第74話 土と酒と口紅みたいなもの


 『片目の男』が喜びの声を上げている。

「全員点検。無事な銃を持ってこい。俺がとどめをさす。目ん玉に当たるまで撃ち続けるからな」

「だから暴発しますって」

「どうだビッ=ツィー。命乞いするなら聞いてやらんでも無いぞ。聞くだけはな」

 ビッツィーは泥の中で『猫』との取っ組み合いを続けている。

 体力で『猫』が上回っていた。のし掛かられたまま如何どうにか致命傷を避けている状態だった。

「撃ってみたら? 片目じゃ無理か。そのダサいファッションやめたら当たるんじゃねえの?」

「必死の形相で云われても何にも感じねえなあ。むしろやる気がみなぎって来るぜ」

 ビッツィーの挑発にも『片目の男』は余裕の態度で返した。勝利を確信しているのだ。

「よぉおおし。いいぞ。いいぞ。抵抗しろよ。犯罪者らしく惨めに足掻くんだ。それでも俺が味わった痛みと屈辱の十分の一にも足りないがな」

 フランソワが屋根の上で吠えた。

「何だあれ?」

「カルベリィの娘です」

「ああ。あれか」

 『片目の男は』ようやくフランソワに気づいたようである。

「フランソワ、フランソワじっとしているんだ」

 ドイルさんは声をかけ続けている。他に何も出来ない様子だった。私も同じだ。物陰に隠れたままでいるしかない。

 フランソワは屋根の上から『猫』を威嚇している。今にもビッツィーを助けに飛びおりて行きそうな気配だった。

 しかし飛び出した所で何の力もなれないのだ。フランソワも、私も。自分自身すら守れない。

 何時いつだったか、ビッツィーは云った。「人はなかなか変われないものよ」と。フランソワもやはり「変われない」と云って泣いた。

 ならば、私も変われないのだろう。ビッツィーの助けになると云って飛び出したのに、この有様だ。

 私は足手纏いのまま此処ここでビッツィーとお別れする事になる。

「ビッツィー……」

 倒れた『猫』のうち一体が、起き上がって戦線に復帰しようとしている。警官達は武器の点検をして、使える銃を仕分けしだした。

 『片目の男』が笑っている。

 もう何をした所でひっくり返せるはずはない。

「なのに、なんで私、向かって行ってるんだろう」

 気づくと私は泥の中から立ち上がっていた。

 馬小屋で見つけたピッチフォークを両手で構えて。


 皆、私の事など念頭に無かったのだろう。

 それに、私があんまり無防備に近づいたからかも知れない。警官達はあっけにとられて私を見返した。

 私の方は、何の勝算もなかった。ただ一つの事だけをお守りのように繰り返し考えていた。

「警官に何かあれば『猫』は引き返してくる」

 私は三つ叉の農具を握ったまま、『猫笛の警官』に体当たりした。

 警官の防具に、呆気あっけなくね返された。フォークは取り落としてしまったが、目的の物は手に入れていた。

 『猫笛』である。

 私はその笛を思いっきり吹いた。演奏法など知らないが、驚かせるのが目的だった。

 屋根の上でフランソワが耳を押さえる。

 ビッツィーに覆い被さっていた『猫』が驚いて飛び上がる。

 『猫』が離れるのを確認した直後、私の視界が斜めになった。どうやら地面へ叩き付けられたらしい。

「なんだぁ?」

 『片目の男』の困惑したような声。水の向こうからして来るような声。頭の中で反響している。彼が殴ったのだろう。

 次に、彼は脇腹を蹴って私を仰向けにした。

「お前はえっと……誰だっけ」

 そう云った。部下が応える。

「ビッ=ツィーの共犯の女です、ダルト=テルトさん」

「あそう。殺して駄目なヤツ?」

「抵抗していないならダメです。ダルト=テルトさん」

「じゃあ、抵抗するまで蹴るわ。そしたらあれだ。あれしといて」

「あれってなんですかダルト=テルトさん」

「はい一回」

 爪先がお腹へ食い込む。

 私は、これだけは奪われないようにと、猫笛を抱えこんだ。

「いや、笛は返せよ。これは抵抗か? 抵抗だよな? おい」

 頭を蹴られ、一瞬意識が飛ぶ。

「おい抵抗だよな、抵抗だろ。違うか。じゃあしろよ抵抗」

 立て続けに脳が揺れる。頭蓋ずがいが軋み音を立てている。

 何時か《いつ》と同じ感覚。

 何処か《どこ》かからトロイメライが聞こえる。

「待って下さい」

 割って入った声は、多分ドイルさんだ。

「この者はもう抵抗できません。それに女性ですよ」

 私はぼんやりと思った。この人が助けてくれるのだろうか。助かりたいな。でも、それで良いのだろうか。

 嫌だった。

 でもどうして、と自分に問いかける。

 フランソワが何か叫んでいる。視界の隅にビッツィーの姿が見えた。仰向けに倒れている。血が出ている。ビッツィーの血が流れている。フランソワが涙を流している。

 その瞬間、私は自分を悟った。

「『如何どうして向かって行ってるのか』? 怒ってるからだ」

 私は目の前の足に噛みついた。

「いって。痛え! 馬鹿かァ」

 『片目の男』が悲鳴を上げる。足を振って私を突き放した。

 地面を転がった。頭のスカーフが外れたらしい。ミルクのような肌触りをした何かが、頬を伝ってこぼれ落ちた。

 血ではない。髪だった。旅の間に伸びた髪が、地面にわだかまっている。マジョーラの髪が不思議に輝いていた。

 凍っていた血が、力強く流れ始めるような感覚。確かに其所そこに力を感じた。あの紋様の力だ。

 髪の中からキラキラ輝く物が転がり落ちて、泥へ刺さった。

 口紅。ではない。

 それは銃弾だった。

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