第73話 猫


 近づいてきた警官を、ビッツィーはむしの風で吹き飛ばした。蟲避むしよけの護符はもうない。しかしその警官は食われる事なく、起き上がって来る。ビッツィーの力が弱まっているからだ

 蟲嵐むしあらしの戦果で、警官達の包囲網は崩壊状態にあった。

 其処此処そこここに警官が転がって、失神あるいは、れに近い状況にある。動ける者も醸造酒の沼と化した地面に足を取られた。また空気中を漂うアルコール成分が彼らの行動力を低下させている。明らかに酩酊めいていしている者もいた。


 私は泥の中に隠れて機会をうかがっていた。ビッツィーを助けに入りたいが、直ぐ側には『片目の男』が居て、更に指揮官である彼の側は、武装警官達が守りを固めていた。彼らはまだ無傷で、しかもライフルを所持している。

「おい何やってる。撃つんだよ。全員で発砲しろ」

 『片目の男』の男は文字通りビッツィーを目の敵にしている。部下をけしかけて、ビッツィーを討とうとする。

「早くしろ、もう同士討ちになるような状況でもねえだろ」

「はい――」

「撃つな。蟲のせいで銃身が朽ちかけてる」

 従おうする部下を、別の警官が制止した。醸造酒じょうぞうしゅの雨と共に入りこんだむしが、銃器に良くない影響を与えているらしい。

 しかし片目の男は諦めなかった。

「勝手に命令してんじゃねえぞ。指揮官は俺だ」

「暴発の恐れがあるんです」

「いいから撃て阿呆」

「ならアンタが撃てばいいだろ」

 そう云われると男は弱気を起こした様だった。

「俺は……こんな眼だからよ。意地悪云うなよ……」

「いったん陣形を立て直しましょう。焦らなくても相手は疲労しています」

「だが……」

「もう護符はないんですよ。ドイルさんを危険にさらす気ですか。有力者のなかには『カルベリィ』のファンも多いんですよ」

 これで片目の男は折れたらしかった。

「だから連れて来たくなかったんだ畜生。だがあの女に回復の機会を与える事になっちまうじゃねえか、またあの嵐をられたらどうする。お前の責任だからな」

 こう云われて、側近の男は答えた。

「待機させていた『猫』に時間を稼がせます」

「ネコ」


 片目の男の口調が明るくなった。

「そうだ『猫』がいたじゃねえか。早く使え馬鹿。お前。お前がやるんだよ」

 そう云って『片目』はライフルで部下を殴った。

「『猫』は煙幕を嫌がるもんでね」

 叩かれた警官は、云い返しながらも、笛のようの物を取り出して吹いた。

 私には何も聞こえなかったが、屋上のフランソワだけが耳を押さえた。

 同時に、森がざわめいた。何かが飛び出して来る。

 黒豹に似た生物だった。訓練されているのだろう。この状況でも落ち着いていた。ブルブルと体を振って、毛並みについたアルコールを吹き飛ばしている。

 牛とまではいかない。しかし大型犬よりは体格が良い。

 そんな肉食獣が、アルコールの泥濘ぬかるみに沈む事なくアメンボの様に駆けてくる。

 ぜんぶで四、いや五匹もいた。

「よおし。行け行け」

 『片耳の男』が指示を飛ばす。

 『猫』は其『そ』の声には微動だにせず、側近が音もなく笛を吹くと一斉に身構えた。

 そして、左右にフェイントをかけながらビッツィーへ迫った。


 ビッツィーはむしの群れで迎え討つ。

 先頭の『猫』を横薙ぎの蟲嵐が襲った。

 『猫』は吹き飛ばされながらも、空中で体を捻って着地した。ビロードの様な毛並みは頑丈らしく、蟲の被害を受けていない。

 ビッツィーの方は、自分の動作のために体勢を崩していた。

 残った『猫』の四匹が、手足と首めがけて飛びかかる。

「噛みつけ」

 叫んだのはビッツィー本人だった。

 言葉の意味を了解出来たのは、警官隊でも『猫』達でも、私でもなかった。

 宿の老夫婦である。

 二人には蠱惑こわくの術がかかったままだったのだ。

 宿の中に伏せていた二人が、主人であるビッツィーの命令に従って飛び出した。笛を持つ警官へ襲いかかる。彼が『猫』を操っているのをビッツィーは看破かんぱしたのだろう。

「止めろ、如何どうした」

 想定外の出来事に『猫笛の男』が悲鳴を上げる。

 訓練された『猫』達は、狩りより主人の安全を優先した。取って返して二人の老人を引き倒した。

「待て。待て」

 笛の警官が止めなければ『猫』は、二人の首を食い千切っていただろう。

「テメエこら」

 『片目の男』がライフルで老人たちを殴り始めた。

 周囲が止めに入る。

「止めて下さい。操られているだけの民間人です」

「バカこら。安全な保証あんのか? あ? ヤツの術を受けた時点で死人も同然だと思えコラ馬鹿」

「落ち着いて」


 その頃には、倒れていた警官達が復帰し始めていた。

 『片目の男』は、護衛が増えると気分が良くなったのか口調を変えて、

「まあいい。もう終わりそうだしな『猫』は良くやっている。後でたらふく肉を喰わせてやれ。俺は動物は好きなんだ」

 彼らはビッツィーを見た。

 ビッツィーの腕から、血が黒々と流れ落ちていた。首を庇った結果だろう。

 とっさの機転で命拾いはしたが、無傷という訳にはいかなかったのだ。

 ビッツィーは傷に口をつけて、血を吸った。

 血を確認して『片目の男』は更に上機嫌になる。

「よしよしよしよし。良いぞ『猫』は。良い『猫』達だ。だがあまり俺に近づけるな。とっととあの女の四肢をもいで来い」

 警官が笛を吹いた。

 五頭の『猫』が、再びビッツィーへ向かって走る。

 ビッツィーの渾身の蟲嵐むしあらし

 先頭の『猫』たちが直撃を受けた。わずかに耐えたものの、一瞬後には二頭が跡形もなく分解されて、アルコールの雨に変わった。

 その二頭が、後続の盾になった。

 残った三頭の『猫』が一斉に食らいつく。

 黒い毛並みの下に、ビッツィーが見えなくなった。

 『猫』から悲鳴が上がる。

 一匹の『猫』が串刺しになっていた。地面から伸びた蟲の塊である。ビッツィーの血と共に地面に染み込んでいた物が槍の様に伸び上がったのだ。

 残りは二頭。

 組み伏せられながら、ビッツィーは口中の血を吹き付けた。その中にも蟲を飼っている。一頭が顔を掻きむしって後退する。

 残る一体とは取っ組み合いになった。

 『猫』は上から、手足を噛み砕こうとする。

 ビッツィーは、蟲をまとった腕で牽制しながら、起き上がる機会を狙う。

 その応酬だった。強い魔術を使う隙を『猫』は与えてくれない。

 時々、鬼火がまたたくのは、醸造アルコールが発火しているのだった。その火にも『猫』は怯みもしない。


 屹度きっとまだ奥の手が在るに違いない。そう思いたかった。ビッツィーは何時いつだってそうだったから。

 ビッツィーと目が合った。私を見つけた。彼女が視線の動きで語りかけて来る。

 さっさと逃げろ。

 そう云っていた。

 これで私も認めざるを得なかった。もうビッツィーには打つ手がない。彼女はお別れを云っているのだ。

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