来の幸せな私は、現在の不幸せな私をきっと忘れてしまうだろうから、いっそずっと恋などしない。私にはそうして願を懸ける道しかないのだ。
***
午前十時三十四分。
昨日の夜の大雨で眠りが浅く、寝過ごしてしまってバイトを休まざるを得なくなり、またひとつ人の信用を失ったなぁとぼんやり考えながら、安いベッドの中で寝返りを打った私に非情なベルが降り注いだ。
ピンポーン
正確にはインターホン。安いワンルーム中に響き渡るけたたましい音色は、寝不足気味の頭に痛みを教えるのにもってこいだ。のそのそと寝床から這い出して、とるものもとりあえず鍵を開ける。するとこちらがドアを開けるまでもなく、鉄の扉がこっちに…ぶつけんばかりの勢いで、迫ってきた。
「来ちゃいました」
文句を言おうとしたが、その相手が意外すぎて私は二の句が継げなかった。同時に、寝起きのまま応対してしまったことを深く後悔した。相手は高校時代の後輩だった。しかも男。
「あ……あんた、何しに…ってか、なんで?!」
「久しぶり、先輩。元気そうだね」
比較的仲のよかった後輩の日高(ひだか)は、少し学生時代より大きくなった身体を二つ折りにして深々と頭を下げた。背中には巨大なリュックサック。色素の薄かった髪は改めて染めたのか、柔らかそうなライトブラウンになっていた。雰囲気は多少変わったが、見違えようはない。大方二年ぶりくらい経つが、随分と垢抜けて見えた。
「いきなりでごめん、ちょっと上げてくれたりしない?」
「それはいいんだけど…あんた、本当どうしたのよ」
「色々事情があって…先輩が京都に住んでるって思い出したもんだから」
日高はにやっと八重歯をむき出しにして笑った。高校時代と変わりない、女の子のような笑顔。それだけで老若男女問わず虜にした魔性の美しさである。日高は呆気にとられる私を傍目に部屋に上がりこみ、フローリングに座り込んでリュックサックをどすん、と下ろした。
「本当、先輩は変わりないねぇ」
「…あんたもね。そんなに傍若無人で上手くやれてるか心配」
日高は人懐っこい男だった。それ故に、相手が誰であろうと細々と態度を変えたりしなかった。だからこうして一年先輩の私にも堂々とタメ口を叩く。
「大丈夫ですよ。ちゃんと敬語も使えるから」
私は着替える間もなく彼にハーブティーを注いでいた。眠れない夜のお供ことカモミールティー。日高は子供のように熱いティーカップに飛びつく。
「で?本当にどうしたの」
「あー……えっと、何が?」
「だから、わざわざ京都まで来た理由」
私と日高の地元は兵庫県の片田舎だ。京都まで来るのが無理な距離ではないけど、殆ど旅行と言っても差し支えない距離である。日高の進学した大学は地元の公立大学の文学部で、県外に出ることはほぼないだろうし。
「俺、寺社仏閣オタクなんだよね」
「……はぁ?」
「だから、神社とか寺とか大好きなんですよ。今日は貴船神社に行くつもりで来たんだ」
日高はかなり渋い趣味をしていた。前々から知ってはいたけど、大学に入ってから悪化したみたいだ。これだから文学部は恐ろしい。
「きふね…って、どこ?」
「うっそ、もう二年も京都市民なのに先輩知らないの?」
「悪かったわね。バイトと勉強で観光なんてろくに出来ないし」
日高は大きな溜息を吐いた。人の家にいきなり押しかけてきて、いきなり批判するなんて失礼な奴だ。
「鞍馬山の西側にあるんだよ。俺も行った事ないけどアクセスは頭の中に入ってるから」
「あたし、今日バイトが…」
「でも寝過ごしたんでしょ。なんとなくわかるよ」
日高は全て察していたようだった。これだから、この男は油断ならない。気だるい昼前に厄介な奴を招き入れてしまった。私は自分のハーブティーに息を吹きかけ、少し冷ましてからゆっくり飲んで、この先のことを考える。貴船神社の名前だけは聴いたことがあるのだ。でも私は行ったことがないし、そもそもどこにあるのかも知らない。この後輩は確実に行く気だし、きっと私も逃げ切れずに連行されるだろう。しかし不思議なことに、日高が企てた計画事、例えば打ち上げなどのプランニングは高校時代からはずれた験しがなかった。根っからのアイディアマンでサービス精神も旺盛。年下ながら、素直に敬意を表さざるを得ない。時折見せるあの鋭すぎる洞察だけは、本当に始末に負えなかったけれど。
「…わかった、でも私全然詳しくないし、案内してよね」
「お安い御用」
日高はにやりと笑った。
叡山電車を使ったのは、思えばこれが初めてだった。どんどん深くなっていく谷や森、都市部の喧騒が全くなくなった辺りで目的地・貴船口に辿り着く。
「川の名前も貴船川っていうんだよ」
鉄橋を渡るあたりで日高は誇らしげに言った。なるほど、確かに付け焼刃の知識ではないらしい。私は旅先でのガイドの話の類が好きなほうなので、逐一の詳しい説明を聞き漏らさないようにした。
「このあたりは全部”きふね”って言うのね」
「そうだよ。神様の乗ってきたとされる船型の磐があるから、貴い船と書いて貴船」
ホームに降り立つ。初春の山は風こそないが、とても静かで冷たかった。寒いのではない。市内は盆地だけあって底冷えがするが、この山の入り口は清らかな冷たさに覆われていた。自然を楽しむだけでも十分なくらいに。
「先輩、寒くない?」
「大丈夫。今日はちょっと厚着してきたから」
日高はあの重そうなリュックサックをそのまま持ってきていた。重そうだから置いていきなよ、また帰ってくればいいのにと言ったけど、奴は耳を貸さなかった。電車の中では膝の上に置き、背負う時にも丁重に扱い、見れば随分大事そうに持ち歩いている。大金でも入っているのではないかと思った。
「そういえば、何で京都なの?」
「いち早く京都の春を体感したくて。先輩も動機なんて探ってないで折角だから色々楽しんでね。何でも教えるから…あ、あれは蛍岩って言って」
まるで何かを誤魔化すように、日高は目線の先の岩を指差した。そしてこちらを見ることもなく駆け寄ってしまう。私は慌てて後を追った。しかし私の中に飲み込めない何かが残った。
言うなれば、不自然。
何が、といえば特に例を挙げるべきことなんてないかもしれない。けれどここに来たこと事態不自然だし、私の下を訪れたことが不自然だ。私は日高の隣を歩きながら、日高や日高との共通の知り合いに、下宿先のアパートの住所を教えたことがあったかどうかを考えていた。私の記憶が正しければ、多分それはないのだ。だが人の居場所など調べようと思えば簡単に調べがつく。そう思って、さして気にも留めなかった。
けれど、今になって…何かが腑に落ちない。
声を掛けようにも、私の本能がそれを避けていた。何故か、それを本人に問い質してはならない気がした。
「先輩、ヒールで来たんだね」
日高の恍けた一言でいきなり現実に引き戻される。全く話を聴いていなかった。
「あ…ごめん、聴いてなかった。どうしたの?」
「いや、昨日雨だったから土が湿りがちなのに、先輩ヒールで来てるなーって」
「あっ」
何故このタイミングで、そんな恐ろしい忠告をするのだろう。軽い山道に差し掛かった私の足元は、跳ね返った少量の泥でとても惨めなものになっていた。
「気付かなかった…」
「俺も気付かなかった。もっと早く言っとけばよかったな…ごめん、先輩。っていうかこっちでも雨降ったんだね」
「昨日ね。すごい雨だった」
昨日は講義の帰りに大雨に降られた。お陰でお気に入りの春物カーディガンをクリーニングに出さなければならなくなり、昨日は不貞寝したのだ。そして今朝の寝坊。とことん天気と相性が悪い。
「俺、担いでいこうか」
「は?!…何言ってんの、このくらい全然大丈夫よ」
不思議なことに日高の目は冗談交じりのそれではなかった。私は思わず目を逸らす。直視できるものではなかった。そして、今でも男性にそんな態度を取ってしまう自分が面倒だった。
「これどうせバーゲンで買った安物だし」
「…そっか。でもヒールが泥濘に取られて歩きにくいんじゃない?一回休もう」
御誂え向きに、すぐ近くに御茶屋があった。この貴船神社の参道にはやたらと御茶屋、土産物屋が揃っている。平日の真昼間だと言うのに地味に賑やかなのはここが隠れた観光地だからかもしれない。清水寺の産寧坂、二年坂程ではないにしても、私が知らないだけのかなり人気の場所みたいだった。
日高に促されるまま、御茶屋特有の真っ赤なビロードに腰を下ろした。縁傘の下を爽やかな春風が通り過ぎていく。暫くすると、日高は甘酒を買ってきてくれた。少し肌寒い春先に適した、日高らしい心遣いだった。
「ありがとう…なんかごめんね、先輩なのに」
「いやいや、俺が無理矢理連れてきたようなもんだし、気にしないでください」
日高は昔から、少し褒めたり祝福したりすると敬語になった。きっと照れているのだろう。もういい大人なのに、そんなところがなんとなく可愛らしい。甘酒がゆっくりと身体を温めていく。言いようもなく、幸せだった。
「美味しい?」
「うん、冬だと寒すぎて味がわかんないときもあるけど、今はすごく美味しい」
「そっか。俺の分まで味わってね、先輩」
日高は自分の分を買っていなかった。気付かないわけではなかったけど、日高は昔から甘いものの類が好きではなかった。だからだろうと思ったが、そんなことを言われては悪い気がしてくる。
「自分のも買えばいいじゃない。あたしがお返しに買うし…」
「いいよ。俺は甘いの嫌いだから」
ぴしゃり、と言い切られてしまっては立つ瀬がない。けど日高はやはり、不快な顔はしていないのだ。いっそ表情に全部出してくれたら付き合いやすいのになぁ、と思って…その瞬間に一瞬だけ、誰かの顔が過った。
笑顔を失くしたのは私だった。まだ…まだ、吹っ切れていないのだ。
「…大丈夫?先輩…火傷でもした?」
「ううん、平気。待たせちゃったね、先行こうか」
紙コップをゴミ箱に捨てて立ち上がる。私は無理矢理に日高の手を握った。今は私のほうが燃えるように熱い。心臓の拍動もこれまでの比ではない。本当は、高校時代を思い出させるものには逢いたくなかった。日高にも…あんなに可愛がっていた日高にも逢いたくなかった。何故なら、日高と私の間には常にあの人が居たから。あの人が繋いだ縁が日高だ。だから、何も告げずに…私はひとりで、誰も知らない、誰にも知られない街で、ただじっと傷の癒えるのを待ち続けていたのに。
「先輩」
ぐじゅ、ぐじゅと足に泥が跳ねる。先へ進めない。日高が後ろから強く手を引いていた。振り払おうとしても、私には力が入らなかった。
「もう、よそう。行くのやめよう」
「何言ってんのよ日高、こんなところまで来ておいて…」
「先輩を泣かせてまで行くような所じゃないよ」
私は何言ってんの、と切り返したつもりだった。しかしそれは掠れた息の音にしかならず、日高が頬に当ててきた右手は何かにべったりと濡れた。それは私の涙だった。嗚咽も、しゃくりあげも、何もない。ただ単に涙が流れているだけだ。
「俺が軽率だった…ゴメン、帰ろう」
日高は私の目をまっすぐに見る。視線を剥がせない。今度は目を逸らせない。でも私の目には日高は見えない。涙でいっぱいで、全てがぼやけて見える。
「……日高が、私を連れて行ってくれるんでしょ?」
弱弱しく呟くと、日高の息を呑む音が聞こえた。もしかしたら日高も泣いているのかもしれない。確認するだけの力はなくて、私はその場に蹲った。膝を抱えて、ひたすらに涙を流した。どうして泣いているのか、現代国語のように読解するのはとても難しかったけど、これだけは解る。私は今でもあの人を愛している。藤崎悠一(ふじさきゆういち)。私が生涯で初めて、そして最も愛した人。そして、私に別離の言葉さえ遣さずに捨てた人。今でも私をこれほどまでに泣かせる男。日高の、同じ部の先輩…
一体どこにこれほどの涙が残っていたのかと思うほど、後から後から雫は止め処なく流れてきた。緩んだ地面に零れ落ちて小さな水溜りを作る。愛しい、愛しい、愛しくて、憎い…心の中で呟きながら、荒い呼吸をゆっくりと落ち着けた。日高はずっと私の頭を撫でていた。
ようやく波が静まると、私は妙にお腹がすいてきて結局御茶屋に逆戻りするはめになった。今度はお団子を買って、二人で一緒に食べようと言ったけど断られてしまった。かといって御茶屋には辛い食べ物なんてない。一人で食べるのは心苦しいが、ついに日高が触れることなく団子は串だけになった。
「さぁ、今度こそ行こう」
「うん。…でも、もうこんな時間だよ」
日高が腕時計を見せてくる。四時を少し回ったくらい。些か時間を潰しすぎてしまったみたいだった。盆地の夜は暮らしづらい。加えてここが山となると、早めに帰らなければならないのは明らかだった。
「どうしよう、大丈夫かな?」
「貴船神社には三つの社があるけど、三つ回るのは流石にきつそうだよ。先輩をどうしても連れて行きたかったとこがあるから、とりあえずそこだけ行ってもいいかな」
「うん、任せる」
そう言うと日高はずんずん道を歩いていった。さっき泣き崩れた「参道」は、素通り。如何にも本宮という感じだけど素通りしてよかったんだろうか。
しかし日高は妙に満足げな顔をしていた。ここは何か企みがあってのことだろう。私は黙って日高の隣を歩いた。
日高は小高い丘の前で立ち止まった。どうやらその丘を登るらしい。一層森が深い参道に、ヒールの私は少し足が竦んだけど、ここで立ち止まっては尚更帰れなくなる。
「ここの上が、結社だよ」
「ゆいのやしろ…?」
「まず、先輩には貴船神社がどんな神社なのか説明しないとね」
ゆっくりと一段ずつ階段を踏みしめると、流石に下が舗装されているからかヒールが沈みかけることはなかった。木々に雨から守られているのか、地面もぬかるんではいない。
「昔、京都には都があった。794年に平城京遷都があって、その頃に注目されたのがこの貴船神社。当時の人達は水の神様を祀る社をとても大事にしていた」
「じゃあここって水の神様が祭神なの?」
「そうだよ。タカオカミカミとか…まぁそんなマニアックな話はどうでもいいや、とにかく京都の治水に関連する神社なんだけど、この結社だけは別の謂れがあるんだよ」
中盤くらいまで上ると、説明のような立て札があった。構わず日高は喋り続ける。
「アマテラスの子孫ニニギノミコトが地上に降り立ったとき、地上で美しい姫に出会った。それがコノハナサクヤビメ。二人は結婚しようとしたが、彼女の親はその姉のイワナガヒメまでニニギに嫁がせようとした。ニニギはそれを拒んで、コノハナサクヤビメだけを妻にした。イワナガヒメはそんな我が身を恥じて、世の人の縁の為に末永く良縁を授ける、と言ってこの地に留まった…っていうのがここの謂れ」
「ふぅん…なんだか、ニニギって酷い男ね」
「二心のない誠実な男って取り方も出来るけどね」
私はなんとなく納得出来なかった。捨てられた女の気持ちはどうなるのだろう。いつだって愛されるとは限らない。そうして選ばれた女は幸せだが、そうして捨てられた女は何よりも辛い。私にはよくわかる。ニニギという神は、藤崎と全く同じ事をしたのだ。そしてイワナガヒメの気持ちは、私もよく知っているあの気持ちだ。
「縁っていうのには色んな取り方があって、そりゃ勿論一番の王道は恋とかだけど…親子の縁とか、友達との縁とか、果ては企業や学校なんかに縁がありますように、って合格祈願までしてる人もいるらしいよ」
「ちょっと無理矢理だね、それ」
「気持ちは解るんだけどね。まぁでも、縁って結構大事だから…平安時代から貴族も民衆も挙って頼りにしてたらしいし、先輩にも教えてあげようと思って」
そうこうしているうちに社に着いた。朱塗りの柵が眩しいくらいに本殿を囲っている。その周りには無数のススキがあって、厳かなんだか庶民的なんだかよくわからない風情を醸し出していた。
「ここの願掛けの作法は、昔はススキを結って縁結びを祈願するやり方だったらしいけど、今はなんかの条例で保護されてるからその結び文に書いて結うんだってさ」
なるほど確かに無数のお願い事が書いてある。私はそのひとつひとつを見ながら、恋をしている人間の煌びやかさを感じ取っていた。私にはこの煌びやかさはもうない。少なくても今はまだ。
「先輩はしないの?」
「あたしは…そうだなぁ、じゃあ日高との奇妙な縁が切れないように祈っておくよ」
それは私なりの冗談だった。笑うかと思ったら、日高は酷く傷ついた顔をして、そのすぐ後に笑った。
「…じゃあ俺もそうします」
「そっか。じゃあまた今度はゆっくり来て、全部の社にお参りしようね」
「そうですね」
日高は笑っていた。笑いながら、文を少し高いところに結った。私は日高よりも三十センチほど低い所に結って、最後に御座なりな礼拝をして、仲良く帰路に着いた。色々あった、濃密で風変わりな休日だった。日高は京都駅に着くなりすぐに兵庫へ帰っていった。気付けば奴はあれほどの重さのリュックサックを何も役立てていなかった。ばかだなぁ、と思うと同時に、何ともいえない幸せな気持ちになった。アパートへ帰るバスの中で、私は久々に頬が緩む体験をした。
自宅に帰ると留守番電話が入っていた。なんと相手は藤崎からだった。藤崎です、という代わり映えのしない挨拶の後で、押し殺すように続けた。昨日、日高が亡くなった。明日地元で通夜がある。俺の顔なんて見たくもないかもしれないけど、日高は俺達によく懐いてたし、来るだけでも来てやってほしい。場所は…
私はその録音を巻き戻して、頭から聴いた。もう一度聴いた。藤崎の憎い声を何度も何度も、訳もわからずに繰り返し聴いた。 しかし録音されているものが変化していくはずもなく、同じ内容を淡々と述べるだけだった。日高が亡くなった。日高が亡くなった。日高が…気が狂いそうになって、私はたまらず電話機を殴りつけた。ツー、ツー…無情な電子音が響く。私は気が付くと受話器を握り締めてリダイヤルボタンを押していた。
『はい、藤崎です』
「あたし。あのさ、性質の悪い冗談やめてよね。だってあたし今日日高と…」
『……事実だ』
いっぱい怒鳴りつけてやりたかった。何を言っているんだ、この男は。私は今日日高と一日一緒に居たのだ。そこへ「昨日死にました」だなんて冗談じゃない。笑えない。こっぴどく人を振っただけでは飽き足らず、人の命を弄ぶような冗談をかますなんて最低だ。
「そんなわけない!だって私は今日…今日、日高と一緒に居たんだよ。貴船神社まで行ってきたんだよ。日高が買ってくれた甘酒も、一緒に歩いて泥だらけになったパンプスも本当にあって…有り得ないって」
『事実だよ!事実なんだよ……俺だって…わかりたくねぇよ』
電話の向こうで藤崎はすすり泣いていた。高校時代三年間の付き合いでよく知っている、藤崎は何があろうと人前で弱みを晒すような人間ではなかった。愛くるしく人懐っこい日高とは正反対の人間で、孤高で、プライドが高くて、なのに同性からの人気は高くて、知れば知るほど好きになっていくような人種だった。そんな男が、本気で泣きじゃくっている。私は今日二回目となる涙を流さざるを得なかった。驚きと悔しさに、声をあげて泣いた。
日高は居ない。日高はもうどこにも居ない。それでは今日出逢い、私を誘い、手を取り、導いた男は誰だ?日高以外の誰が居るだろうか。あれは日高だ。でも日高はいない。最後に私の心を抉って、大事そうに抱えたまま、日高はどこにもいなくなってしまった。もう二度と逢えないと解っていながら、どうして日高は私の下へ来たのだろう。日高に逢えたら、胸倉を掴んで言及してやりたい。そうして私の心を返せと怒鳴りつける。恋とまでは言わない、けれど日高を想うと呼吸がし辛い。それは私の心の一部が自由を奪われたからだ。今日の、半日にも満たないほんの僅かな時間で、私は凍らせていた心を解かされてしまった。思い出したくない過去を思い出し、温かみのある感情を思い出した。それなのに…
行き場を失った感情は、お互いに受話器から排出するだけだった。私と藤崎は電話越しに泣いた。互いが耐え切れなくなって受話器を置くまで、フローリングに座り込んでわんわん泣いた。
***
あれから私は一度地元に戻り、通夜と葬儀の両方に出席した。ずっと信じられず受け入れられなかったが、粉々の骨になった日高を見ると認めざるを得なかった。ただの仲のよかった先輩というだけで、遺族は納骨に立ち合わせてくれた。その場には勿論藤崎も居た。藤崎は就職先の上司に見込まれ、驚くべきことに結婚していて子供まで居た。しがない学生の私とは違って、しっかり社会人になっていたのである。つまり、私を捨ててまで付き合った女とも別れた、ということだ。なんて浅はかな恋に悩まされていたのだろう、と憑き物が落ちたような気分になった。
藤崎も同様の心持らしく、このたびの凶報を齎すときも葛藤はなかったらしい。ただ、日高のことは伝えなければならないと思った…その心遣いだけで、私には充分だった。
日高は地滑りに巻き込まれて命を落とした。あの大雨のせいで地盤が緩くなり、通う大学の近所で土砂の海に巻き込まれたのである。遺体が見つかっただけまだ幸い、と言いながら彼の両親は目に涙を溜めた。日高は課題が終わらず、連日大学に泊り込んで作業をしていて、あの巨大なリュックサックには宿泊用の細々とした道具一式が詰まっていたのだそうだ。日高はどこにも寄り道せず、雨が上がるのを見計らって私のところへやってきたのだろう。
私は既にそんな経緯を聞いただけでボロボロと泣いていたが、最後に聴いておかなければいけないことがあった。
「あの…日高君は、おとといどこかに行く予定がある、なんて言ってませんでしたか?」
私が問うと、彼の両親は頷いた。
「京都の貴船神社に行くと言っていました。どうしても連れて行きたい人が居る、やっと消息が掴めたからと…」
その先は言葉にならなかった。私も何も言えなかった。ただ、言葉を交わす代わりに、熱い涙が後から後から毀れ出た。
本来、この社のススキは千切ってはいけない。
ススキで願を掛けたのは今となっては昔の話だ。けれど、私は敢えてススキを千切っていく。
そうして、叶わなかった縁に見切りをつけるように、社の向こうまで放り投げる。
いや、もしかすると縁は叶ったのかもしれない。
それは誰にもわからないし、当事者である私達にもわからない。
…私が最後に抱いた日高への想いが、果たして恋であるか、そうでないか、わからないように。
本当のことを言うと、恋でなければいいと思う。
恋なんてありきたりで、即物的で、誰もが麻疹のように経験することで、日高との縁を終わらせたくないのだ。
仏教の見解では、恋に身を任せた人々の縁はこの一世で終わりだと言う。
信じるわけではないけれど、私は日高との縁をこの一世きりで終わらせたくない。
またどこか広い世界で出会う筈なのだ。それが、縁というものだ。
ひとりで訪れた貴船神社の帰り道は、ぬかるんでもおらず、決して人気も閑散としたものではなかったが、気が付くと隣に日高が笑っているような気がした。 END
すすきのがんかけ juno/ミノイ ユノ @buki-fu-balla-schima
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