第2話 経済学者ショーン・スミス
果たして、例の学者先生、ショーン・スミスはのこのことホテルの一室に現れた。想像していたのよりも男ぶりがいい。一張羅なのだろう、仕立ての良い夏物の衣装を着て、茫然とエリンの前に立ち尽くしている。
「エリン・パターソン……! ほ、本物だ……! 病気だと聞いたが、大丈夫なのか?」
その目はきらきらと輝き、まるで信望する女神に出会ったかのようだ。それだけでジョージはあらかたの事情を察した。
「スミス先生、ご心配をおかけして。
突然お呼び出ししたのに、来てくださって嬉しいわ」
「いえ! エリン様のお呼びだしとあらば喜んで!!!」
エリンのファンなのだ。
道理で、エリンの化粧が濃いはずだ。舞台女優は薄暗い劇場で演じるので、総じて化粧が濃い。貴婦人とは根本的に化粧の目的が違うのだ。貴婦人のそれは、自身の美しさを際立たせたり、欠点を隠すためのものだが、舞台女優の化粧はまず第一に目鼻立ちをはっきりさせるためのもの。おそらく、女優としてのエリンの顔を見知った者は、貴婦人としてのエリンを見ても同一人物とは分からないに違いない。
身に着けているドレスも、屋敷でのシンプルイズベストな装いとは全く違う。まず第一に胸元が大きく空いており、ウエストは限界まで絞っているようだ。そして、腰のあたりでドレスは大きく膨らむものなので、メリハリのある体型が一段と際立っている。そうなるようにしている。
「し、しかしどうして私のことを?」
「あら、公演のたびに、お花をいただいていたのを忘れたことはないわ。赤いバラを最初は一本、新たに出演するたびに一本ずつ増やしてくださって、この前は十五本でしたよね?」
「覚えていてくれたなんて! 君は人気だから、僕の花など十把一絡げかと」
「そんなわけないわ。初舞台からずっと応援してくださった方を、忘れられるわけないもの」
「生きててよかった……!」
スミス博士が心臓のあたりを鷲掴みにして天に感謝している。エリンはしずしずと、彼の元へと歩み寄った。
「あのね、先生。私、先生に助けてほしいの」
はい、落ちた。
エリンがそっと手を握りしめ、上目遣いでおねだりをした瞬間、ジョージにはショーンの心が決まったのが手に取るように分かった。
エリンの手管は見事だった。これはエリン・シーモアの名で呼び出しても出来なかったことだろう。
――もしかして、エリンがその気なら私も篭絡されていたのでは?
ジョージは一瞬そう考え、彼女がそのつもりならそうなっていただろうと確信した。今日、この技を見てしまって、彼は自分が本当に箱入りの世間知らずの乳母日傘の育ちだということを思い知ったし、彼女が本当に公爵家の名や血に興味がなく、元居た場所に戻りたいというのも真実だと、心から信じることができた。
シーモア公爵が様々な思いを噛み締めている間にも、エリンは着々と話を進めていた。しかもいつの間にかソファに腰を落ち着けている。
「な、なんとそのようなことに……!
では、そこにいるのがシーモア公爵なのですね?」
「ああ。初めてお目にかかる。ジョージ・シーモアだ」
「そうなの、彼も恋人と引き裂かれてしまって……。
私たちが父から解放されるには先生のお力が必要よ。もちろん、長年父と親しくされていた先生が、そうやすやすと協力してくださるとは思ってはおりませんけれど……」
悲し気にエリンが目を伏せると、スミス博士は自分の手を握りしめて裏返った声で叫んだ。
「協力します!」
ちょろい。ちょろ過ぎる。大丈夫か、この人。もう四十は過ぎてるだろうに、色仕掛けに免疫がなさすぎる。ジョージは勝手に心配になった。
「大体にして、チャーチ伯爵はもはや親しくもなんともありません。
彼は金の亡者です。そして長年の貢献をたった一つの意見の食い違いで白紙にするだけではなく、鞭打つようなひどい人だ。あなたを助けるのに、何のためらいもありませんよ」
「まあ、嬉しい。これぞ天の助けです。先生は私の天使ですわ」
「あなたこそ私の天使です……!」
感極まっている。でも、ソファで密着して座っているのにエリンに指一本触れないのはちょっと感心した。基本的に初心な人なのだろう。これが助平爺なら肩を抱き寄せるなり手を握りしめるなりしているはずだ。
スミス博士はやっぱり自分の心臓あたりを握りしめるだけで、どっちかというとエリンから遠ざかるように体をのけぞらせている。
ジョージは、なんかちょっとこの人を好きになれそうな気がした。
「ところで、どうしてチャーチ伯爵と袂を別つことになったのです?」
無粋かなと思いつつ、素朴な疑問だったので聞いてみた。
「伯爵閣下は土地を入手して、畑を潰してでも牧草地にして羊毛を生産せよとおっしゃったのです」
ショーン・スミスは苦虫を噛み潰したような顔で言った。
経済の発展に伴い急速に力を伸ばし始めた商人を中心とする中流階級では、見栄えのする織りのある毛織物が好まれている。絹織物は平民には禁じられているので。
毛織物に必要なのは当然ながら毛だ。毛を刈るためには、羊が必要になる。羊を養うためには、牧草地が必要だ。牧草地を作るためには土地が――それも広大な土地が必要だ。
「だけど、ただでさえ食物が足りていないんです。チャーチ家を見習って皆が農地を潰し始めたら、餓死者が出ますよ。そんな策には賛成できなかった」
腐っても聖職者ですから、とスミスは言った。
「なるほど、それではもしかして、公爵家が目をつけられたのは公爵領を牧草地にしようとして?」
「でしょうねえ。ご存じないかもしれませんが、この国では土地の用途というのは国に届け出て登録する必要がありまして、貴族院議員は特例として自己裁量で用途変更をできますが、それ以外の土地の所有者は国の承認が必要なのです。つまり、農地を牧草地として使用するにはハードルがあるわけです。
近々破格の賃料で土地を貸せと言い出しますよ。それに加えて都合のいい法案の後押しでしょうね。土地を手に入れても今住んでいる農民をどうにかしなければなりませんから、土地の持ち主に都合のよいように法律を整備したがるはずです」
「なあ、一ついいか?」
経済の話となると途端に早口になった博士の話しを遮って、ジョージは尋ねた。
「我が家は土地が余っているぞ。おかげで農作物の収穫が少なく、他領から仕入れているくらいだ。
ほら、二十年前の銀の大暴落で、逆に金持ちになった農民がたくさんいて、彼らの一部は土地を離れたから、そのまま放棄された土地がそこそこある」
そう、銀の――貨幣の大暴落と食料価格の高騰で、一部の農民は富を手にした。貨幣で納税した後、残った農作物を市場で売りさばけば、それはそのまま彼らの財産となったからだ。
「……聞き捨てなりませんな。食料の生産が消費を下回っているのに放置してきたと?」
「ああ、まあ」
「で、他から買ってきていたと?」
「そりゃあ、そうしなきゃ飢えてしまうから」
眉間にしわを寄せたスミス博士を見て、エリンがここぞとばかりに微笑みを見せた。
「ねえ、スミス先生、このお話、きっと先生も気に入ってくださると思うのよ。
顧問料はあまりお出しできないけれど、三年間、公爵領の改革に取り組んでくださらないかしら」
☆
数週間後、ショーン・スミスの姿は公爵家にあった。それも王都のタウンハウスではなく、領地の屋敷の方だ。何しろ、タウンハウスには間違いなくチャーチ家の手の者が入り込んでいるので。
ジョージとエリンの現公爵夫婦は王都に残り、前公爵夫妻が領地入りして改革の手助けをしている。
便りによれば、彼は水を得た魚のようにイキイキと働いているらしい。
まず、公爵家の帳簿を総ざらいして、代官や徴税人の横領、仲買人の中抜きを見抜いた。そもそも、公爵領の規模で食料が足りなくなるのはおかしいと思っていたらしい。
「富の基本は、正しい帳簿と倹約ですからな」
と呪文のように唱えつつ、時に前公爵の放漫な領地経営に激怒しつつ、バリバリと改革を進めていると。
抜本的な管理の見直しで、穴の開いた桶のようにじゃぶじゃぶとこぼれ出ていた収入が目に見えて増えた。後には、土地の調査を進めて、放牧に使って差し支えない土地を洗い出した。時には荒れ地を開墾するようになる。
「それにしたって、見事な手練手管だったな」
ゴルゴン亭での密会の後、ジョージは心からエリンを賞賛した。濃い化粧を落としたエリンは寛いだ様子でソファに座り、何かの書類を繰っていた。
伯爵の愛人の侍女はいつの間にかいなくなり、やはり伯爵家から送り込まれたであろう、見覚えのない侍女が控えている。
「あの人はね、ママのことが好きだったの。彼が本当に救いたかったのはママ。意に反してチャーチ伯爵の愛人とならざるを得なかったママをね。父はその思いを知っていて、彼を甚振るみたいに逢引の場に彼を呼んでいたんだよね。悪趣味!」
なるほど、どんな相手であれ人の恨みは買わないことだ。非力な者でもいざとなれば思わぬことをしてみせる。チャーチ伯爵はスミスのことなど虫けらほどにしか思っていなかったに違いない。それに、とても人間性が歪んでいる。そうでなければ、自分の愛人に恋い焦がれている男を逢引の場に同席させたりするものか。普通はいたたまれないし、何より恋敵――とは認識していなかったろうが、同じ女に恋する男を近づけたりしない。
「まあ、ママが不幸なばかりの女だったかっていうと、それは疑問だけどね。
誰かに救われるような人ではなかったわ。何しろ私の母ですもの」
☆
そんなある日、ジョージは彼の恋人、ジュリア・デイヴィス子爵令嬢を伴ってエリンの部屋を訪れていた。
ジョージはエリンのことを信用しつつはあったが、幼馴染のジュリア・デイヴィス子爵令嬢から心変わりをしたというわけではない。きっとジュリアも不安だろうと、ジョージはジュリアを公爵家へ侍女として雇い入れ、エリンの側付としようと考えたのだった。
エリンはなぜか「どいつもこいつも……」と呻いていた。
「父もあなたも、秘密の恋人を私に押し付けるのはなぜ!? ちょっとどうかしてるんじゃないの?」
「気のせいではないのか? 恋人なら側に置いておきたいはず、父上の愛人というのは勘違いだと思うがな」
そう言ってジュリアに微笑みかけると、ほんのり頬を染めて見つめ返してきてくれた。侍女の地味なドレスも似合っている。
「……あのね、まあいいわ。とにかく、あれは父の愛人だったわ。抗議の手紙を伯爵夫人に送ったらすぐ引き取ってくれたもの」
「お前、恐ろしいことをするな」
「正当な抗議だわ。おかげさまで伯爵夫人はすっかり私の味方よ。
とにかく、正妻の側に愛人を置くなんて正気の沙汰じゃないわよ」
「失礼な、愛人ではない。恋人だ。我々の間には愛などないのだから、私の恋人が君の側にいたっていいではないか」
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