第6話 公爵夫人の秘密の日記

 その男が近づいてくるのを、エリンは思っていたより落ち着いた心持で見守っていた。

 エンリケ・ヴァン伯爵――ヘンリー王子殿下。王位継承権第三位の王弟にして、クラーク大公殿下。この国で二番目に金を持っている男。

 彼だ。彼に自然に接触するために、エリンは時間をかけて社交界での人脈を作り上げたのだ。



 初夜の床で初めてジョージ・シーモアとプライベートな会話を交わした時の印象は「ボンクラだわ」というものだった。

 何もわざわざエリンに事情を説明する必要などないのだ。彼が望んでの結婚ではないことはよくわかっている。夫婦の契りを拒否されたとして、それが何故かなんてこと、疑問には思わなかっただろう。わざわざ伯爵家の機嫌を損ねてまで一言言ってやりたい気持ちを抑えられないなんて幼稚だし、後先考えてなさ過ぎて呆れるばかりだ。


 ――だけど、私にとっては好都合かも。


 エリンの頭に、復讐のプランが浮かんだのはこの時だ。

 チャーチ伯爵と、自分勝手なアレクサンドラと、静かに暮らしていたエリンの家族を壊し、彼女たちを踏みにじった奴らに、少しくらい意趣返しをしてもいいのではないか。


 エリンがジョージに語った身の上には、嘘はない。公爵家の立て直しに当たって語ったことにも嘘はない。ただ、語らなかったことがあるだけだ。

 ジョージとの結婚の三か月前に突然現れた父、ポール・チャーチ伯爵は、劇団への圧力をちらつかせてエリンに公爵との結婚を強いた。チャーチ伯爵は確かに劇団の有力なパトロンの一人で、出資を打ち切ると言われてしまうとかなり厳しい。その頃劇団は国王の御前での上演を控えており、些細なトラブルも避けたかったからだ。

 家族も劇団の人たちも逃げろといってくれた。だから余計に、エリンは逃げられなかった。エリンを愛し育ててくれた人たちだったから。


 それに、エリンは父がこの縁談を絶対にあきらめないという確信があった。彼のエリンの母サンドラに対する執着は非常に強い。正妻との間に生まれた娘にアレクサンドラという名前をつけるくらいだし、その後サンドラの日記を一通り読んで更にその思いを強くした。


 エリンの母、サンドラは幼少の頃からの日記を大切に保存していた。それは非常に詳細なもので、女優になって、さらには劇団の運営に携わるようになってからの日記は非常に貴重な情報源とでもいうべきものだった。

 だが、エリンの背筋を冷たくさせたのは、サンドラがまだうら若き令嬢だった頃のもの。

 サンドラ・パターソンは、真の名をアレクサンドラ・パラディンといい、例によって銀の暴落で没落したさる伯爵家のご令嬢だった。そして、ポール・チャーチの許嫁でもあった。

 ポール・チャーチは、没落したサンドラとの婚約を破棄したにも関わらず、資金援助と引き換えに愛人になるよう要求し、だというのに資金援助の約束を守らなかった。それはきっと、サンドラの立場を弱くするための企みであったのだろう。

 耐えきれなくなったサンドラは身分を捨て女優となった。美しさの他に何もなかった彼女には、そのくらいしか選択肢がなかった。が、意外にも才能があった彼女は徐々に有名になり、ついにはチャーチ伯爵の目に留まってしまう。伯爵は再びサンドラの前に現れて――やはり愛人になるよう要求したという。


 この日の日記を読んだエリンは思わず「やっべ」と声が出てしまった。執着が過ぎる。

 父は絶対に母の生んだ娘であるエリンを手放さない。自分の支配下に置いて、死ぬまで操り人形にするだろう。



 嫁ぐ前に滞在した伯爵邸で、エリンは花嫁修業の傍ら情報収集に努めた。愛人の子が来ると待ち構えていた使用人や教師陣には悪いが、貴族令嬢としての常識は母から叩き込まれているし、エリンを女優にするつもりなどなかった母や劇団の者達の気を変えさせた能力――形態模写の技術でチャーチ伯爵夫人の一挙手一投足を吸収することでさっさと令嬢教育を終えてしまったので、調べる時間はたっぷりあった。

 意外なことに、協力してくれたのはチャーチ伯爵夫人である。彼女は母の婚約破棄の経緯も、その後の愛人命令の騒動も全て知っており、


「お母さまもあなたも……難儀なことよね」


 と言って、伯爵邸にいる間中、ほぼ張り付いていてくれたので、伯爵夫人の威光で機密書類でも何でも閲覧し放題だった。


「あなた方も大変だけど、私だって初恋の人に夢中の夫の、初恋の人の名前を娘に付ける夫の、初恋の人の生んだ娘を自分の娘にしろっていう夫の妻なのよ。少しくらい仕返ししたって罰は当たらないと思うわ」


 そういう訳なので、嫁ぐときにはびっくりするくらいの財産を持参金につけてくれたし、チャーチ伯爵が愛人の一人を侍女に付けた時も、これでひと月は嫌味を言えると言って、喜んで引き受けてくれたのだった。


 劇団の経営の基礎程度しか知らないエリンでも、公爵家の帳簿がどこかおかしいのはわかった。伯爵家の小さな領地の収支と見比べてみても、公爵家の収入がこんなに少ないのは絶対におかしい。確かに前公爵は馬鹿みたいに博打じみた投資を繰り返しており、支出が多いのは理解できた。だが、この経済規模でこれほど収入が少ないのはおかしすぎる。

 とはいえ、エリンにはそれほど経営の知識があるわけではない。畑違いの分野で無理をすれば失敗する。だから、母の日記に記されていた、かつてのチャーチ伯爵のブレインであり、今は袂を別ったスミス博士に目を付けた。ショーン・スミスはパトロンであるチャーチ伯爵の愛人、サンドラに恋心を抱いており、その報われぬ思いをサンドラに生き写しのエリンへファンとしての情熱を注ぐことで代償としていた。

 母の日記には、彼女を中心とする欲望の渦が描かれていた。一際大きな流れがチャーチ伯爵。渦の周りを控えめに回るのがスミス。母は人気女優だったから、新たな劇をかけようというときには実にたくさんの紳士貴顕としており、中には王族もいたし、新進の富豪もいた。金のないスミスは、決して渦の中心には近づけなかった。

 かつてサンドラがチャーチ伯爵に頼らざるを得なかったように、ちょっとばかり心が痛んだが、エリンも彼が必要だとうそぶけば、初心なスミスはころりと落ちた。


「富の基本は、正しい帳簿と倹約ですからな」


 ――そうだ。その通り。

 父チャーチ伯爵がシーモア公爵家に着けた目隠しを、スミスはしっかり取り去ってくれた。


 他にも母の日記には、新進の富豪が成功した理由――陶器製作の機械化――であったり、資金難でものになってはいないが、将来有望な事業であったり、所詮女優と侮った山師が漏らした金脈であったり、よくよく読めば金に化ける情報が山と記されていた。

 エリンは前公爵に言った。「投資には知識が必要である」と。彼女には知識があり、そしてこれは天性のものとしか言いようのない勘があった。

 彼女が資金を投じる先から、次々と事業は成功し、元手としたチャーチ伯爵夫人が持たせてくれた持参金は面白いように増えていった。ジョージは知らなかったが、エリンはこの時点で公爵家の借金を全額返せるほどの資金を手にしていた。

 だから、満を持してチャーチ伯爵家の代理人が土地の賃借を持ち掛けてきたとき、にべもなく断ることができ、繊維業の機械化などという冒険にも手をだすことができたのだった。


 ――これで、二つめ。


 公爵家の収支の是正に続き、チャーチ家の牧羊事業を頓挫させた。その上シーモア公爵家は牧羊と繊維業で名を挙げるだろう。


 ――あと、二つ。


 エリンの意趣返しの残りのうち一つは、ターゲットの方からほいほいと寄ってきた。

 金を稼ぐのと同時に、エリンは社交界でも精力的に活動していた。

 人の心を読むのは得意だ。女優として人の感情を表現するために、エリンは常日頃から人々の表情や言葉、それが表す感情を気に留めてきた。わずかな感情の揺れでもエリンは必ず気づく。

 正義感の強い若い娘には、お涙頂戴の献身物語を――そうそう、ジョージの愛人は賢くて、そしてとっても役に立ってくれた――、娘を失くした孤独な未亡人には、親の愛に飢えた哀れな少女の物語を囁けば、誰もがころりとエリンに傾倒してくれた。

 エリンが演じるシーモア公爵夫人は、誰にも好かれる社交界の花となった。


 アレクサンドラ・チャーチとは会ったことがある。といっても一方的に罵られただけだったが。

 まだ劇団にいた頃、屈辱的にも愛人の名をつけられた伯爵令嬢は、父伯爵鍾愛の妾腹の娘をさんざん嬲りに来たのだった。

 そんな彼女が、エリンが社交界で輝いていることを、黙って見ていられるはずがない。

 そうして、エリンの読みは当たった。


「もうお体はよろしいの? あれから――十三か月かしら? へえ……」


 出産したことがある婦人なら分かる言い回しに、気づいた貴族夫人はどれほどいただろうか。十月十日の妊娠期間と産褥期の後、不審に思われずに動き回れるようになるなら、十三か月くらいかしら、そう思った人が。

 散々売女だ娼婦だとエリンを罵倒し甚振った娘が、同じ目で見られるのはどんな気持ちだろうか。エリンだって、アレクサンドラを多少はかわいそうだと思わないこともない。彼女の歪みも愚かさも、たぶん家庭環境に原因があり、それはアレクサンドラにはどうすることもできなかったものだ。

 だけど、それはまず父に向けるべき怒りだ。エリンだって好きであのチャーチ伯爵の娘となったわけではないし、父と関わらず、女優として身を立てようとしていたのだ。

 エリンだって、人生をめちゃくちゃにされたのである。どういう経緯で妊娠したのかは知らないし、知りたくもない。だが、こちらを攻撃してくるというのであれば容赦はしない。


 ――あの顔! やり返されないとでも思っていたのかしら。……馬鹿な子。


 アレクサンドラは、エリンが平民の女優のままだと思っていたのかもしれない。

 エリンは、今や押しも押されもせぬ伝統派貴族の公爵夫人なのだ。未婚の妊娠というだけなら、まあただの醜聞だが、公爵夫人へ面と向かっての売女呼ばわりは許されない。

 エリンだって、何もされなければこんな場所で、ここまでの意趣返しをするつもりはなかったのに。まったく馬鹿な子。


 貴族社会というのは序列社会だ。頂点に国王がいて、次に王族がいて、伝統派貴族、新興貴族。いかに新興貴族が金を持っていようと勢いがあろうと、格式では伝統貴族には叶わないし、公の場での侮辱は許されない。その伝統貴族であっても、王族にたてつくことはできない。

 この序列は、封建制が崩れつつあっても、いまだに絶対であった。

 だから――チャーチ伯爵であっても、王族には手は出せない。


「エンリケ・ヴァン伯爵閣下」


 エリンは最上級の――王族へ捧げるレベルの、淑女の礼をとった。その隣で戸惑いつつ、ジョージが最敬礼をする。



「アレクサンドラ・パラディンという伯爵令嬢を知っているかな」


「さあ……」


「最後のパラディン伯爵は破産して爵位を返上、小さな村で教師をして暮らしている。その息子は海軍で将校になった。カーディフに駐屯している。提督だよ。

 アレクサンドラは伯爵が爵位を返上する前に失踪して、今も行方不明だ」


 サンドラ・パターソンが小さな劇団に飛び込んだ頃だ。母の日記には、その頃の苦悩はありありと記されていたが、その後の実家の様子は書かれていなかった。


「そうですか。ご無事ならいいのですが」


 ヴァン伯爵はぴくりと眉を上げて、面白そうに瞬いた。


「さて。エリン・シーモア公爵夫人」


「ヴァン伯爵閣下」


 エリンは気まぐれな猫のように、とらえどころのない曖昧な笑みを浮かべた。


「私の出席する夜会で、腹違いの姉と鉢合わせし、罵らせた目的は?」


「まあ人聞きの悪い。あちらが勝手に噛みついてきただけですわ」


「餌をちらつかせてね?

 さしずめ、私も君の撒いた餌に喰いついた獲物といったところかな」


「さあ、どうでしょう」


「駆け引きしなくていい。君を一目見て、喜んで愚か者になると決めたからね」


 何も知らないジョージが鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。


「……私の顔に見覚えが?」


「ああ、サンドラ・パターソンにそっくりだ。それに、その首飾りと耳飾り。私が彼女に送ったものだ」


 知っている。だから今夜、身に着けて来たのだ。

 ヘンリー王子はサンドラ・パターソンの数あるパトロンの一人。そして、何度目かの逢瀬の時に、捨てたはずの過去の名を彼はサンドラに囁いたと。そして、身分を回復して妻にならないかと告げたと、日記には書いてあった。

 母は、恋多き王子の数多の恋の中でも、一等輝かしい思い出であろうと、エリンは考えた。ならば。この母生き写しの顔を見れば、放ってはおけないはずだ。


「そうですか。私も王族を欺こうなどと愚かな真似はしますまい。

 単刀直入に申し上げます。サンドラ・パターソンの劇団を庇護していただきたいのです。

 チャーチ伯爵が劇団の最大のパトロンでしたが、彼は演劇のなんたるかも分かっていない。あろうことか、所属する女優を愛人にする始末。

 この劇団の素晴らしさは、王家の方々もご存じのはずです。御前で何度も上演しておりますから」


「なるほど。しかし、今度は庇護と引き換えに王家の支配を受けることになるのでは?」


「肝要なのは、一人に力を集中させないことです。王家の方々には名で庇護を。財政面では独自の調達を行います。上演のたびに複数のパトロンを集め、出資額に上限を儲けることで一人の人間に頼らぬ健全な運営を」


「そんなことが可能なのかな。言っては何だが、演劇など娯楽でしかないだろう。それほど多くの者が金を出すとは思えない」


「ご心配なく。すでにこの試みは成功を収めています。先日王都で上演した『オデットとクロード』をご存じでしょうか」


「ああ、もちろん」


「劇場に掲げられた服飾を中心とした広告にはお気づきですか? あるいは、出資者の銘板は? 今や、金を持っているのは貴族だけではありません。平民の資産家階級も力をつけつつある。従来より少額から出資でき、広告も打てる。次の興業もすでに資金調達は上々とのこと。

 とはいえ、貴族の持つ特権や権力は侮れません。王立劇団の名誉をいただければ、それも退けることができます。是非、ご検討を」


 エリンには勝算があった。

 この人はかつて本気でサンドラ・パターソンに恋をしていたし、同時期に公然と彼女を愛人にしていたチャーチ伯爵への対抗意識もあるはずだ。

 そして、エリンはチャーチ伯爵には似ていない。思ったことがあるはずだ。もしかして、と。

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