26 初めての放課後

 小冬のチャリを俺が押して一緒に帰る。最初は小冬が自分で押していたのだが、俺に合わせて歩いてくれてるみたいで申し訳ない気分になったから交代した。チャリのカゴには小冬の荷物。手の空いた小冬はセーラー服をひらひらと揺らしながら歩いていた。


 俺もチェーンの音を聞きながら歩幅を合わせてゆっくり歩く。客観的に見たらただの先輩と後輩ではなく初々しいカップルだ。そう考えると、いつもは沈黙が苦じゃないのに妙な気まずさがある。


「そ、そういえば、家の人には伝えてあるの?」


 俺は耐えかねて話題を振った。流石に意識してしまって落ち着かない。

 小冬は勉強してご飯まで食べていくつもりらしいから8時は過ぎると思う。そんな時間に大事な娘さんと過ごしていたなんて知られたら、小冬のお父さんに「娘はやらんぞ!」とか言われて引っ叩かれそうだ。しかし実際は違った。


「言ってないよ」

「え、そうなの?」

「うん、大丈夫」


 いつもと変わらない優しい声音。あらかじめ用意しておいたセリフかのようにさらりと言ってみせたが逆に不自然だった。

 そういえば小冬の家は真っ暗だったし、前に電話した時も一人だと言っていた。

 きっと何かしらは大丈夫じゃないだろう。でも小冬が聞いて欲しくなさそうだから踏み込まない。隠し事や後ろめたい気持ちがあるのは俺も同じだからわかる。

 またしばらく無言が続いた。


「あ、ここ寄ってこ」


 次は何の話をしようか考えていたところで目的地に着いた。小冬が指をさして教えてくれる。近所のスーパーだ。冗談だと思っていたが本当に作ってくれるらしい。

 スーパーの中は夕方ということもあって、仕事帰りのお母さんたちで混雑していた。こういうのを見ると感謝の気持ちも湧いてくる。


「何食べたい?」


 カートに買い物かごを乗せながら小冬が言った。

 なんだか声が弾んでいて楽しそうだ。


「小冬」

「ん?」

「今の──」


 もう一回言って。そう言おうと思ったがやめた。

 年下の、しかも可愛い女の子にこんなセリフを言われたら嬉しいに決まってる。

 しかし浮かれている暇はない。距離を置こうとしている子と買い物をすること自体よくない事だ。これ以上踏み込むな、俺。


「どうしたの?」

「なんでもないから忘れて。ちなみに小冬を食べたいって意味じゃないからね」

「それぐらいわかるよ。今日暖くんおかしくない?」

「ごめん気にしないで。ちょっとテンションがおかしかっただけだから」


 俺は自分の頬を叩いて目を覚ました。

 小冬が若干引いているため話題を変える。


「小冬は料理得意なの?」

「苦手ではないよ。家でも時々作るから」

「そっか、楽しみだなぁ」

「暖くんの家には何か材料ある?」

「んー、わかんないけど米と調味料はある。他は無いかも」


 うちの母さんはその日に使いきれる分しか買わないのだ。

 いつもお腹が空いて冷蔵庫を開けても何も入っていない。


「好きな料理とかある?」

「そうだなー、オムライスがいいかも」


 男なら一度は女の子にオムライスを作ってもらいたいものだ。ここは正直に言う。


「うん、わかった。オムライスね」


 小冬は「あれと、これと……」と呟きながらカートを押した。きっといいお嫁さんになるだろう。

 卵と鶏肉、それから玉ねぎ、にんじん、ピーマンもかごに入れた。


「あ、ごめん。俺ピーマン食えないんだよね」


 あの苦みは子どもの頃から無理なんだ。元あったところに戻そう。

 と思ったのだが、


「ダメです」


 何故か手首を掴まれた。しかも結構力が強い。


「え、どうして? 俺の好きな物作ってくれるんだよね?」

「好き嫌いはダメだよ」


 叱られてしまった。俺は諦めてかごに戻す。


「小冬も今日おかしいよね?」


 学校で俺の家に行きたいと言った時は恥ずかしがっていたのに今はご機嫌でノリノリだ。小夏先輩の時もそうだが情緒がわからない。


「だって、暖くんと一緒にいるの楽しいから」


 最初合った時からは想像もつかない豊かな笑顔。俺の心臓がトクンと跳ねる。

 ずっと一緒にいたい。いつまでも見ていたい。そう思ってしまう。


「俺も楽しいよ。小冬が後輩でよかった」


 俺も笑顔で返した。その瞬間、小冬の顔から笑顔がすっと消える。


 ──後輩、なんだ。


 その声は声にならず、口の動きしか確認できない。


「小冬?」

「あ、ごめん何でもないよ。レジ行こ」


 誤魔化すように頭を振ると笑顔が戻っていた。

 小冬が絶対にしない作り笑いだ。



 *



 俺の家はスーパーから歩いて三分ぐらいの場所にある。家に着くと俺と小冬のチャリを並べて置いた。片手に買った食材の入ったビニール袋を持って鍵を開ける。


「お邪魔します」


 小冬は丁寧にお辞儀するとローファーを脱いで踵を揃えた。


「そんな緊張しなくていいよ」


 これは俺自身にも向けた言葉だ。

 なんせこの家に女の子が入るのは初めてだからな。


「リビングでやろっか。ついてきて」


 たまにお客さんが来るためこの家では一番綺麗な場所だ。俺の部屋がある二階は無法地帯と化している。どこの家も似たようなものだろう。


「暖くんの部屋も見てみたいな」

「ダメです」


 俺が即答すると小冬は考える仕草を見せた。すると急にポッと顔を赤くして「あ、そっか」と言った。もしかしたら変なもの隠してると思われたかもしれない。

 なんとかリビングに小冬を案内して座らせる。


「なんか飲む? ココアとか紅茶とかなんでもあるよ」

「じゃあ……ココア。甘いの」

「おっけ」


 俺のはかっこいいからという理由で最近練習しているブラックコーヒーを淹れることにした。それから、今のうちに米を炊いておく。今の時刻は18時。1時間ぐらい勉強したら丁度炊き上がるだろう。


「ほい」


 小冬の前にそっと置いて俺も正面に向かい合って座る。


「ありがと──ごくっ、ごく。ほぁ~、美味しぃ」


 すっごい幸せそうな顔して飲むな。

 どれ、俺も一口──うん、苦い。


「あ、いけない。勉強しに来たんだった」


 一気に飲み干してカップを置くと思い出したように鞄を漁り始めた。筆記用具や参考書を出して準備バッチリ。とりあえず、勉強は本当にやりに来たようだ。


「家でも結構勉強してるの?」

「うん、暖くんみたいにたくさん勉強する」

「そ、それはどうも」


 健気すぎて気持ちが揺らいでしまう。


「今の調子なら大丈夫そうだね。小冬は頑張ってるよ」

「ほんと? 嬉しいな」

「自信もっていいよ」

「うん、頑張る」


 小冬はペンを握って問題を解き始めた。今日は化学をやるらしい。化学と言えば小冬は白衣も似合いそうだ。眼鏡をかけてもらうのも悪くない。いっそスライムでも被らせて──いかん、すぐ小冬で妄想してしまう。

 こんなことで本当に大丈夫だろうか。まだ覚悟が足りてないな。


「暖くん」

「ごめん。変なことはしない」

「ん? ここはわかんないから教えて」


 頑張ってる後輩の前で何を考えているんだ。

 コーヒーでも飲んで集中しよう。よし。


「どれがわからないの?」


 俺が聞くと小冬が席を立った。俺の後ろを通って隣の椅子に腰かける。


「んっとね、ここ」


 少しでも動けば小冬と触れ合う距離。俺にも見えやすいように並んで座ると自分の家とは思えないようないい匂いが漂ってきた。女子高生マジ半端ねえ。


「ど、どれだって?」

「だから、これだよ」


 髪の毛が当たった。ヤバい。サラサラだ。


「聞いてる?」

「キイテルヨ」

「もー、集中してね」


 俺が教えてもらう側みたいだ。

 でもしょうがないだろ。こんなの初めてなんだから。


「こ、これはね。ここが──」


 小冬は俺の話を真剣に聞いてくれている。俺はというと、小冬が頷くたびに髪が当たってくすぐったいからそれどころじゃない。小冬は何とも思ってないのか?

 ──いや、真っ赤だ。耳が全然白雪じゃない。……何言ってんだ俺。


「で、こうなるの。わかった?」

「なるほど。やっぱり暖くんは凄いね」


 何とか一問教えることができた。

 でもこれ以上は俺の自制心が持たないぞ。


「じゃあ次はこれね。今日はまだこんなにやるとこあるの」

「……わかった。頑張ろうね」


 俺は自分にもそう言い聞かせた。

 それから一時間ほど経過し、問題の方は何とか順調に進んで残り一問。


「これは簡単だよ。さっきやった……小冬?」


 流石に緊張やら疲労が溜まったのか、首が舟を漕いでいる。寝ないように頑張って首を振ったり、目を開けようとしているのが可愛い。ずっと見ていられそうだ。


 俺はとりあえずノートと参考書を閉じた。そして小冬のまつ毛を数えながら、起こすべきか寝かすべきか考えていたその時。

 小冬が大きく動いた。いや、正しくは眠気が限界に達したのだ。

 睡魔に侵食された脳は理性を失い、本能のまま眠りに落ちていく。そのままバタンと倒れ、俺の膝の上──正確には股間に顔をうずめた。


「んぐっ」


 呼吸が出来なくなったのか、もぞもぞ動く。俺は全身の血の気が引くような感覚に襲われた。そして、睡魔は滅んで世界に平和をもたらし……はしなかった。


「えっ……」


 悲鳴を上げられてぶっ叩かれた方がまだよかったかもしれない。

 小冬はむくっと起き上がると俺と俺の股間を交互に見る。


「私、今……。あれ? あたっ、てたの……」


 俺は黙って目を逸らす。股間を腕で隠しながら。


「あわわ、わわ、わたっ、わたしっ、わわわわわ!」


 小冬はノートで顔を隠した。


「ごめんね。あの、……ごめんなさい」

「いや、なんで小冬が謝るの。どっちも悪くない」

「そ、そうだよね。……ごめん」


 俺たちはただただ気まずい雰囲気に包まれた。

 ぶっ叩かれてはい、忘れましょとはならないのだ。


「あのさ、小冬」

「はっ、はひっ」

「ご飯にしよ」

「そ、そうだね」


 ちょうどさっき米の炊ける音がした。二人でオムライスを作って忘れよう。

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