第5話 伯爵令嬢アレクサンドラ・チャーチ
あれはジョージの元婚約者・アレクサンドラ・チャーチだ。エリンと同じ黒髪をくるくると巻き、鬢の毛だけを編み上げた娘らしい髪型だ。絹のモスリンを重ねたロイヤルブルーのふわりとしたドレス。襟元と袖、裾は真っ白なレースで縁取っている。大粒のサファイアを中心とした二連の首飾りと同じくサファイアの耳飾り。
最低限の装飾で自身の造形美を最高に演出してみせたエリンの洗練美と並ぶと、どう見ても野暮だった。
「公爵夫人の座を掠め取った泥棒猫!」
みるみるうちに距離を詰めたアレクサンドラは、右手を振り上げた。ホールに乾いた打擲音が響き渡るかと誰もが思ったが――
「私の妻に何をする。チャーチ伯爵令嬢」
自身が思っていたより、冷たい声をジョージは発していた。
「ジョージ、この女はあなたが思っているような深窓の令嬢ではないのよ。父をたぶらかした娼婦の娘なんだから!」
アレクサンドラの言葉に、淑女たちが顔をしかめた。唐突に社交界に現れたエリンが正嫡の子ではないことなど、誰もが暗黙のうちに理解している。
今、この場でそれを大声で喚きたてるアレクサンドラこそ伯爵家の恥と言えた。
アレクサンドラ・チャーチは、初めて会った時から中々強烈な娘だった。何というか、有体に言えば性格が悪い。シーモア公爵家がチャーチ伯爵家に頭が上がらないということを知っていて、もう言いたい放題だった。
「どうして私が貧乏公爵と結婚しなければならないの? 私なら王族とだって結婚できるのに。はあ、何てついてないのかしら」
初対面がこれである。エリンに対して最初きつい言葉を投げかけてしまったのは、アレクサンドラの印象が強かったせいもある。あれの妹だったら、同じような娘に違いないと。
今にして思えば、あの伯爵の娘として生まれたら、多少性格がひねくれるのも仕方ないかな、と今ではジョージも思う。だが、彼女よりよっぽどひどい目にあったエリンはきつい性格ながら、根っこのところでは善人だ……たぶん。
そのエリンの不幸――結婚相手の自分が言うのもなんだが――の原因であるアレクサンドラは、一体どういう考えでこんなことをしでかしているのか。
それにジョージだってアレクサンドラの突然の婚約破棄は結構な侮辱だった。よくもまあ、被害者面して話しかけられるものだ。
「お姉さま」
エリンは扇をぱちりと閉じると、小さくため息をついてみせた。まるで仕方のない妹を見るかのように。
「もうお体はよろしいの? あれから――十三か月かしら? へえ……」
それから、エリンはアレクサンドラの顔に顔を寄せた。
アレクサンドラの手を掴んだままのジョージには、彼女の耳元に囁きかけたエリンの声がよくきこえた。
「産後の肥立ちがよろしいようで」
――なっ! ジョージは愕然としてアレクサンドラの顔を見た。
「お黙り!」
「売女ねえ……」
今度の声は、明らかに周囲の人間に聞かせるためだった。
「わ、私が売女なわけないでしょう! あんたなんか!」
「ええ、私はチャーチ伯爵家息女にしてシーモア公爵夫人、エリン・シーモアでしてよ。いくら身内とはいえ、無礼にもほどがありますわ」
「何よ猫かぶっちゃって! いい? 皆さま、この女の母親はサンドラとかいう場末の女優で」
「お黙りなさい」
さほど大きな声ではなかったが、はっきりと人の耳に届く言い方だった。
「この無礼者を連れてきたのは一体誰ですか。私が身内のよしみで大目に見ている間にどうにかなさい」
ジョージは思わず感心した。その言い方は彼の母そっくりで、まさに人の上に立つ高貴な貴婦人の姿だったからだ。本当に、大した役者だ。
それに対して、アレクサンドラはどうだろう。周囲の目も冷め切っているのに気づいていないらしい。
「ちょっと、娼婦の娘のくせに生意気よ!
皆さま、調べればわかるわ! ジョージ、あなたも騙されているのよ!」
「気安く名前を呼ぶな」
吐き捨てるように言って、ジョージはアレクサンドラの手を放した。わざとらしく、埃を払うかのように手を叩いてから、妻の腰に手を回して見せる。
「私はエリンが妻でよかったと思っている。君などと結婚せずに済んで神に感謝したいくらいだ。分かったら去れ。二度と私の前に顔を出すな。
この侮辱に対しシーモア公爵家は、正式にチャーチ伯爵家に抗議を出す」
「そ、そんな……」
何がそんなにショックなのか、アレクサンドラはへなへなと腰を抜かした。
自分が不義の子を妊娠したせいで流れた縁を、また結びなおせると思ったのだろうか。思ったとしても、突然担ぎ出された異母姉妹を公の場で侮辱するなど、許されるはずがないではないか。
「君の家に借りがあるから、何をしてもいいとでも思ったのか? 全くひどい侮辱だ」
アレクサンドラがその調子なので、シーモア公爵夫妻がその場を去ることになった。それに合わせて周囲の人々も座り込む伯爵令嬢を置き去りに散り散りになる。ちらりと振り返ると、人だかりが解散した頃合いを見計らって付き添いの老婦人がアレクサンドラを助け起こすのが見えた。
これでアレクサンドラの評判は地に落ちた。
☆
会場の片隅に設えられているソファに腰を落ち着けると、ジョージはエリンに切り出した。
「なあ、彼女が来ることを知っていたのか?」
あの笑みは、罠にかかった獲物を嘲笑うものだったように思う。
「さあ、でも私がここに来ることは、お姉さまはご存じだったと思うわ。
何しろ、今回の主催者がシーモア公爵家と懇意なことは、社交界では常識ですからね?
まさか、あのようなことをする方だとは思いもしませんでしたわあ。ほほほ」
「怒っていたのだろう。十三か月だの、体調はどうだの……『産後の肥立ち』も聞える人には聞こえていたぞ」
「まさか、私とお姉さまは仲の良い姉妹でしたのよ?
お姉さまが体を壊されて、突然代わりになってもよいと思えるくらいに」
――めちゃくちゃ怒ってるな……。
「それに、私の目的はお姉さまではありませんの。
あれだけ大騒ぎになれば、ほら」
そういうエリンの視線の先には、一人の男がいた。
「エンリケ閣下です」
「は? それは、例の」
そうよ、と答えたエリンは、見たこともないような顔をしていた。常にどことなく人を馬鹿にしたような、状況を弄ぶような色を浮かべていた彼女が、静かな微笑みの中に真剣な何か――を湛えている。
ジョージは、ようやく腑に落ちた心地だった。何か違和感を感じていたのだ。公爵家を立て直すのが自身の解放に必要だといっても、社交界でここまで名を挙げたのはなぜだ?
「ここからが、私の復讐の時間なの」
エリンは最上級の――王族へ捧げるレベルの、淑女の礼をとった。
「エンリケ・ヴァン伯爵閣下」
☆
「アレクサンドラ・パラディンという伯爵令嬢を知っているかな」
エンリケ・ヴァン伯爵――真の名をヘンリー王子殿下。あまたの伝統貴族が没落する中で、やはり王家は別格で、というか桁違いの財産を元手に没落した貴族たちの資産を買い叩いて焼け太りしたくらいだ。
ヘンリー王子は現在四十過ぎ。白髪交じりの黒髪をきれいに撫でつけて、一糸の乱れもない。女性の噂の絶えない貴公子で、あの碧い目には魔力が宿るとまで言われていた。だが、現在に至るまで独身を貫いている。
「さあ……」
「最後のパラディン伯爵は破産して爵位を返上、小さな村で教師をして暮らしている。その息子は海軍で将校になった。カーディに駐屯している。提督だよ。
アレクサンドラは伯爵が爵位を返上した頃に失踪して、今も行方不明だ」
「そうですか。ご無事ならいいのですが」
ヴァン伯爵はぴくりと眉を上げて、面白そうに瞬いた。
ジョージには話の流れがまったく見えない。パラディン家という名にも覚えがない。伯爵家以上であれば、いくらジョージだって家名くらい頭に入っている。ジョージが知らないということは、かなり昔に没落したのだろう。
それに、アレクサンドラという名前は……。
「さて。エリン・シーモア公爵夫人」
「ヴァン伯爵閣下」
エリンは気まぐれな猫のように、とらえどころのない曖昧な笑みを浮かべた。
「私の出席する夜会で、腹違いの姉と鉢合わせし、罵らせた目的は?」
「まあ人聞きの悪い。あちらが勝手に噛みついてきただけですわ」
「餌をちらつかせてね?
さしずめ、私も君の撒いた餌に喰いついた獲物といったところかな」
「さあ、どうでしょう」
「駆け引きしなくていい。君を一目見て、喜んで愚か者になると決めたからね」
「……私の顔に見覚えが?」
「ああ、サンドラ・パターソンにそっくりだ。それに、その首飾りと耳飾り。私が彼女に送ったものだ」
今度こそ、ジョージは心からびっくりしてエリンの方を振り返ってしまった。
男が女に宝飾品を贈るというのは、特別な関係でもない限りありえない。一体、何だというのだ。
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