31 もう逃げない

「休憩いただきました」

「いえ、お帰りなさいです」


 厨房に入ると姫野さんが休憩から戻っていた。厨房の入り口から一番遠い場所には小冬の姿。オーダーは入っていないようで、二人とも作業台や電子レンジの掃除をしたりしている。


 皿を片付けるため小冬に近づくと三歩距離を開けられた。心にダメージを負ったが小冬はこれ以上傷ついているため俺は引かない。


「小冬」

「……」


 さらに一歩後ろに下がる小冬。俺とは顔も合わせてくれない。下がった分だけ距離を詰めるとその分小冬が後ずさる。やがて逃げ場がなくなった。


「来ないで。仕事中だって、言ってるでしょ」


 床を見つめながら吐き捨てる。


「仕事に支障が出てるでしょ。だからやっぱり今謝らせて」

「謝るって何? 私に悪いことしたって思ってるの? 慰めなんていらないから」

「違うよ。そうじゃない」


 わかってくれない。当然だ。俺たちはまだ言葉にしてないんだから。ましてや今はお互いの表情すらわからない。


「それ以上近づいたら大きい声出すから」


 俺にだけ聞こえる大きさで脅すようなことを言ってきた。俺のことは完全に敵として映っているようだ。いや、傍から見たら俺が脅してるように見えるか。


「お願いだから、もう少し待ってよ……」

「ん? なんて言った? ハッキリ言って」


 何か言っているのはわかったがうまく聞き取れない。聞き返すと小冬は俺に近づいてきた。真っ直ぐ下を向いたまま、俺の横を通り過ぎる。


「姫野さん。ごめんなさい、体調悪いので帰ってもいいですか?」

「え? いいですけど大丈夫ですか? 一人で帰れます?」

「病み上がりで体力が戻ってないだけです。まだ夜遅くないですし一人で大丈夫ですよ」

「そうですか? 気をつけて帰ってくださいね」

「はい。お先に失礼します」


 小冬が帰っていくのを俺は黙って見ていることしかできなかった。引き留めることができなかった。俺は、どうしたらいい……。


「瀬川君」


 悩んで突っ立っていると姫野さんが顔の前で手を振った。

 周りも見えなくなっていたらしい。


「あ、はいすみません。仕事しますね」


 今日はダメだった。また次の機会にかけよう。その日が来るかわからないが。


「仕事なんてしなくていいです。何かあったんですか? ユキちゃんもですけど瀬川君も見てられないくらい体調悪そうですよ」

「いえ、俺は全然平気です。どこも悪くなんか……」


 姫野さんの真剣な目を見て言い訳をやめた。恥を捨てた。言葉に出して懺悔する。


「俺が、泣かせました」


 泣かせないと約束したのに泣かせてしまった。

 姫野さんはやはりといった様子で呟く。


「そうでしたか」

「怒らないんですか?」

「怒りませんよ。だって瀬川君も辛そうですから」


 辛い、か。それは小冬のあんな姿を見たからだ。そしてそれ以上に小冬をそんな状態になるまで傷つけた自分に怒りが沸いてくる。

 なら、俺がやるべきことは一つしかない。


「姫野さん」

「はい、なんですか?」

「追いかけてきます」

「はい、行ってらっしゃい」


 俺は厨房を飛び出し、ゴム手袋を引きちぎって捨てるとタイムカードも通さず急いで着替えた。女子更衣室の電気がついていないから小冬はもう帰ってしまったのだろう。まだそこまで時間が経っていないため急げば間に合う。荷物も持たずに慌てて更衣室を出ると、


「暖」

「あ、小田切さん。すみません、先上がります」

「焦るな。お前ならきっとうまくいく。応援してるから頑張れよ」


 俺の背中を叩いて送り出してくれた。ここの人たちは本当にいい人たちばかりだ。


「かっこいいですね。きっと小田切さんにもいい出会いがありますよ」

「うっせ。いいから行ってこい」


 俺は頷き、店の外に出た。




 *




 駐輪場には小冬の自転車がまだ止まっていた。スマホを取り出し、小冬に電話をかけたところで店の裏から微かに声が聞こえてきた。


「──だ。────て────さい」


 嫌な予感がする。電話もつながらない。

 俺は反射的に声のする方へ動いた。暗がりでよく見えず、声の内容は聞き取れないが張り詰めるような邪悪な空気は予感では済まないことを物語っている。


「なあいいじゃんよ。どうせ暇でしょ?」

「そんな怖がらなくていいよ。大丈夫、優しくするからさ」


 聞こえてきたのは男の声。耳障りで気色の悪い声だ。


「なあ、マスク取って顔よく見せてよ。俺、この子絶対可愛いと思ってたんだよね」

「俺ら君の顔を見るために何度か来てるんだぜ。金払ってるんだからサービスしてくれよ」


 声の主は大学生くらいの二人組。体格は俺よりも大きく、二人で一人の少女を壁際に追い詰めて囲んでいた。

 それを見た瞬間、考えるより先に俺の足は地面を蹴った。


「……やです。来ないで……」


 壊れてしまいそうなくらい掠れていて震えた声。

 少女は助けを呼ぶこともできずに泣いていた。


「嫌がられるといじめたくなっちゃうな」

「まあいいや、もうここで相手してくれよ」


 二人の手が少女に伸びる。少女は頭を抱え、その場に崩れ落ちた。


「さあ、まずはその顔を俺たちに──誰だテメェ」


 男の声が怒気を含んだものに代わる。そして声の対象も少女には向いていない。

 俺は男たちの間に割って入り、少女に触れようとするその手首を掴むと力の限り握りしめた。


「なあ、この手はなんだ? いいとこなんだから邪魔すんなよ」


 両脇から圧を受けるが無視する。

 俺はゆっくり顔を上げてくれた少女に告げた。


「大丈夫だよ小冬。もう怖くない」

「暖くん……?」


 濡れた瞳に光が宿っていく。俺はその期待に応えなければならない。先輩ではなく、一人の男として。


「おいおい俺たちは無視かよ。聞いてんのかガキ」


 男たちは俺の手を振り払うと拳を握り締めて指の関節を鳴らした。


「ちょっと待っててね」


 小冬の頭を撫でて男たちへ振り向く。不思議と恐怖は感じない。男たちの威嚇は映画でも見ているように他人事に感じられた。心の中では怒りが爆発しているが頭は驚くくらい冷静だ。周りを見る余裕すらある。


「舐めてんのかテメェ!」

「今ならまだ見逃してやるからそこどけや!」


 アルコールの匂いを発しながら血走った目で俺を見る。クリスマスで寂しい思いをしてたところに小冬を見つけて連れ帰ろうとしたってところか。ふざけやがって。


「そっちこそ俺の彼女に何か用ですか? 来る店間違えてますよ」

「あんだとゴラ! 痛い思いしたいか?」

「っし、ぶっ潰す。大人の怖さってのを教えてやるよ」


 俺には護身用の技も特殊能力もありはしない。コイツらを煽ったところで火に油を注ぐだけだ。そうわかっていても、俺はコイツらのことが許せなかった。そして俺自身にも。


 一人の男が俺の胸ぐらを掴んできた。反対側の手は拳を作っていて殴る気満々だ。それでも俺は微動だにしない。小冬が短く悲鳴を上げたが大丈夫だと手で示す。


「やってみろよ。小冬には絶対触れさせない」

「な、なんだよその目。いいのか? どうなっても知らねえぞ!」


 睨み返すと男に一瞬の戸惑いが見られた。俺は右手で男の腕を掴み、左手でポケットからスマホを取り出す。したり顔でよく見えるようにチラつかせた。


「それはこっちのセリフだ。お客様、そろそろお迎えの時間ですよ」

「は? おいテメェ何しやがった」

「や、ヤバいって。俺先逃げるからな!」


 見ていた男は酔いが覚めたのか急に震え出して逃げ出した。


「ちょ、待てよ!」


 残された方も逃げようとしたため解放する。どうやら俺のハッタリを信じてくれたようだ。酔っていただけで根はビビりなのかもしれない。


「はぁ……よかった」


 急に緊張が抜けて疲れが来た。あのまま殴られていたら俺は簡単にやられていたと思う。賭けだったが小冬が無事でよかった。


「終わったよ小冬。これでもう安心──え、どうしたの!?」

「うっ、うぐっ……」


 小冬は溢れる涙を手で拭って必死に嗚咽を堪えていた。


「ごめん、怖かったよね。もう平気だから泣かないで。あ、俺のせいか……」


 恐怖は去ったが俺の存在が小冬のダメージになっているのかもしれない。だとしたらショックだ。でも、予定通り小冬と二人になれたから全部話そう。


「……せい」

「ん?」


 何かを伝えようとしている。

 小冬も俺と喋る気になってくれたと思って安心した。

 しかし、次の瞬間小冬は叫んだ。


「全部暖くんのせい!」

「えっ、ちょっと小冬!? どこ行くの!?」


 小冬は勢いよく立ち上がると俺から逃げるように走りだした。

 ツインテールを揺らしながら暗闇に小冬が消えていく。

 呆気に取られていたが、俺も腰を抜かしている場合ではないと己を奮い立たせて後を追った。


 もう逃げないし逃がさない。

 このいびつな関係は今日で終わらせる。

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