第19話

 半分くらいの奴は疲れて寝てしまったであろう、夜更けに。

 俺はひっそりと先輩の部屋の戸を開けた。


「お邪魔します」

「どうぞ」


 スリッパを脱いで部屋に上がる。

 中は先輩の家で嗅いだのと同じ匂いがした。

 入室して半日で匂いというのはこうも付くものなのかと、少し驚く。


 先輩は中のベッドの上で座っていた。

 先程着ていたジャージはベッド脇の棚に畳んで置かれている。

 今はゆったりとしたパーカーを着ていた。

 下はショートパンツのような、丈の短いモノを履いている。

 綺麗な太ももがまぶしい。


「誰にも見つからなかった?」

「はい。男子は多分ほとんど寝てるし、女子にも見つかりませんでした」

「あれ、同じ部屋の佐原は?」

「あぁ、それはですね……」


 同室である佐原には、俺が部屋を出たら当然バレる。

 しかし、全く問題ない。


「あいつ今、伊藤の部屋に行ってるんで大丈夫です」

「えっ、それ大丈夫なの?」

「合意みたいですよ」


 あの肝試しでかなり距離が近づいたらしい。

 肝試し後の佐原は男の顔をしていた。

 今の俺にはわかる。

 あれは、男として勝負に出る覚悟を決めた顔だ。

 水族館デートの朝に鏡で見た顔と似ていたからな。


「へぇ、付き合うのかな」

「どうでしょう。佐原は多分その気だし、伊藤も満更でもなさそうですし」

「なんだか嬉しそうだね」

「そりゃ勿論。知り合い同士がくっついて、尚且つあの二人なら見てる俺も楽しいんで」

「なんか意外」

「そうですか?」


 聞くと先輩は苦笑いを浮かべた。


「いや、君ってリア充を毛嫌いするタイプだと思ってたから」

「酷いですね」


 とは言いつつ、その通りである。

 前までは付き合うだとか、愛だの恋だの浮かれている奴らには嫌気がさすタチだった。

 それが変わったのは正しく。


「俺にこんな最高に可愛い彼女ができたから、余裕ができたんだろうな」

「恥ずかしいこと言わないでよ」

「あれ、口に出てましたか?」

「ばっちり聞きました」


 恥ずかしさと同時に、懐かしさがこみあげてくる。

 そう言えば前もこんなことがあったっけ。

 あれは付き合い始めてすぐの事だった。


「あれ、なんだかんだで付き合い始めてから一か月くらいは経ってるんですかね」

「あー、そうだね。色々あり過ぎて、忘れちゃってた」


 色々あり過ぎて。

 その言葉に含められているのは水族館デートや、その夜の彼女の自宅でのこと、そして今日のことだけではないのは明白だ。

 学校での冷やかしや茶化しなど、そういうものが含まれている。


「何組かこの合宿でカップルができそうですね」

「そうだね。私としては、もっと試合の方に力を入れてもらいたいんだけど」

「俺も、笹山さんにいいところ見せなきゃいけないですからね」

「私は良いから、チームのために頑張ってよ。……まぁ、私がモチベーションになるならそれでも構わないんだけど」

「はい」


 前にも言ったが、俺がバスケをしているのは消去法の末に過ぎない。

 こんなことを言ってはなんだが、チームに貢献だとか、部活が好きだとか、そういう気持ちは無いのだ。

 最低限の運動はしないとな、という危機感から渋々参加している。

 まぁ佐原のように、モチベーションが低くても活躍できる化け物もいるが。


 だが、彼女が応援してくれるなら話は別だ。

 それに、彼女は俺が試合に出て活躍することを望んでいる。

 女にここまで言わせて、頑張らない理由はない。

 むしろ今は部活の練習が楽しいくらいだ。


「俺、最近すごく充実してます。前は嫌だった部活が、先輩に会えるって理由から好きになりましたし」

「……それはよかった」

「はい」


 俺が言い終えると、そこで会話が止まる。

 静かな空間の中で、笹山先輩は前髪をいじり始めた。


 窓の外は暗く、雑音も聞こえない。

 完全なる二人きりだ。

 乱入してくる者も、恐らく現れないだろう。


 部屋の中へと歩いて行く。

 ずっと入り口に立って話していたのだ。

 足が疲れたので、腰を下ろすべく先輩の隣へ行った。

 そしてそのまま、彼女のベッドに座る。


「……あっ」


 小さく声を漏らす先輩。

 俺は何も言わず、彼女の手を取った。

 すると、先輩が恐る恐るこちらを向く。

 まるであの日の再現。

 先輩の家でキスをしようとしたあの時と全く同じ状況だ。


「……いきますよ?」

「ん」


 小さな吐息を返事だと思って俺は先輩の肩を抱き、彼女の綺麗な顔に近づいた。

 そして、唇を重ねる。


「……ん」

「あぁ」


 しばらくそのままでいた。

 どのくらい時間が経ったかわからないが、自然と互いに顔を離す。

 至近距離にあった笹山先輩の顔は、熟れたリンゴみたいに真っ赤で、目はきらきらと部屋の明かりを反射していた。


「すごい、可愛いです」

「……」


 言うと、先輩は顔をそむけた。

 そんな仕草に、今自分が言ったことを冷静に考えて、俺も恥ずかしくなった。

 慌ててベッドから降り、傍にあった椅子に座りなおす。


 ……


 無言の時が過ぎる。

 延々と、どちらも口を開かずにただ時だけが過ぎていく。

 もどかしい。


 チラと先輩を見ると、ちょうど彼女も顔をあげた瞬間で、目が合う。


「あっ、なんか喉乾かない!?」

「そうですね。喉乾いてます!」


 互いに気まずさから、意味の分からないハイテンションだ。

 しかし、一度声を出したことで少し落ち着いた。


「ちょっと俺、飲み物買ってきますよ。何が良いですか?」

「あー、じゃあ温かいカフェオレ。なかったら冷たい紅茶で」

「了解しました」


 注文を承って、部屋を出る。

 暑いような、寒いような、よくわからない感じだ。

 頭もぼーっとしている。

 はっきりしているのは、唇に残っている先輩の柔らかい感触だけだ。


 しかし、浮かれながら退室すると、部屋の前で思わぬ人に遭遇した。


「あれ、涼太君」

「川崎先輩……」


 一番遭遇したくない人だった。

 緊張と焦りで体が強張る。

 だが、そんな俺とは裏腹に、川崎先輩は特に絡んでくることなく、俺から目を逸らした。


「あんまり派手なことはしないようにね?」

「え、あぁ……はい」


 拍子抜けである。

 てっきりヤったのか、とかそんな辺りの質問をされると思っていたものだが。

 固まる俺を他所に、彼女はそのまま自室へ戻った。


 一件落着なのだが、これはこれで怖い。

 いつものノリすらしてくれなくなったら、こっちも調子が分からない。

 肝試しで脳筋ゴリラとペアを組まされたのを根に持っているのだろうか。

 考えられるのはそのくらいだ。


「いや、今は飲み物だ」


 自身に言い聞かせ、切り替えた。


 この階の自販機はエレベーターの横にある。

 というわけで、そこまで移動したのだが。



『……ねぇ、マジでやめてよー』

『……はぁ? いいだろ。こっちの方が楽しいじゃん』



 近くの部屋から声が漏れてきた。

 よく聞きなれた声だ。



『……涼太達も今頃いい雰囲気だと思うぜ』

『……え、あの二人も今同じ部屋にいるの?』

『……おう、オスの顔してたからな。もしかすると行くとこまで言ってるかもしれねーぞ。あいつはこれで童貞っていう一つのアイデンティティを失うのか』

『……嘘でしょー?』



 勝手に他人の話をしやがって。

 というか、この部屋のドア薄すぎだろ。

 いや、中の奴らの声がデカすぎるだけかもしれない。


 どちらにせよ、あまり盗み聞きするのも良くないので、急いで用を済ませてその場を後にする。


 ちなみに、自販機のジュースが落ちてくる音で、ピタッと部屋から声が聞こえなくなったのが面白かった。

 心配しなくても邪魔はしないぞ、佐原と伊藤よ。



「ただいま帰りました」

「あ、おかえり」


 新婚夫婦のようなやり取りをしながら、部屋に戻る。

 買ってきたカフェオレを先輩に渡して、俺は先ほどの椅子に座った。


「誰にも見つからなかった?」

「いや……川崎先輩に出くわしちゃって」

「え」


 先輩の表情が曇る。

 と、そこでふと伊藤が俺と川崎先輩が一緒に下校したことを知っているのを思い出した。

 もしかすると、笹山先輩の耳にも入っているかもしれない。


「あの」

「なに?」

「俺、川崎先輩とは何もないので」

「……一緒に下校してたって、風のうわさで聞いたけど」

「誤解です。笹山さんが休んでて、佐原にも置いて行かれて、一人寂しく下校してたらストーキングされただけですから」

「ストーキングって」


 クスっと笑ってくれてよかった。


「でも、ごめんなさい。一言言った方が良かったですよね」

「いや、いいよ別に。疑ってもないし」

「それはよかったです」


 ただ、今後こういうことがあったらその日のうちに伝えよう。

 誤解からすれ違って別れる、なんてことになったら堪らない。


「他は誰もいなかった?」

「自販機の近くの部屋から佐原と伊藤の話声が聞こえたくらいですね」

「そっとしといてあげなよ」

「もちろん」


 他人の恋愛を、特にあの二人の仲を妨げる気など毛頭ない。

 そもそも彼らには大分お世話になっているからな。

 何かお手伝いしてあげたいくらいだ。


 話し込んでいると、先輩がスマホを見る。

 そしてハッとしたように声をあげた。


「涼太、もう日が変わってるよ!」

「嘘ですよね? 明日って六時にはロビー集合だったような」

「そうだよ! 急いで寝なきゃ」

「ここでですか?」

「ふざけないで」


 大真面目に聞いたのだが、普通に怒られた。

 サービスタイムは終わったようだ。

 仕方がない。


「じゃあ俺は部屋帰ります」

「はい、おやすみ」

「おやすみなさい」


 先輩に挨拶をして、部屋を出た。

 今日はなかなか眠れそうにない。

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