第6話 5月10日 明け方 ツトム√

 高校卒業時、プロ契約を断ってなかったら、俺、今頃はプロのサッカー選手として成功していただろうか?そんな事を考えないこともない。

 唯それでも、そんな考えは女々しいように感じて、直ぐに振り払うようにしている。

 自分で己の限界は分かっているつもりだし、周囲が言う「あんな怪我さえなければ」というのもちょっと違う。

 元々サッカーが死ぬほど好きだった訳ではなく、ただ単に要領が良く、所謂早熟だったせいで、周囲から天才だ、神童だとちやほやされていたに過ぎない。

 勿論大学でもサッカーは続けていた。何故なら、そのことが条件で学費免除で入学できたのだから。

 今思うと、大学のサッカー部で、俺は何をそんなに焦っていたのかと、自分でも笑ってしまう。

 真面目だったんだな、俺。

 サッカー進学した以上、それなりの結果を出さないと申し訳ない、とか、格好悪い、とか、周囲の期待に応えたい、とかで頭がいっぱいで、ただがむしゃらに練習に打ち込んでいた。

 それでも、その先に伸びしろなんて無いであろうことは、自分が一番良く知っていた。本当は少しだけだが、トレーニングで肉体改造できれば、奇跡が起こるんじゃないかという気持ちも在るには在った。

 しかし、そんな奇跡は起こらなかった。

 そして、あの日、事故は起こった。

 雨の日だった。

 レギュラーチームとサブチームとの紅白戦。俺はサブチームのワントップのポジションを与えられたが、自分でもそれがサッカー人生で最後のチャンスだと、何となく感づいていた。ここでトップチームに上がれなければ、この先、サッカーで日の目を見ることは無いだろうと。

 足元のぬかるむグラウンドで、開始わずか10分、右からのクロス、相手ディフェンダーの裏をかいて、前に一歩フェイントを入れて反転、した心算だった。

 気付かなかったのだが、左肩を並べて競っていたディフェンダーとは別に、もう一人、俺の背後に寄せてきているディフェンダーが居て、反転してキーパーとの間に抜け出そうとした俺のユニフォームにそのディフェンダーの手が掛かった。

 右からのクロスは腰の高さほどの浮き球。通常なら身体ごと頭で合わせに行けば、ユニフォームを引っ張られるくらいの妨害は簡単に振り切れる。

 でも何故かこの時、俺はそのボールを左足で合わせに行った。

 ぬかるむ足元に踏ん張りの利かない軸足。そのまま滑って、身体を捩じる様に投げ出し、それでも左足の甲でボールを捉えた感覚はハッキリと分かった。

 そして、次の瞬間、右膝をハンマーで殴られたような激痛が走る瞬間は覚えているが、そのすぐ後に目の前が一瞬パッとハレーションを起こした感覚と共に、次に気付いたのは担架で救急車に乗せられている最中だった。

 病院で精密検査を受け、右膝十字靱帯断裂、頭の方は脳震とう。病室で横たわる俺に、コーチはその時のプレーの素晴らしさを褒めつつ、怪我に対して無念の思いを語ってくれ、手術後のリハビリと部への復帰の話をしてくれるのだが、まぁ、全く俺の頭には入って来ない。

 残念な気持ちより先に、これでサッカーに対する諦めがついたとの思いの方が先に立っていた。

 これが俺の限界、所詮プロのスポーツ選手になれるほどの肉体も精神も持ち合わせていなかった。

 それをハッキリと理解した出来事だった。

 退院後、一応リハビリを行いながら、部に戻りはしたが、マネージャーの様な役割を与えられ、表向きは選手としての復帰を目指す体を採りながら、自分では全くそのつもりはなく、ただ単に部に所属していることで、大学4年間の学費の免除を受けることだけが目的になっていた。

 文学部の心理学専攻科に在籍していた俺は、1年次の時に既定の7割程度しか取れなかった単位を、怪我の後一気に取り返し、3年次の専門研究室入りにも間に合った。

 心理学という学問に、そもそも興味が有った訳でもない。ただ、学部を選ぶにあたって、大学側の指定が法学部を除く文系であることであった為、何となくそこに決まった様なものだ。

 しかし、実際に学んでみると、実に興味深い学問であり、自分の肌にはぴったり合っていた。それまで全く理解することが出来なかった事象を、ものの見事に得心させてくれた。

 俺にとって心理学との出会いとは、五里霧中で、自分の居場所さえ分からなかった俺の目の前が、パッと晴れ渡る出会いだったんだなぁ・・・

 おっと、俺は何感傷に浸ってんだ?

 これはさっきまで遼一くんと話し込んでたせいかもな。

 さて、そろそろ店閉めて帰ろう。

 俺はグラスに残ったウイスキーの最後のひと口を飲み干した。

 

「あれ、遼一くん、お帰り。なに?千賀ちゃん送って戻って来ちゃったの?」

 遼一くんは「はぁ、まぁ、そうなんです」と、何やらハッキリしない返事をしながら、カウンターの空いた席に座った。

「なんか、帰っても眠れなくなりそうで・・・」

「そうなの?よく眠れそうなカクテル作ろうか?」

「え?そんなのあるんですか?」

「あるよ」

 俺はレミーVSOP、シロップをシェーカーに注ぎ、そこに卵を割り入れる。

「どうする?強めに作る?」

「お願いします。無抵抗に眠れるくらいに」

 俺はダーク・ラムを5ml追加して、シェーカーを振った。

 クラッシュドアイスを詰めたロンググラスにシェーカーの液体を注ぎ込み、ミルクで満たす。

 軽くステアして、シナモンのパウダーを2振りして、マドラーごとカウンター越しに差出した。

「ブランデー・エッグノッグ、お待ちどうさま。ナイトキャップカクテルって言ってね、睡眠導入カクテルなんだよ」

 遼一くんは会釈しながら受け取ると、一口飲んで目を丸くする。

「美味いっすね。ミルクセーキじゃないっすか」

「まぁ、そうだね。ただ、アルコール度数はそこそこ高いからね。千賀ちゃんも遼一くんもいつもビールばっかりだから、偶にはカクテルも良いでしょ?実は、私、っていうか、この店、カクテルも売りだったりするんだよ」

 遼一くんはもう一口飲んでから、「はぁ」とため息を吐くき、何か言いたげにこちらを見た。

「マスター、もう一杯同じ物お願いします」

 そう言うと、遼一くんは残ったグラスを一気に飲み干した。

 おいおいおい、それはやり過ぎだろ。しかし止める間もなく、空いたグラスをこちらに差出した。

「どうしたんだい?何かあったのかい?」

 遼一くんは少し黙ってから、「いえ・・・何もないんです・・・」と言って、照れ隠しの様に笑って見せた。

 ああ、そういうことか。

「遼一くん、間違いはないと思うんだけど、言っていいかい?」

「ええ、勿論。なんですか?」

「遼一くんさ、千賀ちゃんのこと、本気で好きだよね?間違いなく」

 遼一くんは辺りを見回す。もうお客は奥のテーブルに男女4人組だけで、カウンターには誰も居ない。

「大丈夫だよ、誰も聞いちゃいないし、聞かれたって構わないだろ?」

「まぁ、そうっすけど」

 この弟も意地らしいというか、なんというか。

「じゃあ、何が問題かというと、君ら2人は探り合いが過ぎるってことかな、私に言わせると」

 俺は2杯目のブランデー・エッグノッグを作りながら、遼一くんの目の動きを追った。目は泳いでいない。

 本気なんだな。知ってたけど。

「良いかい、遼一くん、千賀ちゃんのこと、実は何も知らないだろ?勿論私も知らない。じゃあ、何を知らない?『何も』の『何』ってなに?」

 遼一くんはキョトンとする。

「いやね、謎かけとかじゃないんだ。今日は良いこと、教えてあげよう。いや、良いことかどうかは分からないけど、ひとつ、こんなのはどうかなっていう提案かな。違うな、提案というより切っ掛け作りかな」

 遼一くんが少し前のめりな感じになって来たのが分かった。

「どうすればいいんすか?」

「じゃあ話そう。何を知ればいいのか。これ、心理学、特に行動心理学とか、集団心理学とかでやるんだけど、集団生活をする生き物、例えば犬・狼だったり、猿だったりって、群れを作るよね。それで、その群れには必ずリーダーが居るよ。さて、そこでだ。その群れの連中っていうのは、リーダーに対してどうするか、っていうのが問題・・・実はお腹を見せるんだ。お腹って、自分の一番弱い部分。動物って、お腹は人間以上に柔らかくて、4足歩行の動物って、殆ど腹筋って発達しないんだ。そして、その弱いお腹を食い破られると死んじゃうよね。そういう自分の一番弱い部分を相手に晒すことによって、相手に恭順の意を表す訳」

 更に遼一くんが食いついてきている。

「それでね、翻って人間はどうなんだ、と。人間も集団生活を営むけど、まぁ、これだけ文明が発達してると、お腹なんか見せないし、肉体的に強い弱いは、もうあんまり関係ないよね。然も2足歩行になってから腹筋は発達するし、何なら現代人は格好良さを求めてシックスパック目指しちゃうし。じゃあさ、人の一番弱い部分って、何だと思う?その一番弱い部分を晒すことによって、人も相手の信頼を得られるようになるって言われてるんだよ。さて、人が人として一番弱い部分は?ってなる訳。それで、お互いに人同士がそれを知り合うことになると、実はお互い仲良くなれるのさ。仲良くって言うと、ちょっと幼稚っぽいけど、まぁ、信頼関係が構築されて、意思の疎通がしやすくなる、ってことかな」

「そ、それで、その弱い部分って、何なんですか?」

 おお、完全に食らいついた。せっつく様に訊いてくる遼一くんを落ち着かせるように話すことを心掛けねば、間違って解釈されると余り宜しくない。

「まぁ、慌てないで。その弱い部分っていうのは、『その人の生い立ち』と、『現在の家族構成』って言われてるんだ。じゃあ、ここで遼一くん自身のことで思い出して欲しいんだけど、今現在でもこれまででもいいけど、2人、友達を思い浮かべて欲しいんだ。1人は本当に仲が良くて親友と呼べる友達、もう1人は、付き合いはそこそこ長いはずなのに、どうも打ち解けられない友達。思い浮かべた?そしたらさ、親友って呼べる方は、多分さっき言った2つのこと、どちらも知ってる筈なんだよね。逆に付き合いは長いんだけど、どうもしっくりいかない方の人って、そのどちらかを知らないか、若しくはどちらも知らないか、じゃない?」

 遼一くんの表情がパッと明るくなる。

「そうです。言われてみれば、ほんとだ。分かる、わかります」

 うんうん、と頷く様にして、俺を見詰める遼一くんの、キラキラした瞳が眩しすぎる。

「そっか、それを知らなきゃ、始まらないんですね」

 それはそうなんだが、急ぎ過ぎだ。この先は話すべきかどうか、少し迷うところなのだが、遼一くんには話しても問題ないか、な。

「でもね、遼一くん、じゃあ、どうやってそれを聞き出す?」

 遼一くんは「あっ」という表情をして、目を伏せる。勘のいい子だ。

「そうなんだよ、そんなこと、実はなかなか聞き出すのは難しいんだよ。面と向かってストレートに、あなたの子どもの頃ってどんな子どもで、どんな育ち方をしたんですか?とか、今のご家族の構成を教えてください、なんて聞けないし、聞いたところで気持ち悪がられて、反って壁を作られちゃったりするよね・・・」

 遼一くんは少し落ち込んだような声を出す。

「ですよねぇ。時間かかりますよねぇ、そういう風になるのって・・・俺、焦り過ぎだったんですね・・・反省します・・・」

 うん、こういった反省のできる弟には、やっぱり話して問題無さそうだ。

「いや、焦る気持ちも分かるよ。多分、もたもたしている内に、自分以外の誰かに取られちゃうんじゃないか、って不安でしょ?言っちゃなんだけど、歳の差もあるし」

 遼一くんは眉を八の字にして、「そうなんです・・・、分かりますか・・・やっぱり」と呟く様に言った。

「・・・遼一くん、君も勿論そうなんだけど、千賀ちゃんもうちの、いや私の大事なお客さん、いやもっと言えば大事な・・・ま、いいや、兎に角、2人にはおかしなことになって欲しくないんだよ、私としては。」

 ちょっとそれ以上は、彼らに対しての俺の気持ちを語るのは、気恥ずかしい。

「それで、だ。さっきの話に戻るけど、実は、人の弱い部分を聞き出せる方法はあるんだよ、比較的簡単に・・・」

「え、そんな方法有るんですか?」

 遼一くんは再び身を乗り出して前のめりになってきた。今しがたの落ち込んだ様子とは打って変わって、俄然、瞳を輝かせて。

「まぁ落ち着いて」

 俺は自分のグラスのIWハーパーを一口飲んで、煙草に火を点ける。

「ごめんね、ちょっと煙草、吸わせてもらうよ」

 別に勿体を付けるつもりは無いのだが、正確に俺の意図を汲み取って欲しいから、敢て丁寧に時間を掛けようと思った。

「良いかい、先ず、人間は質問者に対して、その質問者の開示した情報と同等の答えをしようとする習性が有るんだ。例えば『私は30代ですけど、あなたは何歳ですか?』と訊くと、相手は『何歳ですか?』と訊かれたのに『20代です』と答える。じゃあ、その質問者が『私は35歳ですけど、あなたは何歳ですか?』と訊くと、『28歳です』と答えるんだよ。分かる?

 先ず、こちらの情報開示があって、それに対する同等の答えをするってこと。

 じゃあ、

『私は関東出身ですけど、あなたはどちらのご出身ですか?』と尋ねると、『私は九州出身です』となるし、『私は千葉県出身ですけど、あなたは?』となると、『宮崎県出身です』と答えるんだよ、基本。

 もっと細かくしていくと、

『私の初恋は6歳の時で、お隣の1こ年上のスズちゃんでした、ところであなたの初恋は?』なんて質問でも答えちゃうんだよ。

 要は

 ① 自己の情報開示

 ② 情報開示は引き出したいレベルで行う

 ③ 情報開示の後は、間髪入れずに質問する

 この3つ。

 そして、この情報開示って、実は嘘でもいいんだよね。ただ、辻褄が合わなくなると、後々不信感を醸成しちゃうから、気を付けないといけない。

 まぁそもそも最初から嘘を吐かなきゃいいんだけどね」

 そこまで話しながら、俺は遼一くんの表情を観察していた。興味に瞳を輝かせること半分、残り半分は不思議そうな表情。

「どうしたの?不思議そうな顔して」

「いえ、何でマスターはそんなこと知ってるんですか?って思って。何でも知ってるんですね」

「いや、何にも知らないさ。寧ろ、知らないことだらけ。嫌になっちゃうくらい何も知らないよ。相対性理論とかも言葉しか知らないし、歴代総理大臣の名前だって、半分も知らない。・・・強いて言えば・・・人に興味があるってことくらいかな、決して人が好きな訳じゃないけどね」

 俺がもう一口グラスに口を付けるのを倣う様に、遼一くんもカクテルを一口飲んでから、「そっか」と何やら自分で気付いた風に呟いた。そして、俺に向かって言う。

「分かりました。マスター、ありがとうございます。情報開示、つまり、自分を晒すこと、ですよね?」

 うん、そういうことだよ、遼一くん。

「それを、簡単にいうと、『素直』と言う。でも、嘘は吐いちゃダメだよ」

「嘘なんか吐きませんって」

 遼一くんは全力で否定する。知ってるよ、君が本気なのは。

 カクテル2杯を飲み干した遼一くんを見送ってから、俺は独り客の引けた店のカウンターに腰かけて、煙草を燻らせながらハーパーのグラスを傾ける。

 自分のことを、とんだお節介野郎だと自嘲気味に感じながら、IWハーパーがとても甘く思えた。


 つづく

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