第六章 ③
「ここだ」
「.........ここって、洗面所?」
「ああ」
悠姫はもう、俺が何をしようとしているか分かっているようだ。
「........何を信じて、何を信じないかは、お前が自分で決めてくれ。だけど悠姫、お前は今、世界にはこう映っているとだけ、理解してくれないか」
俺は素早く悠姫の背中に回り、その小さな背中を軽く押した。
すると悠姫は、少しバランスを崩しながらも、俺が何を言っていることが分かったのか、三面鏡の前へと歩いて行った。その足取りはとても重たそうで、かくかくと震えていた。
しかし、うちの洗面所はとても窮屈だ。数歩も歩けば自分の姿が鏡に映る。そして、悠姫はやはりいまの自分の姿を目視することを恐れたのか、瞼を固く閉ざし、断固として瞳に光を取り入れようとしなかった。俺はそんな勇気を見て、少し脅しすぎただろうかと反省するも、そうも言っていられない。悠姫には本当に申し訳ないが、この現状を理解することから環姓の言い伝えは始まるのだ。
ただ、悠姫は逃げる気配はない。あくまで心の準備をしているだけなのだろう。
そして、そんな悠姫をよそに、鏡にはもうすでに、銀髪を有した美少女が映し出されていた。
あとは、悠姫が目を開くのを待つだけとなる。.........そして、俺が考えておくべきことは、どのようにして悠姫をフォローするかだろう。さっきの部屋での悠姫を見ると、泣く程度では済まなそうだし。
............昔は、今回のとは立場が真逆だったなそういえば。何かあるごとに俺は女々しく、へこんで泣いて。そしてそれを、いつも悠姫にフォローしてもらっていた。今回のようなことは、正直俺が思い出せる範囲では起ってはいないのではないだろうか。
そういう点では、悠姫と紫水はとても似ていると思った。
紫水は、悠姫が亡くなる前はあまり深い交流はなかったが、その後は、悠姫に取って代わったように、俺のそばにいてくれた。なぜ、俺みたいな頼りない奴についてきてくれているのだろう。以前悠姫からの頼みを受けたからだと言っていたが、本当に紫水はそれでよかったのだろうか。
悠姫や紫水なら、俺なんかにかまわなくても、もっといい人がそこら中にいるだろうに。......本当に、もったいないなぁ。
ガタッ!
しみじみと昔を懐かしんでいると、ふいに、何かが落ちる音が聞こえた。
それも、とても近い位置からだ。......もう、何が起こったかを考えるまでもない。俺は、素早く悠姫のもとへと駆け付けた。
「......悠姫、分かったか? これが、世界に映る今のお前なんだ」
とりあえず現状確認をするため、ペタリと床にうずくまる悠姫にそう声をかける。
しかし、悠姫は首を振ることはおろか、顔を上げる素振りすら見せなかった。ただただ、肩を震わせるばかり。そして、本人は隠しているつもりなのかもしれないが、とても小さな声で泣いているのが聞こえた。
「...............わからない」
ぽつりと漏れたのは、嗚咽に混じったそんな声。それを境に、悠姫の感情はぽろぽろと溢れてきてしまった。
「ごめん詩遠。私、わからないよ」
「悠姫............」
「こんなの、わかれっていう方がおかしいよ.........!」
悠姫の言葉は、何も間違ってはいなかった。俺ですら一日二日頭を悩ませたのに、当事者に対して数分で信じろという方がおかしい。それは、俺でもわかっている。だが正直、これに関しては信じてもらう他方法はないのだ。科学的根拠なぞ何処にもない。ただただ目の前に広がっている光景を、自分の納得のいくように解釈するしかないのだ。
そしてそれはきっと、時間に解決してもらうのが一番早いのだと俺は思う。もし今俺が環姓の言い伝えのことを話したとしても、余計頭がこんがらがってしまうだけだ。だから、家に帰して一人で状況を整理してもらうのが、一番いい。
けれど、悠姫には悪いが、生憎俺達には時間が少ない。最大でも丸一日までしかかけられないだろう。
俺は、あらかた今後の方向が決まったところで、悠姫のすすり泣く声が弱くなったとき、口を開いた。
「詳しい話は明日ということでお願いできないか。今度は俺がお前の家に行くから、それまでに、頭の中を整理しておいてほしい」
「.........わかった」
「それじゃあ、悪いけど住所を教えてくれないか」
俺は、洗面台の下にある棚に貼ってある、備品のストック数をメモしてある紙の端っこを千切って、ペンとともに悠姫に渡す。
「え、詩遠私の家の住所知らなかったっけ?」
「ごめん、言葉が足りなかった。紫水の家の住所、だ。書けるよな?」
「でも私、蘭ちゃんの家には行ったことないはず...............なのに、なんで......? なんで、書けるの......?」
そんな言葉を放つとともに悠姫の手には力が入り、紙はくしゃりと歪んだ。そう、ここ数日紫水の家で生活し、紫水として生活できていた悠姫にとって、紫水の家の住所がわからないはずがないのだ。
「薄々感づいているかもしれないけど、今悠姫の魂は、紫水の身体に宿っているんだ」
「............」
俺は、そう言いながら少ししわのついた紙を悠姫から受け取る。俺の放った言葉については、悠姫の応答はなかった。けど、それは理解したということではないということは分かっていた。
また、手渡された紙に書かれていた文字は、酷く震えていた。それを見て、俺は心が激しく痛む。
しかし、俺は謝ることはしなかった。もちろん、謝りたくないわけではない。何なら、土下座すらしてしまいたいほど、悠姫には謝らないといけないことがある。ただそれは、今日のことに限った話ではない。どうせ最期には全部吐かないといけないんだ。
今ここで吐いてしまっては、その最期の謝罪がぬるくなってしまいそうな気がするのだ。まあそれも結局、俺の我儘に過ぎないわけだが。
「............来るべき時が来たら、全部話す。だから、とりあえず、今日あったことの全部をのみこんでくれないか......?」
俺はそんな言葉と同時に、深く頭を下げた。座っているはずの悠姫の姿が見えないくらいに、深く。俺は謝らない。謝らないが、頭は下げる。そこに、誰にも悟られぬほどに微量の謝罪の意を孕ませて。
「言ったことあるよね。私、そういうの嫌いだって」
「ゆ、悠姫?」
「.........顔、上げてよ」
頭を下げている相手にそう言われては顔を上げないわけにもいかず、俺は体をゆっくりと元の姿勢へと戻す。すると、第一に見えたのは、何処か淋しそうな悠姫の顔だった。体育座りをして、足と足との間に顔をうずめる。それはまるで、いじけている子供のようだった。
「頭なんて下げないでよ。私たち、十数年来の幼馴染だよ? もうちょっと、私のことを信頼してくれてもいいんじゃないかなあ......?」
「信頼してないなんてことは......」
「じゃあなんで、次は詩遠が蘭ちゃんの家に来ることにしたの?」
「...............すまん」
「もちろん、私もすぐには信じられるわけじゃないよ。正直、今も自分の目を疑ってる。だけど、それでも私は自分の目よりも詩遠を信じる。詩遠の涙を、詩遠の言葉を、詩遠との過去を信じる。だって詩遠は——いや、何でもない。私もこれは、来るべき時が来たら言うよ。
とにかく、二度と私に頭を下げるようなことはしないで」
「............そこまで言うなら分かったけど、なあ、悠姫はなんでそこまで頭を下げてほしくないんだ?」
「十五年来の幼馴染に、頭を下げられて気分がよくなる人はいないんじゃないかな」
「...............ごもっともです」
「それじゃあ私、帰るよ。ちょっと、疲れちゃった」
俺はその言葉を聞くや否や、自室まで走り、机のそばに置いてあった悠姫のハンドバッグを手に取り、玄関へと戻る。そしてそれを、靴を履き終えた悠姫に手渡した。
「今日は本当にありがとう。気を付けて帰れよ」
「うん、じゃ、お邪魔しました」
ガラガラと音を立てながら玄関の扉は閉まっていき、やがては、悠姫の影のみが俺の視界に映った。
第六章 終
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