第66話 マヨヒガ


 一つ。出された物は好きなだけ飲み食いして良い。

 何かを壊して仕舞っても怒りをかう事はない。

 二つ。ただし、建物から何か持ち帰る場合、ひとつだけに留めるべきである。一人で入っても三人で入っても、持って出て良いのは一個だけ。

 三つ。間違っても合わせ鏡を造らない事。鏡を覗きこむだけなら、問題はない。だが二つの鏡を向かい合わせる事は避けるべきである。

 四つ。マヨヒ家の背後には桃園が広がっているが、これを通り抜けようとは思わない事。屋敷が見えなくなる前に引き返すべきである。

 そして、五つ目。七日目が終わる前には屋敷を出て行くこと。それ以上は絶対に逗留とうりゅうしてはならない。決して。


 以上が『マヨヒ』へ入る際の決まり事なのだとビッツィーは云う。

「引き返そう。怖いです」

「平気平気。それに追っ手も此処ここまではまず辿り着けないから」

「ほんとに」

「トンボ野郎でも無理。此処ここでなら必要なものがそろうわ」

 こう云われては反対する訳にもいかない。しかしビッツィーはどうしてこんな場所を知っていたのだろう。

 マヨヒの外観は質素な旅館といった感じだった。

 それが、中に入ると異様に広い。

 玄関フロアーだけでも家が一軒入りそうだった。

 様式は和洋折衷わようせっちゅうと云うのだろうか。私には分からないが、兎に角、豪華ではあった。

「なに、ここ」

 呟いた声が何にも反響せず消えて行って仕舞う。

 床は絨毯じゅうたんおおわれており、その朱色が目に染みた。

 吹き抜けになったロビーから階段が伸びているが、その九十九折つづらおりの果てが見えない。

「言い忘れたけど、最上階を目指そうとか考えない方が良いわよ。見て回るなら戻って来られる範囲にしないと」

「戻ってこられる範囲って何。やっぱり怖い」

 ビッツィーは土足で歩いている。私も恐々こわごわれに習った。


 フランソワは興奮して走り回っている。

 ロビーから続く廊下を右方向へ走って行ったフランソワが、一分後、反対の左方向から戻ってきた。サーキットのレースを見ているみたいだ。如何どう云う原理にっているのかは不明だ。

「行くわよフランソワ。好きな部屋選ばせてあげる」

「イエア」

 勿論もちろん、フロント係が居る訳でもない。ビッツィーは我が家のように自由にしている。

 ロビーの柱時計が大きな音を立てて鳴った。

「離れないでよフランソワ。手を繋いで歩こう。急に大きな声を出すのもなしだからね」

 ビクビクしながら部屋へ向かった。

 行灯あんどんが至る所に掛かって明るいのに、廊下の果てはかすんで見えない。光源が定まらない所為せいか、私達の影は薄く、何重にもなって、歩くたび秒針のようにぐるぐる廻った。


 部屋は掃除が行き届いていて、すでに着替えの浴衣が人数分用意して置いてある。机の上で、急須が湯気を立てていた。誰がやったのかは気にしない事にしようと私は心に誓った。

 ビッツィーは立ったままで飲んだ。

「とにかく着替えよう。大丈夫よ。持って帰らなければ何もらっても良いって説明したでしょ」

「持って帰るとどうなるの?」

 怖くなって私は聞いた。

 たちまち障子戸しょうじどの向こうから無数の忍び笑いが聞こえた、様な気がした。気配だけの、ススキが揺れるような声だった。

「ンンッ」

 フランソワが障子を開け放した。が、外には誰もいない。フランソワは伏せて唸ったり、股の間から逆さまに覗きこんだりしたが、何も見つけられない様子だった。

「大丈夫よ」とビッツィー。「現実的には誰もいないんだから」

「現実的にって何?」


 食事まで出た。

 誰もいない宴会座敷に、ちょこんとぜんしつらえてある。

 献立は一つだけ。

 丹塗にぬりのわんから薄紫の湯気が立っている。

 れは、名状しがたい香気を漂わせた透明のスープで、具はない。金箔きんぱくが浮かんでいるだけである。

 飲んでみても、前菜なのか、デザートなのか分からない。メイン料理のような気さえする。

 何を飲んだのか考えようとしても、何故なぜか味の記憶がおぼろになっていた。ただ体が暖まり、活力がみなぎって来た事は確かだった。

「知らない方が素敵な事ってあるものよ」

 とビッツィーは澄まして云うのだった。

 こんな所で七日過ごすのか。

 しかし、ビッツィーが状況を打開するためには、これが必要なのだ。


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