エピローグ
間もなく結婚から三年経つ。
あの時と同じように、公爵邸の書斎には、前公爵夫妻と現公爵夫妻、それに侍女――ジュリアがいた。
あの夜、ヘンリー王子と邂逅してから、エリン・シーモア公爵夫人にはもう一つの噂が付きまとうようになった。曰く、彼女はヘンリー王子と没落した令嬢の間に生まれた娘なのではないかと。
その噂は、その後とある劇団を王家が庇護し、名誉団長にエリンが、顧問にヘンリー王子が就任したことで信憑性を増した。
秘められたロマンスは国民の同情を呼び、王子と令嬢を引き裂き、令嬢を愛人に据えたチャーチ伯爵の名は見る間に地に落ちた。
それまでは成功者としてちやほやしていたというのに、王家が出てきた途端の手のひら返し。ジョージはかつてシーモア公爵家が没落しかけたときと、今との社交界での扱いを思って、ちょっとばかり伯爵に同情した。
伯爵夫人は離婚を申請し――理由は夫の長年の不義だ――実家に戻った。
伯爵の娘のアレクサンドラは母とともに王都を去った。父の不名誉な噂と自身の身持ちの悪さのせいで社交界で見向きもされなくなったのがかなり堪えたらしく、しおしおと母に従ったらしい。世間知らずのツケは、なかなか高く付いたようだ。伯爵夫人は慰謝料をたっぷり分捕ったらしいので、まあ、結婚できずとも死ぬまで暮らしに苦労はしないだろう。
見事なものだ、とジョージは思った。
エリンは公爵家との約束を守りつつ、自身の復讐も成し遂げて見せたのだった。
☆
「さて、もうすぐ三年ですね。私は約束を果たしました。シーモア公爵家の経済を立て直し、黒字化までして差し上げた。あ、いいんですよ、別に恩を着せるつもりはありません。
私が求めるのは一つだけ。約束を守ってください」
約束とは、離婚のことだ。
ジョージはちらりと両親を見た。そこには、公爵家らしい品位と落ち着きを取り戻した二人がいる。出された紅茶の質も三年前とは比べ物にならない。ジュリアも身なりこそ侍女のものではあるが、エリンの側でその仕事を見、手伝い、密かに公爵夫人としての教育を受けてきた。
そして、それはジョージも同じだ。没落寸前の旧来通りの公爵家ならともかく、隆盛しつつある実業家でもある公爵家を、何の教育もなく舵取りするのは難しかったろう。
何もかも、エリンのおかげだった。
「その――それは、もちろん、そのつもりだ」
ジョージは、どうしても快諾する気持ちになれなかった。
エリンが去った後、公爵家を同じように維持できるのか不安だった。それに、正直、エリン自身にも惹かれるものがあり――口が裂けても言えないが――離れがたい気持ちもあった。
「だが、その、もう少しいてはくれないか。
君だって、公爵夫人でいることは悪いことではないだろう? 私は君がこのまま残ってくれても、いいと思っている」
口が滑った、と思った。
父が右手で目を覆い、ジュリアの視線が厳しくなる。母は――
「この恥知らず!」
そう言って、紅茶のカップの中身をジョージにぶちまけた。
唐突な母の怒りに、彼は反応できずに真正面から紅茶を浴びた。ちょっと熱かった。
「だが、離婚してどうするんだ? 伯爵家へは戻れないだろうし、劇団にだって戻れないだろう? 僕たちはうまくやってる。それなら今のままだって」
「御免蒙ります」
ジョージの提案は、一刀のもとに切って捨てられた。
エリンは立ち上がり、カップをゆっくりと傾けた。たぱたぱたぱ……と紅茶がジョージのつむじに注がれる。注ぎながら、エリンは続けた。
「うまくやってるですって? はあ、これだからボンクラは。私に少しでも好かれているとでも思っていたの? うわっ気持ち悪っ!」
ジョージの心臓に、ぐさりとエリンの言葉が突き刺さる。気持ち悪いって……
紅茶がなくなり、エリンはなぜかジョージの頭の上にカップを乗せた。ジョージはそっと、カップを取り除けた。
「大体ね、三年前の結婚の時、あなたは『十七歳の、見知らぬ男と結婚させられたばかりの娘』になんて言ったと思う?
本来文句を言うべき相手は父でしょうよ。父には言えないくせに、自分より弱そうな子供には言えるのよね。見下げ果てたフニャチン野郎だわ。
だというのに、自分の行いを棚に上げて、恥ずかしげもなく別れたくないだなんてよく言えたものね! よりにもよって私の身の振り方を心配するふりまでして。ご心配いただかなくても結構! 自分一人の生活くらい、どうとでもしてみせます!」
エリンの美しい碧い瞳は、高ぶった感情できらきらと輝いていた。こんな時だというのに、ジョージは美しいと思った。いやいや、何を考えているのだ、ジョージはぱちぱちと目を瞬いた。まつ毛に紅茶の雫が付いていた。
そういえば、三年前も母にかなり激しく非難されたのだった。あれは、こういうことだったのか。
エリンの復讐の相手には、ジョージも入っていたというわけだ。
「大体にして、ジュリアの目の前で、どういうつもりなのよ!」
「うっ……」
「エリン様、私はいいんです。この人はこういう人ですから」
ジュリアが苦笑して言った。ジョージは彼女の顔を見ることができない。
「優柔不断で独善的で考えなしで。よく知っております。幼馴染ですから」
「ジュリア……」
そんな風に思われていたなど、ジョージは思いもよらなかった。もしかして、彼女もエリンのように、彼を気持ち悪いと思っているのだろうか。少なくともエリンに嫌われてはいないと思っていたジョージは、エリンの本音を聞いて、すっかり自信をなくしていた。
自分の愚かさに嫌気がする。
「それでも、悪い人ではないのですわ」
「ジュリア……」
「でも、次に浮気心を出したら、とっとと見捨てますけれど。
エリン様、その時はまた私を雇ってくださいます?」
「ジュリア……」
「嫌だわ、この人ジュリアしか言わなくなっちゃった。
ええ、もちろん、ジュリアなら大歓迎よ」
「そもそも、浮気したら、この家を出ていくのはこの子の方ですよ。
エリンもあなたもいなくなって、この子だけになったらシーモア公爵家は没落まっしぐらですもの」
「……」
この女性陣の結束はなんなのだ。ちなみに前公爵は最初に取ったポーズから微動だにしていなかった。
下手に言い返せば状況が悪くなるだけだということくらいは、ジョージにも分かった。
「すみませえん……」
思いのほか情けない声が出て、エリンが「ぼふっ」と変な音を立てて噴き出した。笑いこらえているのか肩が震えている。
「このくらいにしておいて差し上げますわ! 不誠実な言動を反省してくださいな。
さて、それでは離婚の手続きを進めるということでよろしいですね?」
「ああ」
「もちろん!」
ジュリアが会話を締めくくると、ジョージとエリンが頷いた。
かくして、数日後にシーモア公爵夫妻の離婚が成立した。双方合意の上の円満な離婚であり、離婚後も元公爵夫人はシーモアの姓と公爵夫人の称号を名乗ることを許され、生活に困らないだけの金銭も支給されることとなった。これはかつて公爵家が繊維業に乗り出したとき、彼女が投じた持参金の返金の意味もある。
そして数か月後には、ジュリア・デイヴィス子爵令嬢とジョージ・シーモア公爵の婚約が発表された。社交界から平民に至るまで、ほのぼのとした気持ちでこのニュースを受け止めたという。
☆
エリン・チャーチ・シーモアは、真新しい劇場の舞台の上にいた。爽やかな木の香りがする空気を、彼女は胸いっぱいに吸い込む。
「かくも恐ろしきは女! 嫉妬と復讐のためならば、残虐、邪悪なることこの上なし!
その細き
エリンの声は朗々と劇場中に響き渡る。エリンは、ふふ、と笑った。
「よう、エリン名誉団長、よく帰って来たな」
まだ客席の据え付けられていない床の上から、こちらもやはり、よく通る声が彼女に語りかけた。
劇団長が、太った腹を愉快げに揺らしながら、エリンを見上げている。ちなみに、この劇団長は、その昔サンドラをチャーチ伯爵に差し出した時の団長の息子である。
「女が恐ろしいなんて、失礼しちゃうわよね。男の方が力があるんだし、世の中の悪ーいことは、ほとんど男がやるんじゃない。そもそも、復讐されるようなことすんなって」
「まったくだわな。俺も人のことは言えないが、連中、自分らがどれだけ傲慢だか気づきもしない。やり返されると『何でそんなことするんだ』みたいな被害者面するんだもんなあ。
いやあ、しかしすっきりしたぜ。さっすが我が娘」
劇団長は艶々した黒髪を後ろへ撫でつけて、にかっと笑った。その瞳はびっくりするくらい碧い。まあ、瞳の色などどう遺伝するかは分からないので、気にするだけ無駄ではあるのだが。
結局のところ、エリンの父が誰か、サンドラにもはっきりとは分からない。チャーチ伯爵も、ヘンリー王子も、劇団長も皆黒髪で碧い瞳だ。そしてエリンはサンドラに生き写しで、父親の要素を探す方が難しかった。
ヘンリー王子はさほど気にすまいが、チャーチ伯爵にとっては、エリンが自分の胤ではない、という疑惑はまさに青天の霹靂であったろう。完全に支配したつもりで、出し抜かれていたのだから。
ただ、劇団長はエリンの瞳の色がどうであっても、きっとエリンのことを目に入れても痛くないほど可愛がっただろう。そう思えるほどに、赤ん坊の頃から彼はエリンを大切に、大切に育ててくれた。だから、エリンにとって父は彼しかいない。彼の前でだけは、年相応の顔を見せることができた。
「ママは元気?」
「ああ、元気だとも。前回の公演でも絶好調だったぜ。折角の美人女優が老婆役になるっていうから、もったいねえなって思ったが、いやいやどうして、大した名女優様だよ。王都の誰一人、シンバルの魔女役が、あのサンドラ・パターソンだとは気づきもしねえ。
特等席でお前の活躍を見物できたって、喜んでるよ」
「そっか」
「満足か?」
「めっちゃくちゃ楽しかった!」
「そうか」
「……ママを苦しめた奴を苦しめられて。ねえ、許しは最大の復讐だって言うじゃない? あいつらに復讐して、まだあいつらを心から許せない私は間違ってるのかな」
劇団長が、よっこらせ、と舞台に上がってきて、エリンの肩を抱いた。エリンも逆らわずにその胸に頭を預ける。
「いーや、俺だって同じ気持ちだ。
違うところがあるとすれば、お前がヘマして傷つきやしないか、心配だったってことくらいかな。
誰だって愛する人が傷つけられたらやり返したいって思うさ。お前が傷ついていたら、今度は俺とサンドラがやつらに復讐してた。
だから、お前の復讐が成功してよかったよ。俺にはお前ほどうまくやれるとは思えねえからなあ」
「そうだね。パパじゃ奴らに近づくのも無理だったかも」
エリンが父の胸に顔をうずめて、小さな笑いを漏らす。
そういえば、幸福こそが最大の復讐という言葉もあった。
「そうとも。パパの可愛い娘は、びっくりするくらいすんごいからなあ。優しくて、賢くて、可愛くて、金勘定まで得意ときた。
はあ、帰って来てくれてよかったよ。パパは可愛い娘が遠くに行っちゃったみたいでなあ」
「帰ってくるよ、どこにいても」
劇団長は愛し気に娘の髪を撫でた。
「さて、これからどうするつもりなんだ? 女優に戻るなら俺たちは大歓迎だがな」
☆
貴族と平民のパワーバランスが変わり始めていたこの時代を象徴するかのように、すい星のごとく現れた女性、エリン・シーモア・スミス。
公爵と離婚した後、彼女は様々な事業を興し、ことごとく成功させた伝説の実業家として知られた。
また、芸術の庇護者としても名を残し、彼女が名誉団長を務めた王立劇団の運営方式は世界中に広まり、その名を称えて劇団は王立エリン劇団と名を変えた。なぜ家名が入っていないのかは、表向き彼女の二度の結婚のためだと噂されている。
エリンは時として舞台に立つこともあり、その日は満員御礼、立錐の余地もないほどの客入りだったという。
彼女の立身と入れ替わるように、チャーチ伯爵家は没落し始める。伯爵自身は投資の勘が鈍り始めたと思っていたようだが、欲をかいて畑違いの分野に手を出したのが敗因だと言われている。たとえば、繊維業とか、貴族院への参入とか。そうしてある年、再起をかけた一大博打で何もかも失った。
二十代も終わりに差し掛かったころ、彼女は電撃的な再婚を発表する。相手は経済学者のショーン・スミスだった。何でも、エリンがショーンに事業の運営の相談をするうちに、親しくなったのだとか。
ショーンはプロポーズに腕一杯の薔薇の花を贈った。エリンは嬉しそうに目を細め、「あなたの専属女優にならないと、今度は家一杯の薔薇を贈られちゃいそうね?」と笑って薔薇を受け取り、ショーンは「専属女優ではなく、妻になってほしいのです」と告げ――柄にもなく真っ赤になったエリンに跪いて、彼女が頷くまで切々と愛を乞うたとか。
それから彼にあやかり、この国には一世一代の愛の告白にはバラの花束を贈る風習ができた。
親子ほども年の離れた夫婦だったが、夫婦仲は円満で、夫は生涯妻を崇拝し、愛し、優しく見守り続け、彼女に先立ち世を去った。
エリンは夫を見送った後、残りの人生を一人身で過ごした。
しかし、彼女の元には親友のジュリア・シーモア公爵夫人が常におり、エリン劇団の仲間たちがいた。晩年まで元気いっぱいに駆けまわり、誰からも愛されたという。
そして、ある冬の日、ジュリアとのお茶会のさなかに倒れ、友に看取られてこの世を去った。
葬儀はジュリアとジョージの手で執り行われた。その墓は、王都の平民墓地の中にある。墓石には、「エリン・シーモア・スミス」と。
その隣には、夫と、エリン劇団長アダム・リードと、その妻サンドラの墓がある。
☆
葬儀を終え、エリンの遺品を整理していたジョージは、大切に長持ちに隠された日記を見つけた。それはエリンの母のものであり、エリンのものもあった。彼は少しばかりの罪悪感を感じつつ、誘惑には勝てずにその表紙をめくる。
――そういうところがダメ男なのよ!
彼女の声が聞こえるようだった。
あの日、あの夜、渡りに船だと言って、ジョージの度肝を抜いた彼女のあの声が。
ジョージはちょっと泣いて、ジュリアを呼んだ。
「なあ、ジュリア、僕たちとエリンの物語を残したいと思うんだけどーー」
出だしは、白い結婚を申し出るところからだ。演劇にしてもいい。タイトルはもちろん――。
おわり
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