第59話 ビッツィー江戸っ子になる


 フランソワは押し入れの襖絵ふすまえに切り花を投げて遊んでいる。

「おかしいなあ……私が悪徳の香りを間違えるなんてなぁ……調子悪いのかなぁ。こういう凡ミスする時はたいてい悪い事が――」

 令嬢ワインを持て余しつつビッツィーはぼやいている。

 ちょっと思い当たった所があって、私は訊ねた。

「所で『誰でも良かった』って云ってなかった? 日記読み上げてる時。『良かった』て。過去形?」

「んん? ああそう。それが何」

 ビッツィーはの件から完全に興味を失っている。

 その時フランソワがふすまを開けた。

「アイ。オイヨ」

 押し入れの下の段に、死体が一体、詰め込まれていた。日記を信じるなら令嬢がったのだろう。

 フランソワは死体に花を投げてやっている。

「やっちゃったか~」とビッツィー。

「やっちゃってたか……自分でつくった設定に取り込まれちゃったんだね……」と私。

「やっても何にもならないのにねえ」

「真面目な子だったんだよ。どうするビッツィー?」

「別にどうもしないでしょ。帰ろ帰ろ」

 花を囓っていたフランソワがうなり始めたのはその時だった。


 私達が居たのは、屋敷の離れにある部屋だったのだけれど、庭の向こう、玄関と母屋に灯りともるのが、丸窓から見えた。人が訪ねてきたようだった。

 それも、見ていると令嬢の住む、の離れへやって来る気配だった。狼狽うろたえた声を上げているのは、奥方だろうか。何を云っているかまでは聞き取れなかった。

 母親の声と一緒に、何者かが近づいて来ている。

 庭に潜ませていた醸造蚕じょうぞうかいこが数匹、戻ってきて、複雑な動きをした。飛び方でビッツィーに事態を伝える事ができるのだ。

「あらら」ビッツィーが眉をしかめる。「警察みたい」

「えっなんで? 私たち気づかれるような事した?」

「蚕ちゃんに探らせた感じだと、敷地の外にも警官が配置してあるみたいよ。私たちに気づいて駆けつけたにしては手配が良すぎる」

「ずっと前から目をつけられてたって事?」

「それなら寝ぐらの方に突入して来るでしょ。こんなヨソ様の家で大捕物おおとりものなんてしないはずだけど」

「じゃあなんで?」

「ちょっとは自分でも考えてよね。何か思いつかないわけ。この子の理解者みたいな事云ってたじゃない」

「そんな、急にいわれても――もしかして」

 思い立って私はゴミ箱をひっくり返した。その間にも警官は近づいて来る。奥方は何かを必死に云いつのっている。

 ようやく探していた物を見つけた。見つけた所で役には立たないけど。

 れはクシャクシャになったノートの切れ端で、思った通り、令嬢の残したメモ書きだった。私はそれをビッツィーへ渡した。読むなり彼女は顔をしかめた。

 令嬢の名誉のため引用は避けるが、一言で云うと、それは犯行声明の下書きだった。『愚かな警察諸君』『暗黒天使』『誰でも良かった』『性的興奮』などの単語があられもなく散りばめられている。その台詞を電話で伝えたのか、遺体の一部にでも添えて警察へ送ったのかは問題では無い。かくの状況は、彼女が警察を挑発した結果に違いなかった。

「するってェとなにかい?」

 理解不能のあまり、ビッツィーは江戸っ子口調になって云った。

「このお嬢さんは、キャラ設定でシトを殺しといて、この奇天烈な作文を警察へ送りつけたっツう、こう云うことかイ?」

「……へい」

「死体の始末もろくにせずに」

「へい」

「でもって早々に特定されちまってるっつう、そういう事かイ?」

其処そこに私たちはタイミング悪く……」

「なんなん、この子!」

「声が大きいよビッツィー。ほら来てる来てる」

 警察の目的が令嬢だとはいえ、当の彼女がこの有様である。私達が疑われない訳もない。

 此処ここまで上手く追跡を逃れてきたものの、この令嬢の状態を見れば、警察はやがてカルベリィの事件と結びつけて考えるに違いない。

 逃げるしかないが、建物は包囲されていると云う。迎撃するのも仲間を呼ばれて危険だ。

 奥方の震え声が聞き取れるまでに近づいた。

 警察から説明を受けたのだろう、令嬢の名前を呼んでいる。

 ノックの音が続く。

「ノリコ、フランソワ。早まってはダメよ」

 外から見られないよう、私たちは身を屈めた。入り口の引き戸が開け放たれる。

「うわっコイツ!」

「逃げたぞ、逃げた!」

「自首してぇええ!」

 二人の警官と、奥方の叫び声が上がった。

 警官は逃げた影を追い。奥方の足音も、しばらくウロウロしていたが、玄関の方へ遠ざかって行く。

 やがて敷地の外からも、怒声が響いた。待機していた警官たちが、逃亡者を追っているのだ。捜査対象の令嬢と、被害者のはずの男が飛び出してきたのだから、警察も驚いたに違いない。

「行ったかな?」

醸造じょうぞうゾンビィってとこね」

 声が遠ざかるのを待って、私たちは押し入れから這い出した。

 花の匂いに混じって醸造香が漂っている。

 警官たちが追いかけて行ったのは、蠱術で脳を操られた令嬢と『誰かの死体』である。囮作戦は上手くいったようだ。

「大まかな命令しか与えられないけど、体力を無視して走り続けるから、しばらくは警察を引きつけてくれるでしょう」

 私たちは用心深くお屋敷から抜け出した。

「やれやれ、どうにか切り抜けた。ラーメンでも食べてく?」

 ビッツィーは軽く云ったが、事態はなかなか深刻だった。

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