第七章
第七章 ①
「ただいま.........」
私は、片開きのドアを静かに閉めながら、誰に言うともなくそう呟いた。そして、靴を脱ぎいつもの通りに揃えると、カバンを置くことも忘れて洗面所まで足を進めた。
洗面所へ入ると、嫌でも鏡に自分の姿が映る。手を洗いたかっただけなのに、何故か、私の視線は手ではなく鏡の方へと注がれた。
不健康でない程度に焼け、つやつやとした肌。二、三回梳いても、一回たりとも引っかからないサラサラとした白髪。間違いない。これは蘭ちゃんの身体だ。
その事実を再度確認すると、水道のレバーを下げ、洗面台の隣にかけてあったタオルで手の水分を十分に落とす。そして、床に置いたバッグを再び手に持ち、洗面所を後にした。
その後、私は慣れた足取りで自室へと向かう。
廊下を十数歩進み、左を向いたところにある階段を十数段上り、またも廊下を数歩進む。それが、自室までの道。それはもう、記憶に焼き付けられていて、自分の中では当たり前にすらなりえるような知識だった。......しかし、それは私、金村悠姫の知識ではない。
可笑しな話だと心底思った。なぜ今まで私は私でないことに気づいていなかったのだろう。私はいつからこの状態で、その間はどのように生活していたのか、無理を言ってでも詩遠に話してもらうんだった。こんな状態だと、とてもじゃないけど頭の中を整理できそうにない。そして、そんなことを考えているうちに、私は件の部屋へと到着した。
ドアハンドルを下ろしてそのまま押し込むと、微かに軋む音とともに、自室の扉は開く。私は部屋に入るや否や、そこらへんにバッグをほっぽって、ベッドの上に仰向けで飛び乗った。
適度に刺し込む陽は、通常この冬の季節では心地の良いものなのだが、今の私にはただのノイズに過ぎず、正直鬱陶しかった。私は力の入らない体を無理やりに起こし、ゆっくりとカーテンを閉める。
すると私の身体は、崩れ落ちるようにベッドへと逆戻りした。
............さて、どうしたものか。
詩遠には分かったと言ってしっまったが、やはり今の私が持つ情報だけでは、正直なところ頭の整理など出来そうにない。だが、詩遠の目はいつになく必死だった。故に、今ここで何の説明もしてくれなかった詩遠を恨むのはお門違いも甚だしいだろう。あの人には、あの人の考えがあるのだ。
だから、今私がすべきことは、とにかく落ち着くこと。詩遠が言ったことをすべて飲み込むこと。多分、それだけ。
とりあえず、詩遠が私に教えてくれたことを整理しようと思う。まず一つ目は、私は昨年死んでしまっているということ。幼いころから病気がちだったことは覚えているし、高校生になったあたりからまたぶり返したことも記憶している。
もちろん、入院していた時に毎日のように誰かしらがお見舞いに来てくれていたことも、覚えている。
しかし、私が死亡したということに対してだけは実感が持てない。まあ、死ぬときのことなんて覚えていないのが当たり前と言わてしまえばそれまでなのだけれど、どうしても、この身体がある限りは、私が死んでしまったということに対しては、簡単に首を縦に触れそうにない。なので、ひとまずこの話は置いておく。
そして二つ目は、私の魂は蘭ちゃんの身体に宿っているということ。
まあ、これに関しては、一つ目のことが本当だと仮定したら、そうとしか考えられないのだが、それよりも私は、蘭ちゃんの魂についてのことが心配でならない。
もしも死者である私の魂が蘭ちゃんの身体に宿ったとしたならば、その間蘭ちゃんの魂はどこへ行ってしまうのだろうか。そう思うだけで、背中に悪寒が走った。
まあ、もちろん、明日詩遠から詳しい話を聞いてみない限りこれは仮定に過ぎないが、もしかしたら、私が生きていて、蘭ちゃんが死んでいることになる、なんてこともあり得るのではないだろうか。
もしそうだとしたら、それはなんとも理不尽で不条理な話だ。
とにかく、早く本当のことを知りたい。かと言って、正直今の自分にはこのベッドから降り、電車に乗って詩遠の家まで行く勇気や元気はなかった。
それに、あの人も私のことを気遣って一日という期間を与えてくれたわけだし、そう急ぐこともないのだろう。なので私は、とりあえず睡眠をとり無理にでも頭の中を整理することにした。しかし、頭の中でいろいろなことを考えてしまい、眠るまでにそれなりの時間を要した。
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