どうのようにして私が今の居城を得たか。

 “優良物件盛りだくさん! 今すぐご相談を!” -ウィズダム不動産


 そんな文言が躍るチラシをぐしゃぐしゃと丸め、アンダーソンはため息をついた。ウィズダム不動産に良い噂なんて一つも聞いたことがない。それに、タイミングを見計らったようにこんなチラシを送り付けてくるのにも心底腹が立った。

 立ち上がり、受話器を取って001をプッシュ。数回のコール音ののちにフロント係の撫で声が「ご用は何でしょうか」などとのたまうものだからあやうくアンダーソンは罵声を叫びそうだった。


「なにか軽食を」

『サンドイッチ、スコーンなどがございますが』


 つべこべ言わずになにか適当に持って来いよ、こっちは客なんだぞ。アンダーソンは自らの内に沸いた黒い感情を押し殺し、


「じゃあサンドイッチを頼むよ」

『サンドイッチの具材はいかがいたしましょう、レタスとハム、それにチーズのものとスクランブルエッグ、ベーコン――』

「なんでもいい、なるべく早くしてくれ」


 乱暴に受話器を置いたアンダーソンはホテル特有の過剰に柔らかいソファに、これまた乱暴に腰を下ろした。両手は頭を押さえ、瞳は不安げに震え、口からは言葉とも悲鳴ともつかない小さな声が漏れだす。

 アンダーソンが住居を失ってから三日が経とうとしていた。ある日会社から帰ってきたら自宅である集合住宅が丸ごと、地面に空いた巨大な亀裂に飲み込まれたのだ。家具やその他もろもろを失ったアンダーソンに今日の夜を越す場所はなく、また、集合住宅のオーナーも警察も準備をしてはくれなかった。


 ホテルでの寝泊まりも悪くはない、だが財産だって無限ではない。いつまでも宿泊しているわけにはいかないだろう。くしゃくしゃにしたチラシを広げたアンダーソンはしばらく眺めてからそれを部屋の隅に放り投げる。が、丸められていないそれは空気の抵抗を受け、ひらひらとアンダーソンの座るソファのすぐ近くに落下した。

 部屋を探さなければ。どこでもいい、最悪ボロボロで狭い一室でも構わない。仮の住まいを一刻も早く見つけなくては毎朝の出勤だってままならない。



「あー、この条件ですとこちらぐらいになりますかねぇ」


 やる気のなさそうな態度で机に脚を乗せた不動産屋がアンダーソンに何枚かの髪を投げてよこす。それに記された物件情報はどれも会社からは遠く、また、家賃は異常なほどに高かった。


「表にあった――あのセントラルパーク近くのはまだあるのか?」


 大抵の場合、そういう表に貼ってある不動産はいわゆる”釣り物件”であるのはわかっていたが、アンダーソンには希望を捨てることができなかった。


「すいませーん、その物件は今日売れたばかりなんです」


 分厚いファイルを机の下から取り出すと、不動産屋はアンダーソンの前で開いて見せる。そこにはアンダーソンが希望するような物件がずらりと並び、そのすべてには赤いペケマークが記されていた。


「同じような物件を大量に契約されたお客様が居ましてー」


 実際に存在するにせよ、しないにせよ、アンダーソンはその客のことを恨んだ。



「ありやんしたー」


 不動産屋から出ると夕暮れが辺りを照らしていた。暮れ始めた街中をアンダーソンは歩き出す。頭の中は不安でいっぱいだ。結局マトモな物件は一つもなかったのだ。


 残された手段は一つしかない。アンダーソンの足取りは重かった。


「ホットドッグ、どうぞ」

「ああ、ありがとう」


 屋台の店主からホットドッグを受け取ったアンダーソンはふと、口を開いた。


「ウィズダム不動産を知らないか?」


 店主は目を丸くすると、


「お客さん、悪いことは言わんからやめたほうがいいよ。私のいとこはそれで蝶々になっちまった」

「どうしても知りたい。部屋が見つからないんだ」

「はぁ~」


 店主はアンダーソンの足から頭までをしげしげと見つめた。自分を値踏みする視線を感じ、アンダーソンの心に再び負の感情と惨めさが湧き上がってくる。


「そんな人には見えなかったけど、そうか、あんさんも苦労してるんだなぁ」


 さっきまで良い人だと思っていたはずの店主がアンダーソンの目の前でみるみるうちに姿を変えていく。アンダーソンはそのように感じていた。こちらの下に見る目、自分の境遇と比べるためにより悪い境遇にいる奴を見つけた、という目。きっとこれは気のせいだろう、しかし、いまのアンダーソンにそれを気づく余裕はない。


「ここから近いのだと――その先にカフェがあるだろう?」


 店主が指さした先にはいかにも個人経営なカフェが存在していた。ガラス張りの店内にお客はおらず、閑古鳥が鳴いているのが丸わかりだ。


「その中にあったよ、さっき光が見えた」

「……ありがとう」

「慎重に選べよ! いいな、値段と立地だけで選ぶのは――」

「わかってるさ」


 ホットドッグを無理やり喉に詰め、そそくさとアンダーソンはその場を後にする。この店主に心配されているという事実から一刻も早く逃げ出したかった。


 ウィズダム不動産は一日毎に入口を変える。ある日は道端に、ある日は車道のど真ん中に、とある日にはアンダーソンの自宅のドアがそのままそっくりウィズダム不動産に繋がっていたせいで、丸一日変えることができなかった。その家はもう存在自体しないのだが。


「いらっしゃい」


 鈴の音を立ててカフェの扉を開けると、わずかな光が視界に入った。店内正面側の壁に木製の扉があり、その表面にはフクロウが刻印されている。カウンターの向こうで文庫本を開いていたマスターに無言に扉を指さして見せると、店主は興味なさげに本へ目を落とした。

 向こうから光が漏れる扉、それがウィズダム不動産への入口。アンダーソンは何度か深呼吸をし、何か理由をつけて目の前のこの扉に入らずに済むのではないかと考える。が、そんなものはない。後ずさりし、少し進み、そんなことを数分繰り返し終えたアンダーソンは意を決して扉に触れた。デコボコとした木の感触はそれが本物であり、相当の年季が入っていることを確かに伝えてくる。彫り込まれたフクロウは目の部分が半円上にくぼませられており、その中心に書き込まれた黒点はアンダーソンから目線を外さない。


 ドアノブを掴み、下ろすと抵抗も音もなくそれは下がった。ゆっくりと押してみるが扉はまるで接着剤でくっつけられたかのように動かない。

 もう一度押してみる。やはり駄目だ。実はこの扉はただ壁に溝が彫られた結果なだけで、そもそも開きはしないのではないか。そんな考えにアンダーソンが支配されそうになったときに彼は気が付いた。扉のジョイント――付け根がこちら側についているではないか、なんてことはない。この扉は押すものではなく引くものだったのだ。アンダーソンを脱力が襲う。


「……」


 ふと振り返ると、こちらを見つめる店主と目が合った。慌てて本に視線を戻す店主だが、しばらく見ていてもページを進める様子はない。どうせ一人でコントをしている滑稽な自分を笑っていたのだろう。卑屈な思考でアンダーソンはそう解釈した。


 扉を開けるとそこはまばゆい光に包まれていた。何も見えない。ただ光の向こうに空間があるということしか理解すらできない。一歩足を踏み出すとつま先が光に飲まれた。温かな、ぬるま湯のような感覚を感じてアンダーソンは咄嗟に後ずさる。もう一度、今度は足全体を光の中に浸してみる。ぬるま湯に包まれる足。ため息をつきもう一歩、腕、身体、頭、身体全体を光の向こう側へ浸し終える。ぬるま湯というよりもサウナ、ぬるいサウナだ。顔も同じ温度に熱されているせいか僅かな不快感に包まれる。アンダーソンはサウナが好きではなかった。頭からつま先まで同じ温度で熱されるという感覚が決して好きになれなかったのだ。汗をかいて気持ちがいいという感覚も一切理解できなかった。あんなもの、シャワーで充分だ。


 光の中、上も下も右も左もない空間をもう一歩、前に進む。するとつま先がぬるさから抜け出したのを感じ取る。この不快な温かさから一刻も早く抜け出そうと急いでもう一歩踏み出すと唐突に光から抜けた。


 誰も居ないカウンターとパイプ椅子、部屋を囲む棚とそこにみっちりと詰まった色とりどりのファイル。カウンターの上、こちらから見て正面に当たる壁に埋め込まれた木彫りのフクロウが印象的だ。入ってしまった。アンダーソンは軽い後悔とともに考える。入ってしまったのだ。ウィズダム不動産に。

ウィズダム不動産店内は想像していたよりも普通の建物だった。どこにでもある――なんなら先ほどまでいた不動産屋とあまり変わらない。ただ、照明は相当絞られているようで、なんとか文字は読めるであろうくらいの明るさである。天井に照明がないにしては明るく、店内にしては暗い、そんな中途半端な明るさ具合だ。


 カウンターには唯一ライトスタンドが設置されていた。それのスイッチを押すと暗闇に慣れ始めていたアンダーソンの目を文字通りの光撃が襲う。


「うわっ!」


 思わず両目を押さえる。反対に光に慣れてきた目で卓上を見つめなおすと銀色のドームのようなものが置かれているのを見つけた。卓上呼び鈴というやつだ。叩いてみると子気味良い音が誰もいない店内に寂しく響く。返事もそれによる物音もない。


「誰かいませんかー」


 少し大きく声を発する。自身の声が壁に跳ね返り、さいごの”か”だけが何重にも重なって聞こえた。それでも以前、カウンターの向こう側から音は聞こえない。声も、誰かが動くような音もだ。


「あのー……あのー!!」


 声を張り上げる。段々と疑いの心が芽生える。実は店員などいないのではないか。だとしたらここはどうやって営業している?


「あのー!! すみませ――」



バタン。



の音を聞いていないアンダーソンを驚かせるのには十分すぎた。油の差し足りないロボットのようなぎこちない動きで振り返ったアンダーソンの目に飛び込んできたのは床におちた赤いファイル。どうやら部屋を囲む棚から一冊が落ちたらしい。


 落ちた拍子に開かれたファイルのページには“ようこそ、ウィズダム不動産へ”の文字がでかでかと印刷され、その左には“ここからお選びください”という文言と共にフクロウの印が印字されていた。


緩慢な足取りで近づき、ファイルを拾い上げたアンダーソンは何気なくそのページを一枚めくった。透明なファイルページの中には外見、立地などの物件情報が書かれた書類が入れられている。


「……これは」


条件にピッタリだ。立地、家賃なども申し分なく、しかもバスルーム付きではないか。もう一枚捲ってみる。現れた物件はまたもやアンダーソンの欲する条件に符合したものだった。一枚目よりも家賃が少し高い代わりに今の会社よりも近い。

更に捲る。もう一枚、もう一枚。出てくる物件すべてがアンダーソンが条件として提示するつもりだったものにピタリと当てはまった。まるで不自然なくらいに。

最後のページにはA4用紙の半分ほどの大きさをした紙が挟まっていた。それには“内見はご自由にどうぞ。鍵は開きます。決まりましたらカウンターまでお持ちください”と記されていた。


ファイルの中から何枚かあたりを付けたものを写真に撮り、ファイルを棚に戻し終えたアンダーソンはゆっくりと扉へ歩を向ける。希望が見えてきた。なにか、吉兆のようなものが近づいてきている気がした。



「なーにが!! なにが吉兆だ!!」


二日後の朝、午前11時。アンダーソンは道を本気で走っていた。シャツ姿で鞄とスーツを小脇に抱え、鈍い輝きを放つ革靴が大地を蹴る。今朝、目が覚めたアンダーソンは時計を見て凍り付いた。時刻は10時半、会社の始業は9時なので大遅刻である。

原因は分かっている。昨日丸一日を物件の内見に費やしたからだ。いくつかの物件を回り、予算やらなんやらとすり合わせて一つにやっと絞ることができた。ただ、眠りにつくのが遅くなってしまい、その結果が今というわけだ。


「はっ、はっ、はっ!」


乱れに乱れた呼吸を無理やり整えながら会社のガラス戸を開ける。社員証を通し、エレベーターに乗ればやっと一息、アンダーソンは膝を手で押さえ、空気を浅く吸って吐いてを繰り返した。

エレベーターの回数表示が“3”を指し示した。扉が開くと同時にアンダーソンはその間を通り抜ける。灰色のカーペットが敷かれた廊下を小走りで駆け抜けると少し広いオフィスフロアにたどり着いた。怒鳴りつけられる前にとりあえず謝ってしまおう、そんな考えは――目の前の光景に塗りつぶされた。


「……」


声はしなかった。いつもなら上司が書類を催促する声や、誰かが電話越しに別の誰かと話す声が絶え間なく聞こえているというのに。

人も、いなかった。代わりにすべての席には木が座っていた。木彫りの人形だ。塗装もなくただただ木目を外側に晒し、鼻にあたる部分には一枚の葉がどれもついたままになっている。

同僚の席にも、上司の席にもすべてにその人形は座っていた。ある人形はキーボードを指で押し込んだままだ。ある人形は手にマグカップを持っている。あまり好きではない上司の席には、取られた受話器を持ったままの人形が座っていた。アンダーソンが近づくと、受話器からはツー、ツーという音が延々と鳴り続けている。


突然、机のうちの一つの電話が鳴った。あまりに驚いたものだからアンダーソンは手に持っていたカバンをすっ飛ばしてしまう。人形のうちの一体に当たって床に落ちる鞄。関節もない人形はその硬直した格好のまま椅子ごと床に倒れた。


「……」


着信音の鳴り響く受話器へアンダーソンは手を伸ばす。一瞬指先が触れ、そこでアンダーソンは止まった。少し考えて彼は受話器から手を遠ざけた。コール音を無視して別の扉を開ける。

喫煙所では火の消えているタバコを持った人形がたたずんでいた。廊下では掃除用具のカートを引いた人形が片足だけを上げた格好で静止していた。アンダーソンは走る。社内をくまなく、隅から隅まで走った。――人形以外は、いなかった。


気が付けば目の前には扉があった。両開きの扉の上には“社長室”と印字されている。重い扉に鍵はかかっていなかった。無駄なスペースが多いその部屋の両側にあるガラスケースとその中のトロフィーが鈍い光でアンダーソンを出迎えた。

ガラス張りの正面壁の前の少し豪華な椅子の横には青い人工芝と坂で構成されているゴルフ練習のコースがある。そして、そのスタート地点にはゴルフクラブを振り切った後の格好をした人形が目も口もない鼻だけの顔で、とっくに転がり終わったゴルフボールを見つめていた。


「……はっ、はっ、はぁ、はぁ……ふぅ、ふぅ」


息苦しさと動機が収まってくる。アンダーソンはショーケースの中のトロフィーを横目で流し見ると黒い椅子へ向かう。腰を下ろしたその椅子は自分が普段会社で使っているものとは雲泥の差があった。腰を迎えるように支え、どれだけでも座っていられそうだった。


「悪く――ないな」


ぽつり、呟く。


――かくして、アンダーソンは仕事を失った。職場から近い家を探したことも無駄となった。しかし、彼は新たな居城を手に入れた。

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