【12月15日書籍発売】公爵夫人の秘密の日記――白い結婚を申し入れたら、渡りに船と言われました。

横浜 山笑(旧山笑)

本編

プロローグ

 由緒ある公爵家の当主であるジョージ・シーモアは、初夜の床にいた。新妻は裕福な伯爵家の次女でエリン・チャーチという。二人とも肌触りのよい白い夜着を身に着けて、大人が四人は優に横になれそうな悪趣味なほど巨大なベッドに腰かけている。


 ジョージ・シーモアは緊張していた。なんでかって、それは、これからこの少女に過酷な現実を告げなければならないからだ。


「エリン、落ち着いて聞いてくれ。

 私には他に愛する人がいる。君を真実の妻にはできない。申し訳ないが、君とは白い結婚となる」


 彼と彼女の結婚は、良家の血筋を求めた彼女の家が、没落一歩手前の彼の家に、資金援助と引き換えに申し入れたものだった。それも、元々は彼女の姉との縁談だったのが、直前になって急病だとかで交代になったのだ。馬鹿にした話である。


 ジョージには元々愛し合う恋人がいた。だが、彼女は平民とさして変わりない子爵家の娘で、とてもではないが飛ぶ鳥落とす勢いのチャーチ家と張り合えるような家柄ではなかった。とはいえ、彼女が割り込まなければ、手順を踏んで結婚できるはずだったのだ。


「もちろん、君が与えてくれる資金に見合った待遇は約束しよう。好きなだけドレスでも宝石でも買えばいい。どうせ君の金だし。だが、私の愛と子が与えられることだけは、期待するな」


 この少女も、多少、傷つけばいいのだ――


「あら、そう。それは渡りに船だわ」


「は?」


「私も好きでもない男と寝るのは嫌だったのよね。白い結婚、大変結構じゃない! 私ってついてる!」


「はあ?」


 ジョージの予想に反し、エリン・チャーチは目を輝かせて手を差し出した。


「この手は何だ?」


「あら、公爵様は握手ってしないの?」


「あ、握手……?」


「じゃあいいわ。

 でね、私からも条件を出していいかしら? 一方的に形ばかりの妻をやらせるつもりじゃないわよね」


「だから、好きなだけ買えば」


「チャーチ家のお金でね?」


「うっ」


 鋭い一言を放って、エリンはにこりと微笑んだ。可憐な笑みのはずなのに、何故だろうか、ジョージは猛禽類に見定められた鼠のような心地がする。


「貴族の結婚って三年子供ができなければ離婚できるのよね? なら、白い結婚とやらに付き合うのは三年までで。

 三年間、シーモア公爵家の復興に全力を尽くすわ。その間に我が家の援助がなくても済む程度になってよね」


「いや、ちょっと待て。君は我が家の経済状態を理解していない。チャーチ家の援助なしでは無理だ。即破産だ。その条件は飲めない」


「なっさけないわね。

 ……それじゃあ何? あなたはもしかして、私に一生、公爵家のお飾り夫人になれと言っているの? 大体跡継ぎはどうするのよ。もしかして愛する人とやらとの子を私の子として育てさせようとか?」


「いや、育てなくてもいい」


「は?」


 エリンは豊かな黒髪に神秘的な碧眼、ぽってりした紅い唇という年齢の割に妖艶な美少女だが、いま彼女が浮かべている表情は、とても「美少女」という感じではない。物凄く鋭い目で睨んでいる。


「確かに子は彼女との間に作るが、君は育てなくてもいい」


「そこはどうでもいい。あなたの勝手のために、私の一生を消費しようとしているのかって言ってる。

『その条件は飲めない』じゃないわよ。私には私の人生があるの。三年。それ以上は嫌よ。

 ――大体、条件を出せる立場だと思う? あなたの言ったことを私が父に言いつけたら、それこそ即破産よ?」


 エリンの口はよく回る。おかしい。結婚式の間はおっとりした上品な貴族令嬢だと思ったのに、立て板に水としゃべる有様は全くの別人のようだ。ジョージはすっかり気圧された。


「うっ」


「いい? あなたの望みが叶うのは、私があなたに同意した時のみ。

 そしてあなたの望みは、普通の女が夫に言われたら張り倒して素っ裸で王都の城門に吊り下げるような、とんでもないもの。ていうか、そもそもそんなことわざわざ言う神経がわからないけど――

 とにかく、あなたは私と寝たくない、私もあなたと寝たくない。これは双方望みが一致してるわけ。

 で、あなたは私に一生公爵夫人でいてほしい、私はそんなのごめんだって言ってる。

 はい、ここで条件が折り合わなくなったわね?

 ところで、あなたは私に条件を突き付けられる立場だったかしら?」


「……」


「利害が一致したわね?」


「……」


「ね?」


「ああ……」


 ジョージ・シーモアは力なく頷いた。

 エリン・チャーチは、眩いほどの笑みを浮かべた。


「それじゃあ、私側の事情も話しておくわね」



 エリン・チャーチは飛ぶ鳥落とす勢いの大富豪、チャーチ家のご令嬢である。ただ、ついこの前まで、彼女の存在は社交界に知られていなかった。

 ジョージ・シーモア公爵の婚約者であった姉がで婚約を解消した時、突如として現れたのである。チャーチ伯爵曰く「病弱な娘だったので、誰にも知らせず屋敷で育てていた」そうだ。


 まあ、真っ赤な嘘だが。

 エリン・チャーチは伯爵家の屋敷で育てられてなどいない。

 エリンは伯爵の愛人の子で、愛人の手元で育てられた。エリンの母は王都一の劇団の女優で、エリンは王都の片隅で劇団員たちに囲まれて育った。ちゃきちゃきの下町っ子である。

 だが、ほんの一月前、久々に現れた父が唐突に「お前をチャーチ家の次女として引き取る」とのたまったのだ。


「もう本当に最悪! ようやく女優として売れ始めたところだったのに、何もかも台無しよ」


「それは災難だったね」


 ジョージはベッドに正座しながら神妙に頷いた。


「でしょ? もちろん断ったわよ。だってあの人、たまに会いに来るだけで、父親らしいことなんて気まぐれにお金をくれただけよ。ずーっとほったらかしっぱなしで、ママと劇団のみんなが私を育ててくれたのに。

 だけど、だから、あいつが言うことを聞かなければ劇団を潰すって言われたら、断ることなんてできないでしょ」


「なんと卑怯な」


「というわけで、あなたは私の敵の敵ってわけ」


 エリンはベッドの上に胡坐をかいている。真っ白なふくらはぎが露わになっているのを見て、ジョージはそっと目を逸らした。


「私が父から解放されるためには必要な条件がいくつか――

 一つ、あなたと離婚すること。

 二つ、そのためには公爵家が伯爵家からの援助を必要としなくなり、伯爵家へ離婚を申し入れられるようになっていること。

 三つ、劇団への圧力をどうにかしないとだけど、そこは私の方で何とかするわ。

 あなたはとにかく離婚してくれたらそれでいい」


 ジョージはへにゃりと眉を下げた。


「しかし、うちは本当にお金がなくて、約束はできないよ」


「やってみないとわからないじゃない」


「ずっと頑張ってきたさ! その結果がチャーチ家からの借金なんだ。他のろくでもない所から借りるよりよっぽどましだろう?」


「父は、益のないところへ投資なんてしない。恩を売って何某かの利益があるのよ。貴方の家には必ず金脈があるはず」


「それは、我が家の高貴な血が欲しかったからだろう」


 ジョージはおもわず侮蔑を込めた目でエリンを見てしまった。


「公爵家の血?」


 すると、エリンはもっと馬鹿にしたように鼻で笑った。


「そんなもののために二人しかいない娘を送り込むはずがない。こんなに慌てて」


「そんなものって……」


「だって私が公爵夫人になっても、私が次期公爵を産んでも、伯爵家の血が公爵家に入るだけでしょ。公爵家の血が欲しいなら、嫁にもらうはずよ。

 私が思うに、外戚として公爵家を牛耳って、利益を得るのが目的だと思うのよ。

 例えば貴族院議員の力、とか」


 貴族院は封土に封じられてから五代以上の家か、特別に貴族院に認められた場合のみ議員になれる。チャーチ家は元々商人からなり上がった法服貴族で、封土を得たのは現伯爵の父の代。

 貴族院議員は免税や特赦など様々な特権があるので、どうにか働きかけてチャーチ伯爵を貴族院議員に、というのは考えられる。


「あるいは公爵家の封土。桁外れに大きいもの。何かしらの利用価値を見出していてもおかしくはないわ」


 公爵家は今でこそ金欠だが、元は豊かな封土を持つ大貴族だ。それも納税や商取引が貨幣でのやり取りになってからは、出ていくばかりで立ちいかなくなっているが。


「だから、かすめ取られる前に取り返すのよ。一緒にね」


 そう言って微笑んだエリンの表情は、可憐というより小悪魔じみていた。


「君は本当に十七なのか? それも女優なんて仕事をしていたような……」


「あら、いやだ」


 傷一つない白い指を頬に当てて、エリンは心底おかしそうに言った。


「私、二十歳よ。そう、あなたの元婚約者の姉ってことになるわ。父も結婚前に愛人に子を産ませてたなんて奥さんに言えなかったんでしょうねえ」


「二十歳……」


「それに、女優なんてって言い方には抗議させてもらうわ。

 我が劇団のパトロンは社交界の一流どころばかりだし、私の演技力も超一流なんだから」

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