第63話 トンボ野郎


 馬は、すでに縄に掛けられていた。

 集まった警官エイポ達の側を、あの透明の蜉蝣かげろうが何匹も舞っていた。

 おそらく経緯はこうだ。

 街の人々は私たちに気づかなかったが、その影で例の蜉蝣かげろうが私たちを発見し、神殿へそれを伝えた。

 そしてまず、一番近くにいた警官が駆けつけた。

 多分、それがバックヤードから出てきた男だ。

 いち早く到着できたのが、自分一人だったため、彼は応援を待つ事にした。

 それで私達を逃がさないよう、店主に命じて足止めさせたに違いない。優しい店主は何かあった時に備えて、従業員を避難させた。

 そして今、応援の警官エイポ達が、馬を押さえ、私達に銃を構えている。

「動くな。今から君たちに確認をする。此方こちらの云う事を――」

「そう云うのいいから」

 ビッツィーは余裕の態度で髪をかき上げると、其所そこへ隠しておいた甲虫を飛ばした。

 輝く蟲は弾丸のように飛んで、警官エイポの一人の腕を射貫いた。

 拳銃が落ちたときには、ビッツィーはすでに警官に抱きついて、耳から蠱術こじゅつを流しこんでいた。

「ああ」

 と叫んだのはビッツィーだった。

 飛び下がった彼女の唇から血が流れている。

「――抗体。トンボ野郎」

 多分、蜉蝣かげろうを飛ばしてくる謎の術士の事だろう。何故なぜかビッツィーは、この場にいない彼へ向かって悪態をついた。


 後で聞いたのだが、魔術が失敗した時、術士が傷を受ける事があるのだとか。つまり、警官エイポ達にはビッツィーの蠱術こじゅつを防ぐような仕掛けしてあったらしい。それができるのは『蜉蝣の男』だけだとビッツィーは判断したのだった。

 事実、ビッツィーの魔術を受けたはず警官エイポは立ち上がった。頭を振って、朦朧もうろうとしている様子だったが。醸造ゾンビィにされた様子はない。

 ビッツィーは素早く撤退てったいを選択した。

「ノリコ、フランソワ、馬。馬」

「縛られてる」

「どいて」

 ビッツィーは腐食性ふしょくせい粘菌ねんきんを使って縄を溶かした。

 更に、二頭の馬をゾンビィに変えて、警官エイポ達へけしかけた。

「可哀想だけど、しゃあない。行け行け」

 馬たちが警官隊へおどりりかかる。

「下がれ下がれ」

 警官たちが威嚇射撃いかくしゃげきするが、理性を失った馬は怯むことなく突っ込んで行く。

「ノリコ、フランソワ」

 残った一頭の馬にビッツィーが飛び乗る。私たちも慌ててしがみついた。

 馬は三人と荷物を抱えたままで走り出したが、速度が上がらない。

 ずり落ちそうになりながら振り返ると、警官たちはゾンビィ馬を射殺して、此方こちらへ狙いを定めている所だった。

「荷物を盾にして」

 ビッツィーが叫んだ。

 その通りにした瞬間、まさに荷物を弾丸がかすめて行った。

「馬の方を狙え」

「撃ちます」

 警官達の号令が聞こえた。

 直ぐ近くで、鞭に似た音が響いた。馬が悲鳴を上げたような気がした。当たったか如何どうか確かめる余裕はない。

 我武者羅がむしゃらに走らせるしかない。

 ビッツィーは醸造術じょうぞうじゅつを使って馬に栄養を補給したり、苦痛を和らげたりしていた。

 街を抜け、橋を渡り、人家じんかが絶えて、追って来る気配がなくなった。

 それでも駆け続けたが、夕陽が射して来た頃、馬はついに力尽きて倒れた。弾が一発、お腹に当たっていた。

「これしきしか盗って来られなかったわ。嫌いじゃなければ良いけど」

 ビッツィーは馬にお酒を一口飲ませてやると、残りを全部使って馬体を清めた。もう助からないのだ。

 フランソワは馬に口づけした。

 その間に、これ以上苦しませないよう、ビッツィーがとどめを刺した。

 馬は静かになった。

 代わり、草むらで虫が鳴き始めた。

 辺りを見渡すと、どうやら私たちは山道の入り口に居た。

 目の前に鬱蒼うっそうとした山脈が続いている。

「この辺りは」

 ビッツィーは周囲を見渡している。

「山を越えていくのが一番良いみたいよ」

 そう云った。多分、ビッツィーはこの辺りを知っているのだ。そうだとしたらビッツィーに従っておいた方が良い。何か考えがあるに違いない。

「行ってくるね」

 と馬へ云って、私たちは山へ入った。


 完全に『トンボ野郎』にしてやれた形だった。

 ビッツィーも彼の実力は認めている様子だった。彼がいなければ、私達の旅はもっと簡単なものになっていただろう。

 しかし、結果から云うと、私たちがこの術士と対面する事は、最後までなかった。

 彼は遠くから魔術式を送り続け、私達は唯々ただただ、それと戦った。

 もしこのトンボ野郎が先陣に立って出てきてくれていれば、私たちの行く末は、また変わった物になっていただろう。


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