第81話 お笑いぐさのくさ


「御免なさいね。迷惑はかけないから一寸ちょっとだけじっとしてて。フランソワ、危害を加えては駄目よ。食べ物は略奪うばって良し」

「アイ」

 牧場小屋に侵入して、住人を縛り上げた。

「ちょっと食べ物と水が欲しいだけだから御免なさいね。あと薬箱貸してもらえる? ノリコ、行こう」

 昨日、殴られたり蹴られたりした所が酷く痛んだ。出立前には大まかなチェックしかできなかった。

「時間が経って痛くなる事もあるからね」

 ビッツィーが肩を貸してくれた。

 鏡で良く確認すると、歯が一本欠けていた。

「大丈夫?」

「うん。だいじょう――」

 別に何て事はない。そう感じている一方で、急に昨夜の感情がよみがえって来た。恐怖と怒りと後は言葉に出来ない。本当に唐突な反応だった。

 気づくと涙がこぼれていた。多分、よみがえったのは昨日の記憶だけではない。ずっと眠っていた感情。この世界に来る前の事だ。

 フランソワが心配そうに覗きこんでいる。ビッツィーも黙って私を見ていた。

「私、男に襲われて死んだ」

 私はそう云ったのだが、嗚咽のため言葉になったかどうか。

「あの時、突然男が飛び出して来て、視界が揺れて、重くて、割れて、トロイメライが聞こえて。私は『早く終わって一人にしてくれるなら、もう何でもいい』と思った」

 この事件の事を告白したのは、これが初めてだった。隠していた、と云うよりは克服したつもりでいた。

 けれど、一度打ち明けると、感情はせきを切ったようにあふれた。それは呼吸が出来ないほど激しかった。

 記憶にある限り、声を上げて泣いたのは、この時が初めてだった。

 泣きながら小屋中を這い回って、泣きながら外に出て、それでも長い間、声を放って泣いていた。小屋の住人達は呆気にとられた事だろう。ビッツィーたちも目を丸くしていた。のび太くんだって驚くぐらい、私は大声で泣いた。

「悔しい。私、あのとき怒れなかった。悔しいとすら思えなかった。私が怒っていた事、誰にも知られないまま、死んだ。悔しい」

 話し終えると、ぐったりして座りこんでしまった。

 フランソワが体当たりで抱きついてきた。

 そして彼女は耳元で、

「お笑いぐさのくさですわ」

 と云ってのけたのだった。さすが悪徳のお嬢様、フランソワ。

「ええ……酷……」

 予想外の一撃に、私は吹き出してしまった。

「さすがフランソワだわ」

 ビッツィーも笑いだした。

「くそよわ。そんなもの」

 フランソワは独自の語彙で追い撃ちしてくる。そして、タックルの状態から動かないと思ったら、今度は彼女の方が泣いているのだった。

「フランソワ……」

 滅多にない事だ。この悪徳令嬢が泣いてくれるのなら、話した甲斐もあると云うものだ。今は、これで満足しておこう。私達にはまだ戦いが残っているのだから。

 足は此方こちらの方が速い、と云う私達の予想に反して、追っ手は側まで迫っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る