第10話

 夕飯に寄った回転寿司屋から出る。

 辺りはすっかり暗くなっており、車のライトが眩く光っていた。

 いつもの下校と同じくらいの時間である。


 先輩と俺は特に会話をするわけでもなく、そんな夜道を歩いた。


 朝のような気まずい無言ではない。

 今日でたくさん距離が縮んだため、特に話さなくても居心地がいいのだ。


 色んな事があった。


 朝は先輩の私服姿に見惚れていた。

 水族館に入ってからはいっぱい会話したし、イルカのショーもよかった。

 そのあとのクラゲコーナーでは良い感じの雰囲気で手まで繋いだ。


 デート前は佐原のアドバイスにビビりまくって、体調まで壊していたが、蓋を開けてみれば大成功と言う他ないだろう。

 我ながら最高のデートだったと思う。


 先輩は楽しんでくれただろうか。

 基本的に終始笑ってくれていたし、つまらなかったという事はないと思いたい。

 先輩の笑っている顔を見るとこちらの頬も緩んでくる。



「ねぇ」


 沈黙を破るように先輩が口を開いた。


「涼太は門限とかあるの?」


 聞かれてスマホを確認する。

 時刻はまだ七時にすらなっていない。

 今から電車で帰って、自宅に着くのは八時前だろう。


「十一時を過ぎなければ大丈夫ですけど」

「そう……」


 先輩は俺の返答に目を伏せる。

 どうしたんだろう。

 まさか、ここからさらに行きたい場所でもあるのだろうか。


 そんな事を暢気に考えていると。


「うち来る?」

「えっ」


 その日で一番間抜けな声が出た。




 ‐‐‐




「お邪魔します……」

「はい」


 靴が綺麗に並べられた真っ白な玄関。

 そんな光景に頭が真っ白になる。


「涼太?」

「え、はい。何ですか?」

「玄関に立っててどうするの? あがらないの?」

「あぁ、すみません」


 謎に謝罪をしながら靴を脱ぐ。

 先輩のスニーカーの隣に自分の黒い運動靴を並べた。

 場違い感が凄い光景だ。

 ……靴もお洒落なモノを買わなければいけない。


「お邪魔します」

「何回言うの」


 お腹を押さえて笑う先輩に、俺もつられて笑う。

 埃どころか髪の毛一本も落ちていない廊下を進むと、リビングに着いた。

 別に特筆するような事はない、普通の家庭のリビングルームだったが、全体からする嗅ぎなれない香りで真っ白な頭からさらに色んなものが抜け落ちていくような感覚に襲われた。


「あは、汚くてごめんね」

「どこがですか」


 これで汚いなら俺の家はごみ屋敷だ。

 特に俺の部屋なんて、裸足で歩き回ったら足の裏に髪や埃が大量付着するというのに。


「これ全部笹山さんが掃除してるんですか?」

「まぁお父さんが手伝ってくれる時もあるけど、基本的には私一人かな」

「凄いですね」


 片付けができる人というのは尊敬に値する。

 昔から母代わりだったと以前スポーツ用品店で聞いたが、本当にその通りだ。


「あれ、家族は今日居ないんですか?」

「うん、いないよ。お父さんは県外出張でしばらく帰ってこないし、弟も今日は友達の家に泊まるんだって」

「そうですか……」


 つまり、今夜は先輩と俺の二人きり、という事になる。


 ――え?


 先輩の顔を見る。

 彼女は若干頬を赤らめながら、カウンターキッチンの前に立っていた。

 両手を特に用もなくいじっている。


「何してるんですか?」

「涼太こそ、突っ立ってどうしたの?」

「……筋トレです」

「なにそれ」


 会話が異様に弾まない。

 互いにどうしていいかわからない、もどかしい時が流れてしまう。


「なんで、家に呼んだんすか?」

「……なんとなく」

「……そうですか」


 会話終了。

 対戦ありがとうございました。


「……」


 先程、お土産コーナーや寿司屋に行ったときのような居心地良い雰囲気はどこへ消えたのだろうか。

 距離が縮むどころか、今のこの感じは今朝よりも酷いのではないだろうか。


 こんな時はどうすればいいんだ。

 教えてくれ、誰か。


 困ったとき、いつも頼りになる佐原の言葉を思い出せ。

 何かヒントがあるに違いない。


 俺はそう思って、奴の言葉を思い返していく……。


「あ」


 あった。

 奴が残したアドバイス。

 俺が先ほどクラゲコーナーで反芻していたアドバイスだ。

 あれは実は今この時の事を思って言ってくれた言葉だったのかもしれない。


『初デートってのは、攻めすぎても攻めなさ過ぎてもダメだぜ』


 その言葉を頭に置きながら、先輩を見る。

 目が合った。

 当然だ、だってこの家には俺たち二人しかいないんだから。


「笹山さん……」

「なに?」

「いや……」


 攻めるって、何をすべきなんだ。

 って今考えたところで答えなんか出るわけがない。

 デート前にあれだけ考えて体調を崩すことしかできなかった俺が、さらに頭が回らなくなっているこの状況下で判断できるわけがない。


 先輩はぼーっと俺の方を見ている。

 しかし、今はもう焦点があっていなく、目が合うわけではない。


「笹山さんの部屋って、どんな感じなんすか? ちょっと見て見たいです」


 口を突いて出たのはそんな言葉だった。

 すると、先輩は頷く。


「こっち」


 案内されるまま再び廊下へ出て、今度は階段を上った。

 階段の先には三つの部屋がある。


「こっちはお父さんの部屋、こっちは弟」

「じゃあここが笹山さんの部屋ですか」

「うん」


 かなり古そうな手作りの飾りがかけられたドアノブを回す先輩。

 飾りには平仮名で『おねえちゃんいつもありがとう』と書かれている。

 弟さんから昔にもらったプレゼントなのだろう。


 部屋の中は濃い匂いがした。

 別に臭いとかそういうわけではなく、濃度の濃い先輩の匂いである。


 締め切られた窓の内側には香水なんかが飾られていた。


「ごめんね、今窓開けるから」

「え」

「嫌なの?」

「……そんなことはありません」


 気持ち悪いから口には出さないが、先輩の匂いに包まれたこの空間にいるのは幸せだ。

 それなのに空気を入れ替えるなんてとんでもない。

 キモいから言わないが、本心はそれである。

 うっかり口から漏れ出すところだった。反省反省。


 窓を開けると外気の冷たさで、少し頭がはっきりした。


 部屋の中は、小学校の頃に買ってもらったであろう勉強机にベッドくらいなもので、あまり物で溢れかえってはいなかった。

 小物類はベッドの枕元や机の棚の上なんかに纏められている。


「何もないでしょ」


 苦笑する先輩に、俺は首を捻る。


「わかりません。他の女の子の部屋なんて見たことないので」

「……涼太は私が初めての彼女?」

「そうです。笹山さんは?」

「私も涼太が初めて」


 普通の会話をしてるだけなのに、やけにエロい話をしているような気になってしまった。


「クローゼットの中は汚いんだよ。ほら、見えないところに隠しちゃえーって掃除するから」

「見ていいっすか?」

「いいわけないでしょ」


 クローゼットの取っ手に手をかけると、その手を叩かれた。

 ちょっと痛い。


 ほんのりと赤くなっていく手の甲をさすっていると、先輩はベッドに腰かけた。


「自分の部屋に人をあげたのっていつぶりだろ」

「そう言えば俺も最近はないですね」


 小学生くらいの頃は毎日のように友達を招いたり、逆に招かれて遊びに行った記憶がある。

 気付けば無くなっていた習慣だ。

 だから部屋が汚くなっても放置できるのだが。


「何もすることないね」

「そうですね」

「ごめんね、なんで家に呼んだんだろ」

「謝らないでくださいよ」


 そう言ってベッドに座る先輩を見た。

 彼女は前髪をいじりながら下を向いて座っていた。

 朝の電車やクラゲコーナーで感じていたが、彼女は緊張したり照れたりすると、髪をいじったり下を向く癖があるのかもしれない。


 立ちっぱなしで疲れたため、俺もフローリングの床に腰を下ろした。

 すると先輩が笑う。


「なんで地べたに座るの? カーペットとか敷いてないしお尻痛いでしょ」

「でも座るところないんで」

「いっぱいあるじゃん、そこの椅子とか、隣とか……」

「え」


 先輩の隣。

 それはつまり、ベッドの上という事。

 先輩は言いながら顔を赤くする。


「照れるくらいなら言わないでくださいよ」

「……ごめん」


 謝らないで欲しい。

 ここでそんな反応されたら、俺まで照れてしまう。

 くそ。


「……うわ」

「なんすかその反応。自分から誘っといて」


 先輩の隣に座りなおすと彼女は変な声を漏らした。


「ごめん、本当に来るとは思わなかったから」

「……ダメだったですか?」

「君、卑怯だよ。そういう事聞くの」


 消え入りそうな声で言われ、頭から足先まで何かが走るような感覚に襲われた。


「なんか緊張しますね」

「そうだね。でも変だよね、電車に乗ってる時もこのくらいの距離感で座ってたのに」

「やっぱり、二人きりのプライベート空間と視界に他人が入る公共機関じゃ勝手が違うんですかね」

「そっか、二人きりだもんね」

「はい」


 二人きり。

 人目を気にする必要はない。

 俺達が何をしようと、邪魔する存在はゼロだ。


「手、繋いでいいですか」

「……うん」


 先輩の右手を俺は握った。


「冷たいですね」

「冷え性だもん」

「なんか折れちゃいそう」

「折らないでよ?」


 触っていて思うが、女の人の手は俺のと違って柔らかい。

 部活上、男の手はかなり触り慣れているが、そのサンプルたちと照合すると、女子の手と男子の手が如何に別物かわかる。


 ふと視線を手から先輩の顔へとあげると、当然だが目が合った。


「笹山さん」

「……うん」


 攻め時は、今だ。

 どんなに経験がなくても、これだけは確実だ。

 手を繋いだ後、二人きりのこの距離ですること。

 俺が先日男子トイレで辿り着いた答え——。


「キスしていいですか?」

「……うん」


 頷き、体をこちらに向けて目をつむる先輩。

 俺はその肩に手を伸ばし、少し背中を曲げながら顔を近づける——。



「ただいまー!」


 気付いた時、俺は冷たいモノを唇に感じていた。

 そう、フローリングの床である。


 ベッドから突き飛ばされ、床にダイブした俺はそのままの勢いで床とキスをしたのだ。


「ごめ……」

「姉ちゃんいねーの!? あ、いた……え?」


 俺に謝ろうと近づく先輩は、突如乱入してきた存在に言葉をのむ。


 ドアを豪快に開け放ったその先に立つのは中学生くらいの少年。

 顔つきは笹山先輩によく似て、優しい系のイケメンだ。

 彼の視線は俺に向いていた。


「は、誰これ……え、姉ちゃん?」

「いや、ほら……って今日泊りじゃなかったの!?」


 動揺した先輩の大声が部屋に響いた。



 ◇



「ほんとにごめんねっ!」

「仕方ないですよ」


 玄関先で。

 頻りに手を合わせて頭を下げる先輩に俺は苦笑を漏らした。


 泊りの家で少々揉め事が起き、急に帰宅してきた弟君のおかげでえらい目に遭わされたもんだ。

 中でも一番傷ついたのは。


『なんで床とキスしてるんですか?』


 訝しげに尋ねられたが、そんなの俺だってわからない。

 そもそも原因はお前のせいだ。

 お前が帰ってこなければ俺の唇はフローリングではなく笹山先輩の唇に触れていたはずなのに。


 と、名残惜しそうに先輩の唇を見ていたら。


「えっと、ここで続きする?」

「……それはやめましょう」


 こんなムードもくそもないところで、大事なファーストキスを済ませてたまるか。

 ため息を漏らす俺に先輩も苦笑した。


「じゃあこの続きはまた今度」

「はい……え」


 すんなり飲み込みかけたが、今とんでもないことを言われたような。


「今度?」

「……うん」


 またいつか、ちゃんとした場所で。

 そう言って先輩は恥ずかしそうにはにかんだ。


「じゃあ、今日はこれで」

「うん、色々ありがと。楽しかったよ」

「それはよかったです」


 姿が見えなくなるまで手を振り合い、俺は自転車に跨った。


 最後の一言で、全てがどうでもよくなった。

 今日のデートは大成功したのである。


 あぁ、今度が楽しみだ。


「よし!」


 暗闇の中、声をあげた。

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