第64話 ハプニングはつきもの
「え?もうちょっといてくださいよ…」
「そうだよお兄ちゃん。もうちょっといよう」
俺のことを忘れて、仲良く話していた二人は帰ろうとすることを拒んだ。
奏を置いて帰るのもどうかと思うので、立ち上がった体をそのままストンと落とす。
「先輩って家だとどんな感じなの?」
「そうですね、私に求婚してきますよ」
「おい」
そんなことしてないぞ。冗談のバリエーションが底なし沼のように深くまであるみたいだな。
「てへっ」
可愛いな俺の妹。
兄妹なのにあんまり顔が似てないのが幸である瞬間だった。
「でも、こんな可愛い妹がいたら求婚しちゃう先輩の気持ちもわかります」
「可愛い妹なのはわかるが、求婚はしてないからな」
もしそうなら、ハプスブルク家もビックリだろうな。まあウチは名家でもなんでもないが。
「あ、あとはお兄ちゃんが珍しくお酒飲んだ日には、私にウザいくらい絡んできますよ」
「え、どんな感じ?」
「こんな感じで、無駄に近づいてきますし私の部屋で寝ようとします」
「なんで言うんだよ、あと再現しなくていいから」
記憶がなくなるようなことはないので、酔ったときの自分の行動は覚えている。
そして、それを見事に再現している奏を褒めてやりたいと同時に、行動を防いでやりたいと思った。
「えー先輩そんな感じになるんですね…ウケる」
楽しそうに二人が話してるわけだし、多少弄られようと気にならない。
気にならないけど、そこまで笑うほどかと言わんばかりに口元を抑えて体を震わせていた。
そんな碧さんに反応したのは俺でも奏でもなく、壁だった。
ドンという、衝撃音。もちろん、壁がひとりでに音を出したら怖いが、そういうわけではない。いわゆる壁ドン。全く胸がときめかない壁ドンだ。
「…私まだお酒飲めないので分からないですけど、酔ったらどうなるんでしょうね」
それを受けて、深呼吸して声量を控えめに碧さんが再度話し出す。
「いきなり人前で飲むことはやめておくといいよ。特に男の前とか」
「あ、お持ち帰りってやつですね。先輩はそういう経験ありますか?」
「俺にそんな度胸はないぞ」
そもそも大人数での飲みの場を訪れた機会が無い。川上に誘われて二人で飲むくらいだからなぁ。
「先輩はそうですよね。そうじゃなかったら、いくら奏ちゃんがいても家になんて入れませんからね」
「別に入れてくれとは言ってないんだけどな」
だが、家に入れてもいいと思ってくれるくらいには、仲良くなっているのかと思うと、自然と声のトーンもあがる。
「碧さん、この漫画読んでいいですか?」
「うんいいよ〜」
奏はこの場を漫画喫茶かなんかと思ってるのか。本棚にあった漫画に気が向いたのか、一声かけてから読み出していた。
「そういえば、今なにか欲しいものとかないですか?」
「あぁ誕生日プレゼントのこと?…何を貰っても嬉しいから気にしなくていいんだけど」
「先輩って特にこれがほしい、っていうものがあるタイプじゃないですよね」
「あぁ…そういえば眼鏡買おうかなとは思ってた」
少し見えにくくなってきた眼鏡のことを思い出した。最後に買ったのが4年前とかだったような。
「先輩目悪いんですっけ?」
「結構悪いよ。普段はコンタクトつけてるけど」
普段はコンタクト…もしくは裸眼の姿しか見せてないから知らないのも当然か。
そういえば、このことを伝えたのは碧さんが初めてか。
「じゃあ眼鏡に決定です。今度買いに行きましょう。予定空けておいてくださいね」
「わかった」
フレームだけ選んでプレゼントしてくれてもいいのに、と野暮なことは言わないでおこう。嬉しそうにスケジュール帳を確認して、日を尋ねる碧さんを見たら言えるはずもないのだが。
そして、今まで見慣れた姿ではない、黒髪で化粧も薄い碧さん。彼女は、後輩であり友人のはずなのに、隣に座られ肩と肩が触れてドキッとしてしまった。
「碧さん、これって?」
ドキッとしたのもつかの間で、奏が尋ねるように何かを見せていた。俺も気になり振り返ったのだが、碧さんが俺の目の前に立ったので見えなかった。
「…あいつかぁ…ごめんね奏ちゃん?気にしないで」
「え、ところでこれって指サッ…」
「違…あ、うんそうそう。ところでどこにあったの?」
「本に挟んでありました」
「そっか。ありがとう」
そう言うとスマホを手に取り誰かにメッセージを送っていた。
友人の忘れ物かなにかだろうか。
「誰かの忘れ物?」
「そうですね、そんな感じです」
「顔赤いけど…そんなに腹を立てるようなものだった?」
「え?まぁ…そうかもです」
それが結局何だったのか分からずじまいで帰ることになるのか、そう思っていたときだった。
「碧さん…!こ、これは…」
いまだ満喫していた奏が、新たにとった漫画を開いた途端だった。
驚いたように震えながら声を発した。
「えっ?あ!それも私のじゃないの…あいつが勝手に置いていったの」
流石に今回は俺にもどんなものだったのか見えた。端的に言うと女性向け漫画、ただし年齢制限ありのものだった。
というか、奏は18歳未満だからこれを見てはいけないのだ。兄として、妹の規制には厳しくあろうと碧さんよりも早く、奏の手から本を奪い取って閉じた。
「…先輩、私のものじゃないですからね」
「…うん」
「でも、なかなか読み込まれてる感じでしたよ。他の漫画と比べて一番開きやすかったですし…」
「奏ちゃん?!」
「…碧さんのものじゃないということは分かってるから。まぁ読むくらいはいいんじゃない?」
「先輩全然分かってない!誤解ですから!友だちが私に無理矢理読ませるんですよ〜」
上目遣いで縋るように話されると心臓に悪い。
「気にしないでいいんですよ。お兄ちゃんもエロ本の数十冊くらい持ってますから」
「いや持ってないから」
軽はずみな発言はよくないと今日学んだはずだろうに、奏は相変わらずだった。
しかも俺に流れ弾が飛んでくるのかと。
「ごめん、エッチなビデオのほうだったね」
「そっちも持ってないから」
「え、もってないんですか?」
きょとんとした顔の碧さんが尋ねる。
「なんで碧さんが驚いてるの?」
「てっきりもってるものかと思ってました…ほら、先輩も一応男性ですし?」
「男が皆持ってるとは限らないから。というか、俺へのセクハラになってないか」
「私もたった今辱めを受けたので、先輩も我慢してください」
「はいはい」
「それでいいんです」
満足気に頷いて気が緩んだのか、先程奏から受け取った何かがぽろりと碧さんの手からすり抜けた。
「…私が買ったんじゃないです。友だちから強制的に渡されたんです」
「運び屋が捕まったときのセリフみたいだね」
実際にその光景を見たことは無いので知らないが、それを彷彿とさせるようなリアクションだ。
「私は被害者なんです。冤罪です」
容疑者は皆そういうんだよな。
「…まぁ別にいいと思うよ。安全に配慮していて」
「誤解です〜!」
ドンと本日二度目の壁ドン。
二度だからか、壁ドンドンだった。
「少し悪ふざけが過ぎたかな」
「本当ですよ…もぅ…。先輩の私に対するイメージが最悪ですよ〜…」
そう言って、しょんぼりと落ち込む碧さんに悪い気がしたので、素直に謝る。
「ごめん」
「…まぁ別にいいですけど。ところで、先輩は、その…恋人いないですよね…?」
「お兄ちゃんに恋人は、いませんよ」
「そうだけど、なんで俺より早く答えたのかな」
クイズの早押しじゃないんだから、そんな生き急いで回答しなくていいんだが。そして恋人は、と強調した理由が分からない。他に何かいるのか?
「…じゃあ、これいらないですよね」
「そうだな」
後輩女子からブツを受け取るという、ある種のプレイみたいだが、俺はそこまでニッチではなかったようで自分に安心した。
そういえば高校生の時、ブツをなぜか財布にお守り代わりに入れてるやつがいたが、蛇の抜け殻かなんかと勘違いしてたのだろうか。そして、その彼は今どうしているだろうか。
「…奏ちゃんいる?」
「おい、奏になんてもの渡そうとしてくれてるの?」
「冗談ですよ。…じゃあ、ぽいっ」
直ぐにゴミ箱に捨てた。
実は意外とお金かかるんだよなアレ。コンビニで買うお客さんもいるので、必然的にレジを打つ機会もあるのだが、高いものになれば、1000円するものあるのだ。
勿体ないと思ってしまったのは、俺が貧乏性だからなのか、それともコンビニ店員だからなのか。
「私にはまだ必要ないですからね。…あ、先輩にもまだ必要ないですよね?」
「…少し失礼だけど、そうだな」
そう言って恐らく純情な俺たちは笑いあった。
「さっきさ、お兄ちゃんと碧さん何の話してたの?」
「奏もいずれ分かるよ」
「ふーん…」
碧さんのアパートを出たのは結局太陽が完全に沈みきった時間だった。
途中、危険な話にもなったが、碧さんだったから笑い話にできたのかもしれない。
そういう点では、仲良く話せる女友達として碧さんがいてくれてよかった。
「あ、たまには手でも繋ぐ?」
「子どもか?」
「15歳はまだ子どもだからね〜」
そして、俺にとって、今日一緒にいた彼女たちがいない日常は、もう考えられなくなった。
俺は、皆の事が自分でも思った以上に大切な存在だということに気づけたのだ。
「夏だけど夜はちょっと冷えるよね」
「たしかに」
何度か話したような話題を、奏と話しながら数十分の夜道。
帰ったら、夜食に碧さんから貰ったラーメンでも食べようかと提案してみる。
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