第2話 5月9日 チカコ√

「中村さん、社長が呼んでるよ。社長室に来て、ってさ」

「はーい」

 営業部の先輩社員である城間さんに声を掛けられて、手書き伝表PC入力分確認作業の手を止めて立ち上がった。先輩社員と言っても、今では役職で言うと、あたしが既に2つも上だ。城間さんは主任で、あたしは課長。

 このホテルに勤め始めてもう5年。あたしは経理の専門学校を卒業して、1年の就職浪人の後、このホテルに入社した。

 入社当時、従業員は正規社員、パートを含めてたった15人で、唯1軒のビジネスホテルを営む会社だったのに、2年目、3年目と、立て続けに事業拡大して、ホテル3軒、レストラン5店舗を経営する地元でも大手の新興企業になっていた。

 あたしは当初、ただ単純に、ホテルのフロント業務と経理のお手伝い程度の仕事をしていると、そのうち結婚でもするんだろうから寿退社でいいよね、なんて軽い気持ちで働いていたのだけれど、そんなぼんやりとした希望・願望はものの見事に打ち砕かれて、暇なし彼氏なし、仕事漬けの毎日が続いている。

 会社での役職も、あっという間に、管理部経理課の課長になっちゃった。

 別に意識して頑張った訳じゃない。ただがむしゃらと言うか、、忙しさにかまけてと言うか、振り返るとこの5年間、兎に角仕事しかしてこなかった気がする。

 特に2年目、3年目の事業急拡大の時期なんて、経理の仕事以外に、営業、新規スタッフの社員教育、企画会議に参加して、挙句の果てには社長の秘書の真似事までやらされた。

 やらされたって言うのは、語弊があるかもしれない。

 学生時代まで、何方かと言うと、引っ込み思案で大人し目のキャラクターで通してきたあたしが、この会社では人手が足りなかったこともあって、自分が必要とされている場面に、度々遭遇した。

 そしてそれが、嬉しくもあり、楽しくもあった。

 休日返上で出社しても、何とも思わなかった。

 結果も出した。経理の仕事を卒なく熟した上で、営業での新規顧客獲得は営業部の新人以上の成績だったし、ホテルの宿泊サービスプランもいくつも立ち上げた。 社長直々の外回り営業には、秘書の役回りとして同行し、なんならゴルフ接待にも付き合った。

 振り返ると、今更ながら、何とも味気も色気も無い5年間だった、と思ったところで始まらない。別に文句を言いたい訳ではない。いや、若干は言いたいのかも・・・。

 但し、お金はある。

 暇がなくて、彼氏も居ない。然も実家暮らしのあたしにとって、貰ったお給料は母親に毎月5万円渡しても、随分余る。ボーナスに至っては、殆ど手を付けない。

 本当は旅行もしたいし、可愛い洋服も買いたいのだけど、纏まった休みも取れなければ、買った洋服を着て見せる相手も居ない。そもそも、週の休みにやることと言えば、リフレッシュと称して、地元のスーパー銭湯でのんびりスパに入るくらい。もう既におばあちゃんみたいだ。

 仕事の帰りにTomyさんのお店に寄ったって、月に3万円も使いはしない。貯金は着実に増えていき、今では高級外車の1台くらいはキャッシュで買える。

 あーあ、あたしの人生、終わったな・・・。

 社長室に呼ばれて、今まで良い話だったことは殆ど無い。大概の場合、休みが無くなるか、接待に付き合わされるか、何方かだ。

 さぁ、今日はどっちかな。

「失礼いたします。お呼びでしょうか」

 あたしが社長室に入るなり、社長は満面の笑みを浮かべてこう言った。

「中村さん、凄いじゃないか」

 あたしは何の事だかわからなくて、キョトンと首を傾げるしかない。

「あれ、営業部長から聞いてないのかい?」

 更に訳が分からないよ。

「さぁ?何かしましたか、あたし?」

「おや、本当に聞いてないんだね」

 そう言うと社長は机の上に置いてあった書類の束を取り上げ、あたしの方に向けて見せる。

「これ、契約書。僕の決済サイン、捺印しておいたから、午後から営業部長と一緒に、直接先方に届けに行ってくれないかな。届けたら、今日はそのまま上がって良いよ。ご褒美だ」

 それはとあるプロスポーツ団体との法人契約書。

 あたし?

「いやぁ、でも本当によく繋ぎを作ってくれたよ。こういう契約欲しかったんだよ。法人契約は売上が安定するし、しかもプロスポーツっていうのが、またホテルの箔が付くじゃない」

 社長は実に嬉しそうにそう言うと、あたしの手を取って「ありがとう、良くやった」とも言った。

 あたしも笑顔で「ありがとうございます」とは言ったものの、実際のところ、余り喜びも感動も達成感も無い。

 何故なら、あたしはただ会社のパンフレットと自分の名刺を、Tomyさんのお店に数部置かせてもらっただけだったから。たまたまそれがどういう訳か、今回のその団体の目に留まって、連絡を受けた渉外課が契約を取れた、という流れ。

 そこにあたしの名刺が一緒にクリップ留めされていたから、最初はあたし宛に問い合わせが有りはしたけど、営業部に引き継いでからは、その後何も係ってはいなかったし。

 それでも社長が喜んでくれて、会社の為になり、今日は早く上がれることになって、少し嬉しい。

 たまには遼一さんと少しだけだけど、長い時間一緒に過ごせるし、Tomyさんにもお礼を言わなきゃ。

 Tomyさんは知らないことだけど、実はあたしはTomyさんのことを、かなり以前から知っている。

 Tomyさんは、本名:稲垣 努武、通称トミーさん。高校の2コ先輩で、サッカー部のキャプテンだった。

 10年前の高校総体、県大会準々決勝。あたしは一生懸命応援した。負けちゃったけど。その後、トミーさんは、プロのスカウトが来てプロ入りしたとか、サッカー推薦で大学に行ったとか、そんな噂は聞いていた。実際はどうなったのか知らなかったけれど、2年前にTomyさんのお店でバッタリ再会することになった。

 とは言え、10年前、あたしは高校1年生の冴えない眼鏡の女の子、方や相手は校内一のモテモテ男子。あたしはただ遠くから、カッコいい人だなぁ、なぁんて思いながら眺めるだけだし、トミーさんがあたしのことなんか知ってる訳もない。

 再会、と感じるのはあたしだけってこと。

 そういう訳で、2年前にお客としてあたしは、初めてトミーさんに遭った体なのだ。

 あ、もうお昼だわ。遼一さんにLINEしなくちゃ。

「今日、予定より早く上がれるよ☺。リョウ君は?どーする?」

 だめよねぇ、気持ちの中では「遼一さん」って思っていても、ついつい「リョウ君」って言っちゃう。なんでだろう?

 返信早っ。

「こっちは、今日は講義オワタ✌。早くって、どれくらい?」

 そうだなぁ、3時には上がれそうだけど、家に帰ってシャワー浴びたいしなぁ。1時間くらい余裕を持って。

「多分、4時頃かな?」

「ちゅーとはんぱ(笑)」

 そうだよねぇ。でも、今日は絶対、可愛い格好もしてみたいの。

「そだね(笑)」

 よぉく考えると、契約書持って行くくらい、部長一人でも良くない?まぁ言っても仕様がないことなんだけど・・・。

「んじゃ、Tomy‘S Barにオープン時間」

「👌。って、オープン何時だっけ?」

「5時半」

「ハッヤ(笑)」

 でも、多分大丈夫。

「早すぎ?」

 早く会いたい気持ちは、抑え切れない。

「👌☀」

「んじゃ、あとで♡」

 ♡マークがちょっと嬉しい。ま、時間的には余裕でしょ。

 よし、早くお昼を済ませて、即出発の催促をしに、部長のところへ行こう。早く帰りたいし。更に早く上がれたら、ちょっとだけ洋服を見に行こう。良いのが有ったら買っちゃおう。

 今日は何だか少し、楽しくなってきちゃった。


 契約書を届ける仕事は、予想以上に早く終わった。

 何故なら、あたしがお昼を食べ終わって直ぐに、午前中の外回りから帰った部長と給湯室の前でバッタリ鉢合わせ。

 契約書を届けに行くようにとの社長指示の話をすると、部長は時計を確認してから「今すぐ向かおう」と踵を返した。

 あたしも慌てて契約書の準備をして、部長の後を追った。

 部長曰く、

「俺、3時の訪問予定あるから、今行かないと間に合わないんだよ。社長もいきなりだな、相変わらず。悪いね、中村さん、慌てさせちゃって」

 いえいえ、こちらこそ。いえ、寧ろあたしの願望通りですわ。上手く行きすぎて、笑みがこぼれちゃいそう。しかし、そこは堪えなきゃ。

「そんなことないです。善は急げ、ですものね」

「善は急げの、急がば回れ、って、うちの婆さんは言ってたけどね」

 滞りなく契約書を手渡して、社交辞令の挨拶と世間話を交えたホテルの利用規約の最終説明を終わらせて、その団体のオフィシャルセンターを出たのが2時15分。

 部長からお昼に誘われたけど、そこは丁寧にお断りして、そのまま駅前のアパレルショップに向かう。以前から気になっていたお店。あたしの歳にはちょっと若すぎるかもしれないけれど。

 思っていた以上に時間は取れたけど、だからと言ってゆっくり選べる程の時間はない。しかし、お店に入ってみて一瞬で「これっ!」と思えるワンピースに出会ってしまった。

 試着室で着心地を確かめる。

 サイズはぴったり。

 でもちょっと、露出が多目かな。

 ええっと、お値段は・・・1万4000円・・・ちょっとお高い・・・

「いかがですか?」

 店員さんが声を掛けてくれたので、彼女の意見も聞いてみよう。あたしは試着室のカーテンをそっと開けた。

「あら、凄くお似合いですよ」

 それはお客にはそう言うしかないでしょう。でも嬉しい。だって、お洋服の試着なんてスーツ以外では何年ぶりだろうって思うくらいだもの。

「ほんとに?ちょっと肩とか出過ぎじゃないですか?」

「そんなことないです。お客様、肩のラインから綺麗な鎖骨していらっしゃるので、そこは隠さない方が絶対いいです。折角のスタイルが勿体ないですよ」

 そう言われると、もう一度くるっと回って鏡を確かめちゃうじゃない。

 鏡に映った自分を見て、何だか自分じゃないみたい。5年間、殆どスーツとパジャマしか着ていないんだから無理もないわね。あたしもまだまだ捨てたものじゃないかしらん。

「ちょっと露出が多くて恥ずかしいなぁ。いやらしい感じとかになりません?」

「全然、ぜんぜん。かえって健康的だし透明感がありますって、お客様の場合。すっごく可愛いですよ」

「可愛いって言われても、あたしもうそんな歳でもないんですけどね。今度27歳だし」

「え、うそ?私より年下の方だと・・・20歳くらいの方かと思っていました。失礼いたしました」

 このお姉さんは商売が上手なんだわ、きっと。

「これ、買います」

 レジで支払いを済ませて店を出ようとすると、先ほどの店員さんが近づいてきて囁くようにアドバイスをくれる。

「お客様、先ほどは普通に着て頂きましたけど、例えば上に薄いジャケットとかブラウスとか合わせて頂くと、逆に首から胸元までが強調されるので、大人っぽくというか、変な話、ちょっとエッチな感じにもできますよ」

「いやぁだぁ、そんなんじゃないんですって」

 そうは言ったものの、まんまと、こうやって言われた通りのコーディネートでやって来てしまった。

 遼一さんは気に入ってくれるだろうか?

 可愛い、綺麗、って思ってくれるかな?

 ちょっと恥ずかしい、かな。何か今日はふわふわと浮いているみたいな、心もとない感じ。


つづく

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