MORE'S DEEP
“それ”は、アンドレアが幼いころからずっと、そこにあった。
生まれてから今までの十数年を過ごした自宅の正面、ゴミ箱を通り抜け、道路を挟んだ反対側。住人がいたことはない小綺麗な空き家の庭に“それ”はあった。
──地面から突き出た錆びれた金属パイプ。庭のど真ん中にあるそれは、彼女にとって既に日常の一部になっていたが、よくよく考えてみれば、疑問だらけだった。いつからあるのか、なんのためにあるのか、その一切は謎だった。
まだ、コーヒーを好きになれなかったころ、一度だけ彼女は親の目を盗んでパイプの中を覗き込んだことがある。そうしなければ、彼女の両親は決して彼女をそのパイプに近づけたがらなかったのだ。
「──」
ひゅうひゅうと風が吹きつける音。パイプの底は──決して、見えなかった。
底の方から風が吹きつけてくる。錆びと、鉄と、水の香り、それだけ。ただ、真っ暗な永遠と続くパイプのみが、彼女が見ることのできるすべてだった。
そんなパイプのことをそれっきり忘れて数年、唐突に思い出したのはハイスクールに入ってしばらくしたときだった。きっかけはもう思い出せないが、一度疑問が鎌首をもたげてしまえばあとは止まらなかった。
すなわち、“底には、なにが?”。
その疑問と好奇心は、熱に似ていた。一度浮かされてしまえばもう、止まらない。逃れられはしない。どんどんと膨らむその熱に、アンドレアは遂に負けてしまった。
「ありゃりゃんしたー」
やる気のない店員に見送られ、アンドレアは店を出る。学生には随分と痛い出費、しかし、彼女にお金のために熱を無視するという選択肢はなかった。
黒い紙袋をそっと覗けば、その中には小型カメラがひそかに役割を果たす時を待っている。つまりはパイプの中にコイツを垂らし、直接底を除いてやろうという魂胆だった。
親になにか言われると面倒だと、決行は夜にした。食事を終えて自室へ戻り、親が寝静まったのを見計らってそっと、部屋を出る。
パイプは、夜の元だろうと変わらずそこにあった。当たり前と言えば当たり前、しかしアンドレアはパイプが消えていないことに心底安堵した。
スマートフォンとカメラをリンクさせ、レンズで写したものを、手元の液晶に表示させるようにする。
「よしっ……と」
続いて、カメラのストラップ部分にビニールひもを取り付けた。もっと丈夫なものでカメラを吊り下げたい気持ちはあったが、買うのを忘れてしまったから仕方がない。たかがひものために実行を延期するような忍耐はアンドレアに無かった。
そっと、慎重にカメラをパイプの中に降ろす。パイプの縁にカメラがぶつかり、鈍い金属音を響かせた。それは夜の住宅地に予想外に響いて、アンドレアは一瞬その動作を止める。
「……っと」
再開。動作と熱のどちらとも。
カメラがパイプの中に消えると、アンドレアは手元の液晶を凝視した。
最初に映し出されたのは錆びだらけの内壁。あの日あの時見たものと同じだ。アンドレアはそう思った。
その後も、カメラのライトを点けるのを忘れるなどの小さなハプニングはあったが、探索は恙なく進行していった。いまやカメラはパイプの内側をライトで照らし続け、錆びだらけの内壁に囲まれながら底へ、底へ。
十分とちょっと、アンドレアは液晶画面を見続けていた。何の変化もない。ただ、錆びだらけの金属パイプの内壁が延々と続きに続いている。
変化がない。が、つまらないわけではない。逆に、変化がないまま十分もひもを垂らし続けられることこそがアンドレアの興味を引き立てた。
まだ深い。まだまだ底がある。いったいこのパイプはどこまで続いているのだろうか。底があるはずだ。必ず、必ず、必ず──
◇
──一日目は、そこで断念した。
パイプの終わりは見えないまま、日が昇ってしまったのだ。最悪なことに、その日は軽い試験があったことを失念していたため、アンドレアは徹夜の状態でそれに臨んだ。無論、ぼろきれのようになって帰宅した。
そして、二日目の幕が上がる。
アンドレアの目の前には錆びれたパイプ。なにも変わりはしない。内も外も変わらないはずなのに──
「……」
アンドレアは熱から逃れられない。
するすると、再びひもを降ろしていく。スマートフォンの画面には昨日みたままの内壁のみが映し出されていく。さらに底へ、底へ。昨日よりも急いで下へ。
変化が現れたのは、その数分後だった。月は頭上を通り越し、時刻は深夜一時丁度。内壁に、変化が。
「……?」
アンドレアはスマートフォンの液晶を凝視した。
なにかが起こってくれとは願っていたが、いざなにかが起こってしまえば、それは“信じられない”の一言に尽きた。
ある地点を境に、六角形のタイルが隙間なく、内壁を覆っていたのだ。いいや、覆っているのではない。内壁を構成している素材が六角形のタイルに切り替わっているというほうが正確だろう。
白い、ツルツルとしたタイルとタイルの間をときおり青い光が底へと走っていく。そんなどこか近未来じみた光景を、アンドレアはぼぅっと見つめていた。
おかしい。おかしくないはずがない。これは、ただのパイプのはずだ。確かに底になにかがあるんじゃないかと夢想はしたが、こんな、こんな奇妙で、好奇心を引き立てられるものだったなんて──
今まで誰も気づかなかったのか? 信じられない。一生モノの損失だ。たとえ誰だろうとこのパイプの前では熱に浮かされたように底を探ることだろう。きっと何かが待つであろう底を。
震える手で、アンドレアはカメラを下に送る手を早めた。もはやひもはスルスルとカメラの落下速度そのままにパイプに吸い込まれていく。
タイルが凄い勢いで上へ昇っていく。訪れるのは再び変化のない画面。しかし、もうアンドレアは手を止められなかった。きっと、なにかある。なにかなければおかしい。このタイル張りはいったいなんなのか、底にはなにがあるのか、ただそのことしか考えられない。
だから、なのだろう。
唐突に、画面が乱れた。
「あっ」とアンドレアの口から言葉が漏れるがもう遅い。カメラが映し出す景色が回転しながらぐんぐんと下へ向かって加速してゆく。どこかに引っかかったのか、それとも壁面に擦られ続けた結果か、カメラに括り付けていたひもが切れたのだ。
「ちょっ、待っ──」
アンドレアはひもを引き上げ始めるが、カメラの加速は止まらない。当然だ。その先にカメラはないのだから。
アンドレアはひもから手を離し、スマートフォンを凝視した。カメラの映像はめちゃくちゃに回転しつつ乱れてはいるが、下に向かっているのは疑いようのない事実。ならばこのまま見続けていればいつかは。
ごくり、とアンドレアの喉が唾を飲み込んだ。予想以上に乾いていた口内を湿らせつつ、アンドレアの目はひたすらに液晶画面を。
タイル、タイル、タイル。形も大きさも、その合間を走る不思議な青い光までなにも変わらないまま、カメラは落下を続けた。そして、衝撃。
途端、液晶画面は真っ暗になった。
「あっ……」
カメラのライトが消えた。内部的な故障なのか、それとも物理的な破壊なのかは分からない。分かるのはたった一つ、もう、これ以上下を見ることは叶わないということ。
「ッッ……」
アンドレアは唖然とした。明日またカメラを買いに行けばいい、確かに出費は痛手だが、探索を再開できないわけじゃない。しかし、今のアンドレアにとっては、そんな出費よりも、少なくとも明日まで待たなければならない事実と、一からカメラを降ろし直す労力が必要なことがアンドレアを絶望させた。
全てが遠ざかる気がした。
失意のままにそっと、自宅の扉を開ける。両親は寝ているはずなのに、なぜだかリビングの明かりは点いていた。
しまった、と思った。リビングには両親が無言で佇んでいたのだ。アンドレアの姿を認めた両親はそっと、彼女の方を向いた。
「……おかえり」
父親が、小さく呟く。アンドレアは意外だった。てっきり“こんな遅くにどこに言っていたのか”と叱責、または追及されると思ったのだ。
「た、ただいま」
段々と、アンドレアの中で今日はパイプを探れない。という失意よりも不気味さその勢いを増していた。両親は物静かな人ではあるが、決して暗い人ではない。父親だって、どちらかと言えばこちらの行動に口を挟みがちな傾向にある。それなのに、父親はたった一言、「おかえり」とだけしか口にしなかった。
「えっと……」
助けを求めるように母親へ視線を向けるが、母親は無言で困ったように笑うだけ。
「──底、あったか」
唐突に、父親が口を開いた。
「あのパイプの底、あったか、アンドレア」
「なんで、それ──」
気づかれていないと思っていた。いや、そもそも気づかれているなら止められると思った。それだけ両親は、アンドレアが幼いころからパイプに近づくことを嫌ってきた。
「私たちもね、あるのよ」
母親が静かに告げる。
「ここに越してきたばかりのころにね、あのパイプの底を探ろうとしたことあるのよ」
“どうしてみんな、疑問に思わないのか”。アンドレアは数日前からずっとそれを疑問に思ってきた。
「だけどね、ダメだったの。いくら縄を下に垂らしてもね、ダメだったのよ」
答えは、もう、とっくに──
「ご近所さんはみんなそうよ、試して」
「そして、みんな途中であきらめた」
──みんな、試して、既に諦めていたんだ。
◇
翌日、ハイスクールに行く前に、アンドレアはパイプの前に立っていた。彼女が垂らしかけのビニールひものみがパイプの中へ続いている。昨夜となにも変化はない。
「……」
アンドレアは自身の鞄からハサミを取り出すと、パイプの中へ、無限にも思えるほど続くパイプへ垂らされたビニールひもへそれをあてがった。
昨夜は眠れなかった。なにがなんだか分からなくて、どこかうすら寒さを憶えたまま、朝を迎えた。このまま夜になったら、また熱に浮かされてしまう。現に、未だって。
ちょきん。切断されたビニールひもがスルスルと、みるみるうちにパイプへ吸い込まれていく。
「っ──」
思わず、アンドレアの手はビニールひもを掴んだ。吸い込まれるのを止めたビニールひもを、アンドレアはじっと見つめ、そして、手を離した。
完全にひもが穴の中へ消えると、アンドレアはそっと、その中を覗き込む。錆びだらけの内壁。六角形のタイルはずっと下だ。見えはしない。僅かに底の方で青い光が瞬いた気がした。
底の音を聞こうと、耳を傾けようとはしなかった。もし、なにかの落下音が聞こえたなら、底があると確信してしまうから。
パイプに背を向けたアンドレアは一度だけ後ろを向き、それっきりそちらを向くことはなかった。
THE STRANGE isLAND 五芒星 @Gobousei_pentagram
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