第7話 ポール・チャーチ伯爵の誤算

 ポール・チャーチ伯爵にとって、世の中は先の手の見えたチェスのようなものだった。情報さえあれば彼はどんな筋であれ読み切って見せた。それは彼の天賦の才であって、今まで一度として彼を裏切ったことはない。

 最愛の愛人に産ませた娘、エリンの結婚についてもそうだ。そうだったはずだった。


 チャーチ伯爵家は主に鉱山開発を中心とした鉱物関係の投資で名を挙げた。しかし、それは有限の資源であることを彼はよく知っていた。手にした富を増やさなければ、いずれこの家は没落する。伯爵が目を付けたのは、繊維業だった。ことに平民階級に売れる毛織物。その原料。広大な土地を必要とする牧羊業――それから衣服の縫製、販売まで視野に入れた一大産業の絵図を、彼は描いた。

 そのための土地として、恐慌を何とか耐えきり、まとまった領地を維持していたが、前当主のずさんな管理と無謀な投資で傾きかけていたシーモア公爵家に目を付けたのだった。

 まず、公爵家の家人に少しずつ甘言を吹き込む。公爵家の収入を目減りさせる。それから、公爵夫人として娘を送り込む。それによる公爵家の不和につけこみ、娘を助けるため、資金援助のためと人を送り込む。公爵家の財政をつかんだら、土地に手を出す。エリンは適当なところで離婚させて手元に戻す。そういう計画だった。


 初めの違和感は、彼の妻だった。

 彼の読みでは、愛人の娘であるエリンを目の敵にしこそすれ、味方になるなどありえない事態だった。だが、彼女は、エリンが伯爵家の屋敷に連れてこられた日からずっと、同情的だった。屋敷にいる間中、彼女はエリンにぴたりと張り付き、ポールは密かに願っていた父娘水入らずの時間を少しも持つことができなかった。

 妻はエリンの持参金に、自身の資産からかなりの額を上積みしすらした。彼女はチャーチ家が恐慌の時代を生き抜くために厳選した裕福な一族の出身である。最愛のアレクサンドラを捨てて選ぶほど、その富は途方もないものだ。

 この違和感を放置したことを、ポール・チャーチは後々まで深く悔やんだ。

 公爵家が新たな事業を興せたのも、エリンが伯爵家からの土地の貸借の要請を、あれほど強気に断れたのも、妻の持たせた資産と妻の後ろ盾があったから――。


 それから、エリンと公爵の仲睦まじさ。

 若き公爵は伯爵家に恋人との仲を引き裂かれて恨んでいたし、エリンだって無理矢理会ったこともない男に嫁がされたのだ。伯爵の読みでは、絶対に不和となるはずだった。

 エリンは公爵家で孤立無援になり、伯爵家に頼るしかなくなる。そして実家の力を笠に着て我が物顔でふるまう嫁に、公爵家は憎しみを抱く。そう、思っていたのだ。

 だが現実には、エリンとジョージはどこに行くにも一緒で社交界でも評判のおしどり夫婦となったし、なぜか公爵の元恋人はエリンに仕えている。初めこそ下世話な噂が立ったが、最近は引き裂かれた二人に同情したエリンが自ら隠れ蓑になって二人の愛を応援しているというもっぱらの評判だ。


 二つの読みを外した伯爵には、その後の流れを押しとどめることはできなかった。

 公爵家は見る間に経営を立て直し、新たな事業を興すに至る。元々地位も名誉もあり、社交界での人脈も新興伯爵家とは比べ物にならないほどの名家だ。そうなると、いくら金を貸していると言っても、もうチャーチ伯爵では強引に横車を押すような真似はできなかった。


 だが、彼にはまだ手札がある。

 エリンの弱みは彼女を育てた劇団だ。興業への出資を取りやめると言えば、必ず泣きついてくる。公爵家の事業を何とかして押しとどめ、それができなくとも不和を引き起こしてエリンを孤立させたかった。

 なぜなら、エリンはポールのものだから。何やら妙な噂があるらしいが、そんなことはありえない。

 エリンは彼のものだ。その母、アレクサンドラ・パラディンと同じく。



 アレクサンドラ・パラディン伯爵令嬢。

 ポールの唯一。最愛の恋人。あの悪夢の恐慌の年、パラディン家はおもしろいように転がり落ち、貴族としての体裁を保つことすら難しくなっていった。ポールはアレクサンドラと婚約していたが、パラディン家から支援の要請を受けて――援助の引き換えに愛人になるよう条件を出したのだった。そして、ポールは、彼女との婚約を破棄して現在の妻と婚約を結びなおした。

 婚約破棄は、当時のチャーチ伯爵であった父が決めたことだったが、ポールは反対しなかったし、愛人の件は彼自身が提案したものだ。

 なぜかといえば、彼はアレクサンドラの実家が滅びればいいと思っていたし、他に寄る辺ない身の上となった彼女を愛人として好きなようにできるというのは、ただ妻という立場に置くより、ずっと魅力的だったからだ。そう、彼はアレクサンドラがその身を差し出しても、パラディン家を救うつもりなんて毛ほどもなかった。


 アレクサンドラが愛人になってから少しして、パラディン家は爵位を返上した。そして、彼女も姿を消した。


 ポールは血眼になって彼女を探した。

 だって、彼女はポールのものになると約束したのだから、逃げるなんて許されないことだ。

 どう隠れたものか、彼女はなかなか見つからなかった。だが、数年後、彼女は自ら彼の前に姿を現した。すい星のごとく現れた新進女優、サンドラ・パターソンとして。


 劇団の収入は、当然木戸銭だ。興業の規模もその収入に見合うものになる。だが、もしも莫大な資産を持つ伯爵が、金を出すと言ったら?

 当時の劇団長は野心家で、かつかつの収支で町々を回るような生活には満足していなかった。専用の劇場を建て、公演を打つたびに潤沢な資金を提供し――やがて劇団は伯爵の支援なしには、営業を続けられなくなった。

 そうして、引き返せなくなった頃、資金援助の見返りとして、ポールはサンドラを要求した。

 地道な準備の間に、ポールは彼女が女優という仕事も、劇団の仲間たちも、かけがえのないものとして愛していることを知っていた。拒めば全ての資金を引き揚げるといえば、いとも容易く彼女は堕ちた。


 元々女優というのはそれだけでは食べて行けず、パトロンの愛人となる者も多いし、更にひどいときは娼婦まがいの仕事をせざるを得ない者もいる。サンドラも幾人かの「パトロン」がいたこともあり、意外とあっさりと彼の愛人の座に納まった。女優を引退するまでは。まあ、それは仕方ない。彼女はもはや若くなかったし、お互い十分に与えあったというものだ。田舎に引っ込むという彼女を今度はポールも引き止めなかった。何より、娘のエリンは彼の掌中にあった。

 若く美しく、サンドラに生き写しのエリンが。



 さて、エリンが生まれ育った劇団は彼の支配下にある。公爵家が土地の貸し出しを断った数日後のこと。ポールは劇団長の元へ赴き、資金の引き上げをにおわせた。


「そうですか。わかりました。チャーチ伯爵閣下には、これまで大変お世話になりました」


 が、壮年の劇団長は慌てもせず、引き留めることもしなかった。それどころか、その表情はどこか晴れ晴れとしていて――


「そうか、それではこの劇場も返してもらおうか」


 駆け引きだろうと思った彼は、さらに一歩踏み込む。


「さようでございますか。ちょうど引っ越しをしようとしていたところです」


「ほう?」


「当劇団も、いつまでもその日暮らしという訳にいきませんから。コツコツとお金を貯めていたのです。エリンは素晴らしい娘だ。どこで学んだのか、帳簿の付け方から資金の調達の仕方まで、いつの間にか我々が教えられる側になっておりましたよ。

 いえ――あれはサンドラの娘だから、と言うべきか」


「まあ、女優としてもなかなかのものだからな」


「いいえ、人をたらしこむ才能ですよ。誰もが彼女を好きになる。そして、いつの間にか彼女の求めるものを差し出してしまうのです。金も、地位も、知識もね」


 ――何が言いたいのだ? 私もたらしこまれたとでも言うのか。


「サンドラは見事なものでしたよ。あなたに迫られ否応なくその身を差し出したと見せかけて、ことあるごとにあなたから金を巻き上げていた。

 ああ、サンドラの体と引き換えだったと? 確かにそれはそうです。あなたは彼女の尊厳を踏みにじった。

 でも、彼女は一度だって、ただであなたに屈服しはしませんでしたよ。あなたの愛人だったときだって、あなた一人のものにはならなかったし――」


「なんだと?」


「おや、お気づきではなかった? しかし、あなただって奥様がいらっしゃるのに、サンドラにだけ貞節を求めるというのもおかしな話だ。大体あなたもサンドラに言っていたではないですか。女優など娼婦まがいの職業だと」


「だが、彼女は私に借りがある。援助と引き換えに」


 劇団長は、最後まで話をきかずにポールを嘲笑った。黒い口ひげの下で、唇が歪んでいるのが見えた。


「彼女が借りを返していないとでも? あれだけ虐げておいて? 意外にあなたも初心だったんですなあ!

 さて、私も暇ではないのでね。お話がそれだけならお引き取り願えますかな?」


「無礼な……! この程度の劇団など、私の手にかかればひとひねりなのだぞ。口には気をつけろ」


「できるならばおやりになればいい。我々は王立劇団となりました。いやあ、エリンは素晴らしい娘ですな! あなたの娘とはとても思えない!」



 ――エリンは私の娘だ! 私のものだ!


 感情のままに、ポールはシーモア公爵家へと足を向けた。だが、応対した執事長はにべもなく「奥様はご予定がおありです」と言って、彼にエリンを会わせようとしない。


「それなら、予定が空くまで待とう」


「いえ、本日は夜まで予定が入っております」


「夜になれば空いているのだろうが。娘の部屋で待つ。案内しろ」


「エリン様は公爵夫人でいらっしゃいます。許可なく私室へお通しすることはできません。大体本当に――」


「何?」


「いいえ、今日のところはお引き取りください」


 エリンが嫁ぐまで、擦り切れた服でしょぼくれた顔をしていた執事長。今は名門公爵家の使用人のトップらしく、慇懃ながら断固とした態度を崩さなかった。


「この……シーモア公爵家は恩というものを知らんのか。破産寸前のところを助けたのは誰だと思っている」


「おや、面白い話があるのですがね。

 お恥ずかしながら、当家の代官やら取引していた仲買人が不正を働いていたのを摘発しまして。彼らが示し合わせたように、さるお方に頼まれてやったと言うのですよ。チャーチ伯爵閣下。

 ええ、当家を傾けた者どもが」


「不正をするような者の言うことを信じるとは、理解できんな」


「まことに。人を陥れるような者を信じてはなりませんね。

 さて、お帰りの馬車の準備ができたようです。お引き取りを」


 もしや気づかれたのではとは思っていたが、これまで抗議すらなかったので偶然だとポールは思っていた。彼らはこちらの軛が外れるのを待っていたのだ。

 これ以上粘っても分が悪いと思い、ポールは今日は引き上げることにした。従僕の後についてエントランスまで行ったところで、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。エリンだ。

 エリンが、苦みばしった美丈夫と腕を組んでエントランスに現れた。


 白髪交じりの黒髪に碧眼。


「おや、ポール、久しぶりだな」


 チャーチ伯爵の名を呼び捨てにできる人物。


「ヘンリー殿下」


 ポールは、王族への礼を取る。


 ――一体いつの間に、屋敷へ王子を呼ぶほどの仲になった? いつからだ? 王立劇団になったと劇団長は言っていた。いや、待て、あいつは……


『あなたの愛人だったときだって、あなた一人のものにはならなかったし』

『いやあ、エリンは素晴らしい娘ですな! あなたの娘とはとても思えない!』


 伯爵と同じ、黒髪に、碧眼。ヘンリー王子は社交界の淑女を魅了する美貌の持ち主で、エリンもまた類まれな容姿だ。

 アレクサンドラが醜態を晒した直後から近頃社交界で囁かれているあの噂は、そんな、ありえない、はずだ。サンドラは彼のもので。エリンも彼のものだ。


「お父さま。お帰りの馬車の準備ができておりますわ」


 ――どちらに言ったのだ?


 開け放された扉の向こうに、二台の馬車が停まっている。

 ポールには分からなかった。自慢の勘はもう働かない。彼には何も、もう分からない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る