悲鳴

 初めは、イルカだった。それから数週間、イルカの死体が波打ち際に打ち上げられる日々が続いた。

 次はクジラだった。全長数十メートルのクジラが数か月に一匹ずつ続いて打ち上げられた。

 そしてそれから数か月たったある日、また別のものが打ち上げられ始めた。なにかは――わからない。これはいったいなんなんだろう。


 ◇


 早朝、ジェイクは朝の浜辺にいた。13歳の少年がこんな時間に出歩くのはここのような漁村でも珍しい。漁は数日前から行われていない。故に浜辺に人の姿はなかった。朝の霧が足元を通り抜けて海へと還っていく。彼はこの時間が好きだった。ざくざくと砂を踏む音に身を任せてひたすらに歩く。そんな彼の目の前に巨大な影が現れた。霧の向こうのそれは信じられないほど大きく、信じられないほどいびつだった。

 にもかかわらず、ジェイクの心にはなんの波もたたない。ただ、またかという諦めが若干首をもたげた程度だ。彼が歩を進めるごとに段々とその巨大な何かの全貌が明らかになっていく。それは生物の死骸だった。


 顔はクジラに見えなくもない。だが、全身の色は薄いピンク色で皮膚もクジラのようにツルツルとはしておらず、グロテスクな筋、おそらく血管かなにかが全身を走っている。目は左に三つ、右に五つで妙に人間チックな腕は三対、尻尾があるべき場所にはなにもなかった。


「……」


 ジェイクは無言でその巨大生物の死骸に近づくと、肉々しい皮膚に手を這わせる。ステーキの脂身を思わせる柔らかくも不気味な感触が彼の手を出迎えた。

 この前は左右でヒレの違う奴だった。その前は首が三つで口が胴体にあった。そして今回はコイツ。これらのような生物が打ち上げられるようになって数週間、この村はゆっくりと動きを鈍くしている。まるで毒が回るように。


 ズキリ


 一瞬の頭痛が少年を襲う。こういう奴らが打ち上げられるようになってから時々起こる頭痛。しかしジェイクのこれはまだ優しいほうで、漁師の多くは途切れることのない頭痛に襲われている。そのうちの数人は既に自殺してしまった。残りが後に続くのもそう遠くない未来だろう。

 こういう奴らが打ち上げられるようになって最初はみな面白がった。村の若い衆はそれに杭を打ち込み、車でひっぱって村の中心部へと持って行った。だれかが肉の一部を削げ落として煮込んで村人に配った。意外と美味だった。しかし今ではもう誰もこの死骸を運ぼうとしない。なんでも近づくだけで頭痛がひどくなるらしい。


 ジェイクは巨大生物の死骸に背を向けた。そろそろ母親が起きて朝ご飯を作る時間だ。送るべき父親が海に出たがらないのに早く起きて朝食を作る意味がジェイクにはわからない。習慣を守ることが大事だと思っているのだろうか、それとも頭痛のせいで思考をすること自体がおっくうになり、ただ続けているだけのなのだろうか。


 ◇


「おかえり」

「……ただいま」


 母親の向かい側の椅子にジェイクは座った。父親は起きてこない、というか部屋からでない。頭痛が酷くてまた夜通し眠れなかったのだろう。恐らくは今も。


「いただきます」


 朝昼晩を塩漬けの魚や塩漬けの野菜が占める割合はどんどんと上がっていっていた。それはすなわち非常用の食料を吐き出さざるを得ないということだ。しかし村民はだれもそれをきにしている様子はない。誰も――ジェイクを含めて――それを指摘しようとする者さえいない。


「ごちそうさまでした」


 家にいる意味はない。時折上の階で、あの豪快な海の男だった父の、悲痛に呻く声を聞くのは勘弁だった。

 村の中には霧が立ち込めている。その霧が消えるまでの時間もどんどんと長くなっていた。今では一日中、少なくとも足元には霧が薄い膜のように広がっている。


 家の外に人はいなかった。閑散とした村の中心部にはいつもの喧騒はない。

 ざりざりという砂利の上を何かが引きずる音がした。ジェイクは咄嗟に物陰に身をひそめる。現れたのは村人の一人だった。口はだらしなく開かれ、よだれが地面に線を作っている。その手には錆びた斧が握られており、地面にざりざりと跡が続く。あれがなにかを引きずる音の正体なのだろう。

 その村人は数日前まで漁師だった。ジェイクの父親とも親交があり、酒を酌み交わすほどには仲が良かった。が、今では斧を引きずりながら村を一日中徘徊するだけの存在と化している。誰も彼に話しかけないが、おそらく返事はないだろう。


 ◇


 それから数日が経った。ジェイクの母親は頭痛のせいで立っていられなくなり、今では父親と同様にベッドの中でうずくまり、絶え間なくうめき声を漏らすだけになった。斧を引きずっていた村人は昨日、村の中心に突き立てられた巨大な木の杭に胴体を貫かれて発見された。

 両親は動けず、また、コミュニケーションも取れない。そのためジェイクは一人きりで家じゅうから食べ物を探して食べるしかなかった。村のほかの子供たちも同様だった。彼ら彼女らはこっそりと集まり、食べ物を共有した。やがて一人、また一人と頭痛に倒れ、動けぬ大人たちに仲間入りした。霧はいつしか朝から夜まで村中を包み、視界は役に立たなくなった。そして、ジェイクも――


 ジェイクは叫んでいた。叫び続けていた。頭の内側で誰かがナイフを絶え間なく振り回し、脳をハンマーで何度も殴っていた。叫ぶしかなかった。村中がそうだった。叫び声が上がる。向かいの家から、その隣の家から、自分の家から。

 誰かが叫べば誰かが叫び、ひっきりなしに何度も重なった。喉はとっくに枯れて、口からは赤黒い液体があふれ出した。それでもジェイクは叫び続けた。そうせずにはいられない、そうしなければ死んでしまう。この上なくつらいのになぜか死ぬことだけはとてつもなく怖かった。


「――あ」


 波の音でジェイクは我に返った。いつ自分が気を失い、そして砂浜まで来たのかはわからなかった。周囲には村人たちが、大人も子供も老人もみな口を開け、夜空に浮かぶ月を眺めていた。隣の父親を揺さぶるが反応はない。父の身体が揺さぶられたままに砂に仰向けに倒れこんだ。

 ふと、ジェイクは皆の目の前、自分の眼前にあるものに気が付いた。死骸だった。頭痛に苛まれる前に砂浜でみたあれと同等のもの、ただし、細部はかなり違う。頭には三つの目と、その上に突き出した角が途中で三本にわかれ、ねじれ。ヒレは左右で数が違い、皮膚はなく、格子状の肉がでろでろと垂れさがっていた。


 その死骸の目がぎょろりと動いてジェイクを見つめたとき、彼はぼうっとそれを見つめることしかできなかった。しばらく目を合わせたのち――周りの村人たちが再び悲鳴を上げ始めた。しかし、ジェイクはまったく叫ぶような気分ではなかった。


 村人たちは一様に目から真っ赤な涙を流し、砂浜が赤に染まっていった。異常なほどに口を開けて叫び続ける。ジェイクは思わず耳をふさぐ。それでも叫び声は続いた。ジェイクはその場にうずくまった。


 何分、何時間経っただろう。ジェイクはふと、叫び声が聞こえなくなっていることに気が付いた。ジェイクがゆっくりと顔を上げる。村人たちはジェイクと同じようにうずくまっていた。巨大な死骸の目が再びぎょろりと動いて、それっきり動かなくなった。

 唐突に、ジェイクの内に謎の感情が芽生えた。恍惚、悦楽。快楽にも似たなにかがどんどんと内で大きくなってくる。村人たちの背中が徐々に盛り上がり始めた。


 ――裂ける。裂ける。裂けていく。それが当然とばかりに破裂する。背中がぱっくりと口を開け、肉と血をあたりにまき散らす。そしてその奥から細い節くれだった三本の指が更にその穴を押し広げる。翼がゆっくりと、夜の砂浜で咲き誇った。小型の翼竜のような、不気味な痩せた生物が村人の背中から這い出して来る。ジェイクはその中心で一人なんの変化も受けないままその様子を見つめていた。

 翼竜たちはそれぞれのタイミングで空に飛び立っていった。巨大な、空を覆い尽くすほどの月をバックに小さな影がおびただしい数舞い踊っていた。ジェイクは理解した。頭痛は悲鳴だったのだ。海からの助けを求める声。SOSだった。なにからの助けを? 月だ。翼だ。この痛みとはそんな声の発露だったのだ。それを聞かなかったために今村人たちは無事に羽化を終え、こうして月に導かれるままに旅立っていく。なぜ自分は残った? どうして自分は皆と一緒に行けないんだ? どうして――


 ◇


 ◇


 ◇


 ……◇


 ……ウミネコが鳴いている。目を開いたジェイクは日差しのまぶしさに目を細めた。どうやら知らぬ間に夜が明けたらしい。


 砂にまみれた身体を起こせば近くを歩いていたウミネコが驚いた様子で飛び立っていく。昨夜の翼竜の姿がフラッシュバックし、ジェイクは思わず頭を押さえ、うめいた。ウミネコが消えると砂浜は不気味なほど静かになった。

 村人の身体は一つ残らず消えていた。ただ、骨の小山一つを残して。眼前にあった巨大な死骸も消え、巨大でいびつな骨格のみがそこにあった。彼を迎えに来るガンスリンガーはいなかった。ロブスターが発話することもなかった。


 ジェイクは、一人になった。

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