第4話 生命の通貨
「それで、具体的に何をするの?」
ヴィータが問いかけると、アビスは立ち上がり、部屋の中心にあるテーブルへ向かった。その上には、既にビーカーが5つ並べられていた。その中には、いずれも透明な液体が入っている。
「君がこのビーカーに触れれば、答えは返ってくると考えている」
「どうして?ただの水にしか見えないけど」
「精霊は多くの場合、自分の能力を補完する感覚、つまり第六感を持っている。ビーカーには、生命にとって重要な物質を溶かしてある。私の仮説が正しいなら、5つのどれかに君は反応するはずさ」
ヴィータはゆっくりと、机の前に立った。5つのビーカーには、数字の入った紙が添えられている。ヴィータは半信半疑だった。
「こんなことしても、無駄だと思うけど……」
「やって損することではないだろう?」
アビスに見つめられ、ヴィータは恐る恐る手を伸ばす。
「中の液体に、直接触れれば良いの?」
「まずビーカー越しに触れてみようか。君の能力は、そのくらいの障害物なら貫通しそうだしねえ」
「……」
ヴィータは手を伸ばした。1つ、2つ、3つ――。何か違わないか、探り探り。でも、確信は得られない。
「本当にこれで合ってるの?」
「まだ2つ残っているよ」
「……」
4つ目、何か特別な感覚はしないか、ヴィータは張りつめるようにビーカーを見た。
「さあ、最後だ」
5つ目のビーカーに指先が触れた時、ヴィータは思わず指を離した。
「どうかしたかい?」
「いえ……」
ヴィータはもう一度確かめるようにビーカーに触れた。その時、アビスの表情も真剣なものへと変わっていた。
「やっぱり、なにか重みというか、重厚感というか、変な感じ……。指先しか、直接触れてもいないのに……。これは何?」
「ん-……。生命エネルギーというものは存在しない、そうは言ったが、限りなくそれに近いモノはあるんだ」
「それは?」
「アデシリン三リン酸」
「あで?」
「アデシリン三リン酸、通称ATP。動物、植物を含め、ほぼ全ての生き物の全ての細胞内に存在する物質。
「
アビスは一度部屋の奥に行き、照明を落とした。再び薄暗くなった部屋の中、机に戻って来たアビスの手には、2本の試験管が握られていた。
「実験は好きかい?思い出に残っている実験は?」
「記憶はないって言ったでしょう」
「ああ、そうだったねえ。では、これが思い出になるかも」
アビスが2本の試験管から液体をビーカーに注ぐ。すると、みるみるビーカーは黄緑色に輝きだした。
「これは?」
「蛍の生物発光の再現。ATPは水と反応して、分解されエネルギーを発する。この時に発せられるエネルギーが、全ての細胞が活動するためのエネルギーになる。筋肉を動かしたり、髪が伸びたり、神経に電気信号が走ったり、例外なくATPが発するエネルギーを利用している。ちなみに酸素と栄養素による燃焼によって、分解したATPが元に戻る。生物はすべてこのエネルギーサイクルを繰り返すことで活動している」
ヴィータが、アビスの言葉をどれだけ理解していたかは分からない。ただ生命に重要な物質であることは分かったと思う。それよりも、ヴィータはビーカーが放つ輝きに魅了されているようだった。
「きれい……」
ビーカーに再び触れる。
その瞬間だった。ビーカーから輝きが失われ、薄闇だけが取り残された。
驚いたヴィータが指を離すと、ビーカーは何事も無かったかのように輝きを取り戻す。
「君の能力は、ATPから発せられるエネルギーを、そのまま奪ってしまうのだろうねえ。周囲にいれば少し、直接触れればほぼ全てのエネルギーを奪っているように見える」
「これが……わたしの能力」
ヴィータは自分の手を見た。信じられないようだった。
「理論上、君に触れれば生命は、生命活動を即座に停止することになる。君に触れた医師が、触れた瞬間に失神したのは、脳の活動が一瞬でも停止したからだろうねえ」
「……どうして、わたしにこんな力が……」
「加えて、君は吸収したエネルギーで、自分の生命活動を維持している。こっちはまだ仮説だがね。であれば、そこまでやせ細った体でも国境を超えて、森へ辿り着けたのも説明ができるしね」
「つまりわたしに、一般的な暮らしは望めないってこと?」
「ん?ビーカーはまだ輝いているだろう?一度触れても、離せば再び活動する。君に触れた医者もおそらくすぐに意識を戻したと思うよ。まあ、触れ続ければ殺すこともできるだろうけど――」
「……」
「ああ、それともう1つ」
そう言って、アビスは机を回ってヴィータの正面にまで来た。そして、手を差し出す。
「なにをするの?」
ヴィータは警戒した。
「触れてみてくれ」
アビスの意図が、ヴィータには分からない。
「さっき言ってたでしょ。触れたら、あなたも気を失うんでしょ?」
「君に触れずに、ここまで運んできたとでも?」
「ッ……!」
それでもヴィータは、アビスに触れることを
アビスを信じるのか、己の能力を恐れるのか、今後ずっと。ヴィータを踏み
しかし彼女が感じたのは、尚も触れ続ける暖かい温もりであった。
「どうして……あなたは倒れないの?」
「最初に触れた時から感じていた。精霊に対して、君が吸うのは魔力のようだ。まあ、精霊が動くエネルギーはATPというより、魔力の割合が遥かに多いからねえ」
「つまり……精霊に触れても、殺したりすることはないのね?」
「精霊にもよる。私みたいに能力を持っている精霊は、上級と言われている。カラスやネコに憑依して何の能力も持たずおしゃべりするだけの
「そう……それは少しばかり朗報なのかな……」
「心配は要らない。能力は制御できる。それまでここに居ても構わない」
「そんなことして……あなたには、何のメリットがあるの?」
「ん?まあ、精霊に関する資料が1つ増えるくらいか。何か問題か?」
「普通……見返りを求めると思うけど」
「医者が病人を治すのに理由が必要かね?むしろ奇妙な症状ほど、好奇心もそそられるものさ」
「……」
『好奇心』と表現するあたり、アビスも相当にズレている。ヴィータも、それはどこかで感じているだろう。それでも選択肢などなかった。
「力が制御できるようになるまでだから」
「いいだろう。契約成立だ」
「それで、何から始める?」
「そうだねえ。とりあえず、お風呂に入ろうか――」
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