第5話 国境1つで

「どうしてそうなるのよ」


「ん?国境超えるまで少なくとも30km、しかも森に倒れていたのだよ。汗なり泥なり、落としたいと考えると思ったのだが?」

「そう……ね……」


「私はおかしいだろうか?」

「いえ……。いきなりで、ちょっとびっくりしただけ」


「そうか。よくおかしいと言われるのでね。さて、君の着替えが必要だね。ちょっと待っていてくれ」

 そう言って、アビスは壁に掛けてある黒電話に向かった。

「はい、エミリアです。何か御用ですか?」

 すぐに返事をくれる、とても良い奴。


「女性物の服が欲しい。一通り揃えてくれ、30分以内に」

「……下着もですか?」

「ああ、動きやすいのがいいね」

「色や素材に、ご指定はありますか?」

「肌に優しい素材が良いねえ。とてもか弱そうだから」

「1着で足りますか?」

「ん?ん-……では7着にしようか、一週間分あれば、足りるだろう」

「……サイズ、分かりますか?」

「あー……背は低い方……体は細いかな」

「……分かりました。サイズ全て持っていきますので、まず、サイズを確定させましょう。残りの6着は後でお持ちします」

「分かった。それでいい」

「他にご希望は?」

「ない」

 そう言って、アビスは受話器を置いた。


 一連のやり取りを見ていたヴィータは不思議がった。

「それは何?誰かと話していたの?」

「電話を知らない?国境1つでこんなにも変わるかね。まあ、知らないことは、今後じっくり教えるさ」

 ヴィータはちょっとだけムッとした。


「さあ、着替えが来たらドアの前に置いておくから、風呂は部屋の一番奥の扉だよ」


 ヴィータは、この時初めて部屋をよく見まわした。奇妙に思えたことだろう。白熱電球なんて、ヴィータは見たことも無かった。そもそも電気がかよっている世界なんて知らない。電話にしてもそう。

 それなのに、キッチン、テーブル、イス、ベッドに本棚。最低限と言えるくらいの物しかない質素な部屋。ヴィータの能力を探るためと言っていた植木鉢も、多分元々あったものじゃない。


「ああ、着ていた服はドアの外に出しておいてくれ」

「なぜ?」

「感染症が流行はやっているからねえ。念のため、煮沸消毒しておこう」


 アビスというのは、どうも発言の一つ一つが怪しく聞こえる。でも、聞けば、真っ当な理由が返ってくる。文化の違いか、常識の差か。いや、やはりどこかズレている。間違いない。


 さて、脱衣所を抜けて、くもりガラスのドアを開けると、ヴィータは再び困惑することになる。


 そこにあったのは、露天風呂であった。いつ沸かしたのか分からないが、湯気がたっている。左右は仕切りがあるが、正面のその先に見えるのはどこまでも広がる海。

 陽気で優しい風が、肌を撫でる。

 少し不安を覚えると同時に、爽やかでもある。


 ただ、浴槽よくそうの手前に、またよく分からない物が壁に設置してあったのだ。

 細い金属の管、ヴィータは井戸のポンプを連想したが、取っ手はない。管の根本には、左右に星型のような形をした何か。右は青く、左は赤い。矢印を見るに、回せばいいのだろうか。回して何が起きるのかは分からないが。


 まず赤い方を試してみる。

「熱っ!?」

 ヴィータはネコのように後ろにんで、細い管から流れる液体をしきりに観察した。


 どうやらお湯らしい。火傷やけどするほどではないが、かなり熱い。

 そ~っと近づき、赤い方を逆に回す。

 そしてお湯が止まった管の先を、再びジーっと観察した。


 ヴィータはこんなもの知らない。天井かどこかに、貯水する場所があるのだろうか。でも、なぜ熱いのだろう。

 疑問が尽きることは無かった。


 次は青い方だ。今度はゆっくり回した。

 同じように液体が流れるが、こっちはかなり冷たい。熱すぎるものと冷たすぎるもの、一体、どうしたものか。


 ヴィータはひらめいたように、両方を回した。そして、おっかなびっくりした表情で、指先を伸ばして、やっとホッとした。これは左右の捻り加減で温度を調整するものだと、気付き、ひどく感心した。


 ヴィータの苦難はまだまだ続く。蛇口の根本から、曲がりくねった細い管がもう一本、頭上にまで伸びて、壁に掛けてある。その先端は、楕円状で、無数の小さな穴があったという。

 もはやヴィータの理解が及ばない領域であった。まずゴムを見たことがない。存在を知らない。強度はあるのに、柔軟な不思議な素材。


 だが、この物体が管であるのならば、要するにさっきの水が出て来たのと同じ構造であろう。ヴィータは察しが良い。

 今、水は適温で流れている。そして、まだ触れていない、一番右に取り付けられたレバーのような物。それを息を呑んで上側へ。


 途端とたん、ヴィータの全身を、細かい粒子が刺激した。思わず肩をすくめたが、暖かい雨に打たれているようだった。

 ヴィータは次第に身体の力を緩め、その快感に身をゆだねる。


 考えは間違っていなかった。自分は正解へ辿たどり着けた。安堵あんどと共に、横へ視線を向ける。

 『シャンプー』そして、『リンス』と書かれた見たこともない素材の容器。

(すまない。いつか使いこなしてみせるから。今日はもう休みたい)


 そんな願いを込めて、やっとの想いで湯船へ向かった。足の指先で湯に触れる。適温、ややぬるめか。そして、ゆっくりと浸っていく。胸までひたると、自然と長い息と共に、肩まで沈み込まされる。


 風呂とは魔性ましょう。ただたっぷりに張られた湯。それだけなのに、なんて贅沢ぜいたくで、豊かで、心落ち着く場所だろう。


 それに、どうだろうこの景色。空は赤く染まりはじめ、その下に広がるのは海、海、海。どこまでも続く広大なあお


「国境1つでこんなにも……」


 アビスの言葉を思い出すように呟いた。

 ヴィータは奥の方へ移動する。落ちないようにか、こっち側のふちは少し広く作られている。高台に作られているのだろう。風呂の外は崖になっていた。柵はない。


 更に身を乗り出すと、下には崖が見えた。ここは高台にあるのだろう。ふと右手の方に町が見えた。多様に映るシルエット。桟橋には船も留まっている。


 突如、手前から猫が顔を出す。どこからやって来たのか。その猫は、ヴィータが居ることなどお構いなしに、ふてぶてしくも風呂の縁に座って毛づくろいを始めた。どうやらここはお気に入りらしい。


(かわっ!?)


 ヴィータが思わず、手を伸ばそうとしたその時。

 ダンッ!という音と共に、猫はヴィータの方を睨んでいた。ただ触れられたくなかったのか、単に警戒しただけもしれない。


 ただヴィータもハッとして、自分の細い手を見た。ヴィータは、どんな生き物にも触れることはできない。それどころか、近づくことすら危うい。それを忘れるところだった。


(やっぱり、この力をどうにかしないと……)


 結局、アビスの言う通り。自分に行く場所はない。成り行きで『力が制御できるまで』と言ったが、これは緊急で、何よりも優先すべき課題だ。

 痛みを感じるほど拳を強く握ったのは、決意の現れであろう。


 ヴィータが風呂を出て、無数のサイズの山から着替えを見つけて、やっと部屋に戻った時、アビスはヴィータが着ていたかぼちゃパンツをマジマジと観察していた。


「ちょっと、何やってるのよ!?」

「ん?湯加減はどうだった?」

「そんなこと聞いてない。早くそれから手を放して!」

「煮沸前に菌が検出できるかサンプルを採ろうと思ってねえ。汗が溜まりやすい下着は、最も理想的な――」


 この先、このアビスと一緒にやっていけるのだろうか。少し不安を覚えつつも、自分の力に危機感を抱くヴィータだった――。

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