第1話 公爵家復興計画
初夜は無事、何ごともなく終わった。
翌朝侍女たちは夫婦の営みの形跡のないベッドに訝し気な目を向けていたが、エリンが「緊張なさったみたいね」と言うと、粛々と職務に戻った。ジョージは様々な感情をこめてエリンを見たが、すまし顔で目も合わせてくれなかった。
さて、昨晩寝入り際に、エリンは「近いうちに、伯爵家の息のかかっていない人と今後の方針を相談したい」と言った。ジョージや両親だって、これ以上の没落を食い止めよう家臣とともにと散々努力してきたのだ。二十歳の小娘に何ができるのか、と思うが仕方ない。
朝食を食べ終えてから、ジョージは両親の部屋へと向かった。白い結婚のことは伏せて、ただエリンが両親に会いたいと言っているということだけ伝えた。
「これからの公爵家の立て直しについて話し合いたいとのことです」
「そう、ではトーマスも呼ぼうか。アランもいた方がいいかな」
前公爵であるジョージの父が言うと、母も付け加えた。
「それならシェリーもいた方がいいのではないかしら?」
トーマスは家宰、アランは執事長、シェリーは侍女長だ。
「あとは、えーと、名前を何と言ったかな、金勘定をしている……」
「いえ、まずは私たちだけで話しましょう。話をするだけなら、後で彼らに相談しても遅くはないはず」
エリンは、伯爵家がこの家に目を付けたのなら、必ず情報を手にれるためにスパイを送り込んでいるはずだと言っていた。本当かは知らないが、まあ注意するに越したことはないだろう。
「そう、それではお茶の時間に、書斎で集まりましょうか」
そう母が言えば、父も異存はないようで頷いた。母は良家の出身らしくおっとりした人だが、公爵家の没落が避けようがないと分かった頃から言うべきことははっきり言うようになった。伯爵家との縁組も、親戚連中は渋っていたが、最終的に決定したのは母が賛成の意を示したからだ。
母曰く、最高ではなくても最善の手を打つべき、とのことだった。全くもって正論なので、有効な反論をできる者はいなかった。後でジョージが母にそう言ったら、殿方は見栄があるから、素朴な考えを選ぶのが難しいのよねえ、と笑っていたが。
何にせよ、結婚式の翌日、前公爵夫妻と現公爵夫妻が一同に会することとなったのだった。
☆
公爵家の書斎、といっても本がたくさんあるわけではない。ここは当主一族が本を読む場所なのであって、本自体は別のところに保管されている。家人が必要な本をここに持ってくるのだ。
なので、ここでお茶を飲んでも何ら問題はない。
ジョージが書斎に入ると、すでにエリンは到着していた。侍女を一人連れている。意外にも装飾の少ないモスグリーンのドレスに、品の良い真珠とダイヤモンドのネックレスを身に着けており、元婚約者アレクサンドラの眩いほどの服飾と同じようなものを想像していたジョージは少しばかりエリンを見直した。趣味がよい、と言っていいだろう。
「座ってくれ。両親はじき来るだろう」
壁に所狭しと飾られた絵画を眺めていたエリンは、一つ頷くとソファに腰を下ろした。
「素敵なコレクションですね。ラバリネ期の初期といったところかしら」
「ああ、そうだな。これを売り飛ばす算段でもしているのか?」
「ご冗談を。これしきのものでチャーチ家がお宅にお貸ししたお金に見合うとでも?」
思わずむっとしてジョージがエリンを睨みつけた時、前公爵夫妻が書斎に到着した。
「エリン様、ご機嫌いかが? 昨日はお疲れになったのではなくて?」
「エリザベス様、お気遣いありがとうございます。おかげ様で」
「ほほ、そんなことを聞かれても困ってしまいますわよね。
――家族水入らずでお話したいのですけど、そちらの侍女を下がらせてくださるかしら」
エリン付きの侍女は、伯爵家から付いてきた者だ。
「私は公爵夫人付の侍女です。他の方の指示は受けません」
「控えなさい。早く部屋を出るように。
エリザベス様、私の侍女が大変失礼を申しました。お詫びいたしますわ」
「しかし、私はポール様から」
「父が何を言ったのか知らないけれど、私の侍女として礼を失した態度は許しません。早く部屋を出なさい」
ポール様とは。母エリザベスと目が合って、ジョージは自分の違和感が正しいのだと理解した。
侍女は反抗的な態度を崩さなかったが、エリンが再度「出ていきなさい」と命じると、しぶしぶ書斎を出て行った。
そして、ドアが閉まったとたん、エリンは大きなため息をついた。淑女らしくもない――
「まったく、ポール様、ですって!」
書斎のドアから、向かいに座る両親へと視線を移し、エリンはにっこりとほほ笑んだ。
「愛人の娘に愛人を付けるなんて、頭がおかしいんじゃないかしら!」
「あ、愛人って君……」
ジョージによく似て、予想外の出来事に弱い父だ。思わず口に出したが、それ以上言えずに尻すぼみな声になった。
「あら。お二人はこの人から、話を聞いていらっしゃらないの?」
「ええ、話がしたい、ということしか聞いていないわ」
答えたのは母だ。
「そうですか、では、一からご説明しますね」
そう言って、エリンは歯切れのいい口調で、昨晩ジョージに話したことを再度説明した。
自分は伯爵の愛人の女優の娘であること、アレクサンドラが失踪したので代わりに嫁ぐことになったこと、生まれ育った劇団を人質に取られていること。
そして、白い結婚とその条件のこと――
「ジョージ、あなた何てことを!」
エリンの身の上を黙っていた母は、ジョージが昨晩、白い結婚を切り出したところで不快感を露わにした。
「奥様、私は」
「いいえ、皆までおっしゃらないで。結果的には利害が一致したのでしょうが、この子のやりようはあまりに思いやりがない。
他家に嫁ぐというのは、特にこのような経緯で嫁ぐというのは、女にとって敵陣に一人乗り込むようなもの。それを、唯一の守りとなるはずの夫の愛がないと初夜の床で告げるなんて、何という鬼畜の所業でしょう」
「いえ、私は誠実であろうとして」
「誠実! いいこと? 正直であることが誠実だなどと考えたなら、幼稚もいいところです。
まったく、どこで育て方を間違えたのかしら……」
ジョージは憮然とした。愛してもいない妻との契りを回避することのどこが間違っているというのだろう。恋人と妻と、両方に手を出すほうがよほど不誠実というものだろう。
「奥様、その件は、別の機会に。今はこれからのことです。
私も公爵家も伯爵家からの借金をさっさと返して解放されたいというのは一致していますよね。
そのための策を考えましょう」
言い返そうとしたジョージの機先を制して、エリンが話を遮った。
「策といっても、我々だって打てる手は打ってきたのだ」
父クリストファーは母と違って、エリンに対する不快感を隠そうともしなかった。成り上がり伯爵家の、しかも下賤の血を引く娘が心底気に入らないのだろう。同じ空間にいることすら許しがたいと思っているに違いない。
「ええ、もちろん。
私は別の視点からのご提案をもってきてるんです。
お話した通り、私の母は伯爵の古くからの愛人です。
そして、母は記録魔で――父の話したことを一言一句と言ってよいほど、日記に書き記していたのです。
私のことは信用できなくても、ポール・チャーチがいかにして莫大な財産を手に入れたか、その方法であればお知りになりたいのでは?」
☆
公爵家の没落は、他の貴族と同じく貨幣経済の伸張と、数年前の銀の暴落がきっかけだった。
かつて封土――王に封じられた領土――を持つ貴族たちは、領民から税を物納させていたが、貨幣経済の浸透によって貨幣での納税に切り替えたり、宮廷に出仕したりして貨幣での報酬を得るようになっていた。
貨幣経済の浸透の背景は様々あるが、百年以上にわたってうち続いた戦が終わり、大陸全土での商業活動が復活したことが大きい。一般的に商業で使われるのは銀貨、それも某国で鋳造されるものが信用度が高く、流通していた。
さて、戦が終わると人口が増える。人口が増えると食料の需要が高まる。そうすると、相対的に貨幣の価値が下がる。それに加えて、某国での貨幣の銀の含有度を下げるという悪鋳が発覚し、銀の価値が暴落した。
領主たちが領民に課している税の額は、この変化に対応できずに暴落前のままであったので、領主たちの財産は一気に価値を下げてしまい、土地を手放す者すら現れた。
公爵家も多分に漏れず、財産が激減した。しかし、領土のインフラの維持や公爵家としての体面を維持するための支出を劇的に減らすことはできない。
元々の蓄えが多かったので、土地を手放すことはなかったが、二十年もすれば蓄えも尽きる。破格の利息での援助を申し出たチャーチ伯爵家と、政略結婚を引き換えに取引することになったのだった。
「では、どうしてチャーチ家が没落を免れたと思われますか?」
「それは元々法服貴族で土地をさほど持っていなかったからではないのか?」
答えたのはジョージだ。エリンは首を振ると、答えを教えた。
「いいえ、宮廷から報酬をもらう、という意味では法服貴族も貨幣の価値暴落の影響を受けます。
没落しなかった理由は、まず第一に穀物価格の高騰を見越した穀物市場での買占め。次に、それで得た財産での銀山開発への投資」
「なるほど、それでは我々も投資で財産を増やせばよいのだな。噂によるとたった一晩で財産を何十倍にもした者がいるという」
次に口を開いたのは前公爵だ。
「いいえ、それはなりません」
「なぜだ? 地道に稼いでいては三年で借金を返すのなど無理な話だ」
「投資はリスクが大きすぎます。当てれば大きいですが、外せば投資した金額の何倍ものお金が吸い取られる、非常にハイリスクなものもあるのです。
ま、さ、か、手を出してはいないですね? 出しているとしたら、たとえいくら損が出ていても、即、手を引いてください。
他の投資についても同様です。市場で財産を増やすには、知識はもとより引き際をわきまえていることが重要ですが、貴族の方々はそれが下手だと聞いています」
エリンは母の日記で得た知識を惜しみなく披露する。
「……」
「チャーチ家は元々財務官僚の家系ですから、市場や金融の知識が豊富だったのです。
それにこれは二十年ほど前の話です。その後もチャーチ家が資産を増やし続けたのは、投資ではありません。
――情報って寂しがりだって聞いたことありません?」
「情報が寂しがり?」
「ええ、情報があるところに、同じような情報が集まるらしいのです。
で、父のところには、鉱物の情報が沢山集まったのですね。いわゆるドワーフ系の情報が。
そしてチャーチ家は、豊かな鉱山資源を背景に宝飾品の大量生産をするようになりました。
現在のチャーチ家の収入源は所有する鉱山からの貴金属、それを原料とする宝飾品の販売が主たるものです。
それに加え、いわゆる『山カン』のある父は市場で投資を重ねて資産を増やしているようですね」
チャーチ伯爵家は現当主であるエリンの父の天才的な勘で投機に成功したことが注目されがちだが、堅実な財産の形成と運営がその基盤になっていることを理解している人は少ない。
エリンは持っていた扇をパチンと閉じた。異国風に白木の香木を削りだして装飾したその扇の飾り房にも、さりげなく金糸とダイヤモンドがあしらわれていた。
「と、私が語れるのはチャーチ家が過去為してきたことだけ。
これからの公爵家に必要なことは何か? はやはり専門家の知恵を借りるべきかと思います。
私がいくら一流の役者で知恵が回るといっても、公爵家ほどの規模の経済を三年で改善できるほどの力量がないことは、自分でもよくわかってます。ここは素直にプロに教えを乞うべきです」
「貧乏学者に金のことがわかるのか?」
前公爵が疑わし気な目でエリンを睨む。
「少なくとも、私の知る学者先生は貧乏ではありません」
「あら、学者といえば陰気な顔でフランテ派の聖職者みたいな服しか着ていない者ばかりだと……」
エリザベスの言うフランテ派というのは、清貧を宗とする宗派のことで、目の粗い麻作ったローブに帯替わりの縄を結んでいる者達のことだ。
「チャーチ家の顧問ともなれば、報酬はたっぷり支払いますから」
「なるほど……いや、チャーチ家の顧問など駄目だろう」
クリストファーの言うことは尤もだ。エリンも軽く頷いた。
「ええ、もちろん。父はこの公爵家を乗っ取りたいわけですから、学者様もパトロンを裏切るようなことはしないでしょうね。
私がご紹介したいのは、父の元顧問で現在のチャーチ家の富の礎を築いた方です」
「それだってチャーチ家の一味ではないか」
「いいえ、父と袂を別った人です。
私、ここに来ることが決まった後、下町の仲間たちに相談して出来る限りの情報を集めたんです。
やられっぱなしのつもりは毛頭なかったんで」
下町の庶民の絆は強い。そして熱い。エリンの身に降りかかった不運を知ると、幼馴染たちを中心として瞬く間に情報網が広がったという。
そこで母親の日記に記されていた顧問の学者のことも調べた。すると、羽振りのよかったチャーチ家御用達の学者がクビになったらしい、という情報がもたらされたのだった。どうやらかなり手ひどく叩きだされたらしく、大学にも手を回して職を奪いすらしたらしい。
「なるほど――話を聞いてみるくらいの価値はあるか」
エリンの言うことが真実なら、知恵を借りるくらいのことはしてもよいだろう。ジョージが同意を示すと、クリストファーも仕方がないという顔になった。
「ええ、きっと気が合うと思いますよ」
そう言うと、エリンは書斎の机に備え付けてあったペンと便箋を手に取った。さらさらと学者の名前と住所を書きつけていく。
「こちらにエリン・パターソンの名で遣いを。外で会った方がよいでしょう。ゴルゴン亭の一番いい部屋を取ってください。。支払いはエリン・シーモアへ」
他の三人が怪訝な顔になったのが分かったのだろう。エリンはつんと顎を上げて、少し体をひねってみせた。装飾の少ないドレスのせいで、見事な曲線が露わになる。
そして、その表情はそれまでとは全くの別人と言ってよいくらいに、男ならふるいつきたくなるほどに傲岸で、煽情的で――
「エリン・パターソンは王都一の劇団の注目株なの。
宿屋の部屋に呼ばれて来ない男なんていないわ」
そんなにうまくいくものかな、とジョージは思ったが、エリンは自信満々だった。
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