第18話 不敵で無敵
「それは彼女が
少年は凍り付いていた。振り向かずとも、その声の主が誰であるか、そんなこと容易に想像できる。
(『彼女が
少年の
そこには薄闇に紛れたローブから、青白い顔が不気味な笑みを浮かべている。
次の瞬間、突然暗かった部屋が光で満たされた。それと同時に、闇に隠れていた大きなローブの姿がくっきりと映し出され、逆に笑みは影に紛れこんでいく。
少年は、冷や汗が止まらなかった。指先がいつもより冷たく、鈍く感じられた。
(ナイフを持つ手に力が入らない……。クソっ。背後を取っているのにわざわざ声を掛ける
少年は左手をゆっくり、ゆっくりと腰の投げナイフに伸ばしていった。アビスに気付かれないように、という訳ではない。それだけ動揺し、震え、動作がおぼつかないのだ。
(自分はどんな時でも、どんな状態でも、どんな状況でも、絶対に負けないという自信。そういうところが、
少年はナイフを3本天井に向かって投げた。
高音と低音が入り混じると共に、ガラスは砕け散る。
(さて、出口を
「ほう?」
アビスは興味深そうにその様子を見つめ、しかしすぐに不敵な笑みと共に前進を始めた。
「ガラスのナイフとは興味深い」
「その言い方だと、オレの能力までは見てなかったようだが。なぜ前進できる?なぜ警戒しない?取るに足らない存在だからか?」
「なぜ?
(普通じゃねえよ、クソ野郎。いかれてやがる……)
赤、深紅、鮮やかな色。それは少年が
まるでパレットのように白いアビスの皮膚をキャンバスに、筆で付けたかのように染まり、
「おや?」
アビスは立ち止り、自らの
「ふむ。二酸化ケイ素か、
冷静に分析を始めてしまうアビス。だが少年はその次の行動を、理解も、考慮も、ましてや予測などしていなかった。
彼は左手をゆっくりと前に出し、それが無数の血に染まっても尚前へ進めようとするのだ。
「これだけの力で押しても動かない。ははは、見て御覧よ!肉を割いて骨にまで達しているのに、まだ動かない。靴の
嬉々としてアビスは叫んだ。
(イカれ?いや、余裕からか。オレがいつでも攻撃できる体勢なのに――)
「ガラスに限定して、運動エネルギーを与える能力?いや、位置エネルギーの方が強いか。それで遠隔でも動かせるけれど、魔力は直接触れている時にしか込められない?」
「今君がガラスを動かさないのは、防御に徹しているからとも考えられるが……」
アビスはチラリとヴィータを見た。
「ヴィータの状況を見るに、そんな感じかな?」
(クソっ!これだけの状況で、こうも簡単に能力を言い当てられるなんて。どんだけ経験積んでるんだよ、コイツはっ!!)
「さて、仮説が正しいのであれば、このまま力を込め続ければ、固定されたガラスは位置を維持するために魔力を消費し続ける。魔力が尽きれば、地に落ちる。つまりただのガラスに戻る」
そう言っている間に、アビスの動かなかった指先が突然ガクリと動いた。
そのままアビスは、自分の真っ赤となり潰れかかった指先を見る。
「ふむ。仮説は正しかったが、予測は外れてしまったな。ガラスが骨にまで喰い込んで、地には落ちなかったようだ」
アビスはニヤリと少年を見つめる。
「少年、操れるのはシリカガラスだけなのかい?ソーダガラスはどうなんだい?黒曜石みたいな物は試したのかな?」
「ッ・・・」
「答えたくないのかい、少年?それとも全く違う考察をしていて戸惑っているのかな?」
(この態度、完全に舐め切られてる)
「まあ、いいか――」
そう言うと、アビスの左手が、まるで巻き戻しでもしているかのように元に戻っていく。
(ハア!?あり得ないだろう!一体どんな魔法を――)
そしてそれは、気付けば頬の傷も、どこに傷があったのか分からない程に、残ったのはただただ
茫然としている少年を他所に、アビスは一度手をたたく。
「素晴らしい!」
少年はハッと我に返った。
「透明度の高いガラス、砕けても失われない魔力、ガラスは砕けた直後が最も鋭くなるという特性も活かされている。能力を活かすための戦闘スタイル。よく考えられている。少年、とても素晴らしい!」
(何を言っているんだコイツ。もう訳分かんねえ)
「それを君に教えたのはフレアだね?」
(ッ!?バレてる?いや、引っ掛けか?!)
少年の心に緊張が帰って来た。
「所属を言いなよ、少年。それと自分のお名前もねえ。そしたらもう帰っていいよ」
「はあ!?」
「ここで君をどうこうするより、フレアに貸しを作っておいた方がいいだろうからねえ」
「……なぜ、フレアの所属だと思う?」
「こういう無価値な時間を過ごすのは苦痛だが、答えてあげよう。私に直接何かしてくる精霊は、陸続きになっている西のフレアか、反対の中央側、後は国境関係無く活動しているアルマの配下のいずれか。その中で誰が部下を送って来る?合理主義者の中央とは思えない。アルマは私の研究の助けはしても、邪魔はしない。では、フレアは?彼女は先日の一件で手を引いてはいるが、組織を率いるような器ではないからねえ。部下が暴走してやってくるのも、まあ
「引っ掛けるつもりか?」
「はあ……。だから無駄な時間と言っているのだ。君は強い。君レベルの精霊など、直接フレアに聴けばすぐに判る。フレアは嘘や誤魔化しが大嫌いだからねえ。違ったらアルマに聞く。アルマは全ての魔王と繋がりがあるから、大体の有力な精霊は知っている。だから、君がここで言うか、後で確かめるかというだけの違いなんだがねえ。まあいいや――」
アビスがそう言い終わった途端、少年は背後から引き寄せられる感覚に襲われる。
(何!?)
有無を言わさず、何もさせず、反応すら出来ず、少年は床に倒れ込んだ。
(なんだ……これ!?指は動く、でも手が……足も……まったく動かねえ。ピクリともしねえ。何をされている!?)
「そこで寝ていなさい。私は忙しいから」
アビスはゆっくりと歩み出す。ガラスが留まっているはずの空間を、立ち止まること無く。恐れること無く。傷付くことも無く。顔色一つさえ変えること無く。
既に少年は、ただただ
「何……をした!?」
「無知は罪だ。その
「待て、待ってくれ。所属を言う!名前も!フレア配下のグラスだ!だから教えてくれ、何をしている!?」
(もう所属を隠す意味もない。能力を知って、そのまま殺されるなら良し。万が一に生かされるなら、より重要な情報を持って帰れる)
「何を今更……。しかし、ふむ……。『教えてくれ』か。知りたいか。ふふ、良い。実に良い。とても良い。
「私の能力は、簡単に言えば物質の分解と構築だ。ガラスのような鋭利な刃物で付いた傷も、元に戻すのは訳無い。正確には再現、復元だがね。それと、君が操れるのはガラス限定なのだろう?その成分は二酸化ケイ素。なら分子構造をいじれば良い。石英は知っているかい?シリカガラスの原材料で、成分は同じく二酸化ケイ素だ」
「……それで、オレの自由を奪っているのは?」
「生命の必須元素、現代で有機物を定義する物質。食料であり、燃料であり、人を魅了する宝石でもある。変幻自在の無限の可能性。その元素の名は、原子番号6番:炭素」
「炭素?」
「炭素は良い。お気に入りさ。実に多様な分子を生み出せる。例えば炭素を6個、六角形にする。これがベンゼン環。それをハチの巣状にどんどんと広げてシートにする。これがグラフェン。今度はくるっと丸めて筒状にする。これがカーボンナノチューブ。筒の太さは様々だが、私が使うのは0.43
「ナノメートル?」
「ああ、そこからか。1
「……」
「ふむ、実感が湧かないか。ならこう思えば良い。不可視の糸。そして切断は……まあ、君には無理だろう。いくら細いとはいえ、引っ張り強度は現在の我々でも計測不能な程だ。そのくらいの物質なのだよ。それが君の四肢の骨を、床に無数に縫い付けている」
「なら、なんで痛みを感じない?オレの全身を糸で縫い付けてるってことだろう!?」
「あまりに細すぎて痛覚にぶつからないから。うーん、これを説明するのは難しいな。原理としては蚊に刺されても痛みを感じないのと同じなのだが……」
「さて、講義は終わりだ。ここからは別の実習。ああ、本当に素晴らしい。いや、待たせてしまったね」
アビスは静かにヴィータの
そして、彼女の胸に手を当てる。
「飛んできたガラスの魔力は君の能力で吸い取ったが、ガラスは慣性により速度を失わず、君の皮膚2,3cmまで突き破っているね。その一部が肺にまで到達している。そして肺出血を起こしている。肺は血で満たされている」
アビスはうっとりとするようにヴィータの顔を見る。
「その唇、目の下、耳、指の先、なんて美しい
そんなアビスとは真逆に、ヴィータは人形のように地に伏し、アビスを見ていた。
「大丈夫だよ。とりあえずは、私の魔力を吸っていなさい。君が吸った生命力や魔力は、君の細胞が活動に必要なエネルギーに変換される。私の仮説は正しかったようだ。つまり君は極論、呼吸をする必要がない。栄養を摂る必要もない。食事は必要だがね。ふふ、変な話だ」
アビスは手のひら全体で、ゆっくりとヴィータの体に触れていく。
「チアノーゼ反応が出ている割りに体温は安定している。通常の出血性ショックではない。だが、脈は
上々にアビスは語る。彼女に触れて、考えが確信に変わったのだ。
「まずガラスを体外へ摘出しよう。次に内蔵を含めた傷を塞ぐ。肺の中もきれいに掃除もする。それで元通り。すぐに良くなるよ。本当は輸血もしたいところだけれど、君には必要ないし、君もそれは嫌がるんだろうねえ」
「彼女の処置が終わったら、ちゃんと帰してあげるよ、少年――」
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