第53話 葡萄酒のオマジナイ
フランソワの歌声が聞こえる。
気づくと車の助手席に居た。
異界の風がビッツィーの黒髪を輝かせている。
「ねえ、ビッツィー」
「なあに」
「トビーは、テュールが好きだったのかな」
遺体を見つけてからずっと、私はその事ばかり考えていた。
ビッツィーは運転席からこちらを見た。
「さあねえ。きっとトビーの情はあなたに向いていた。でもトビーを所有していたのはテュールだったのね。あなたでも、トビー自身でもなかった。全ては、その結果」
「……そう。私は何もしなかったから、
あれはトビーとテュール二人の
「そう。仕様がない。私たちが奪えたのはこれだけ」
ビッツィーは座席横のコンソールからグラスを取って、
トビーだ。
濁って、不完全な色。舞台に立てないままだった彼のワインに違いなかった。
「薬物は抜いたけれど、あまりオススメできる味ではないでしょうね。でも味が全てではないからね」
ビッツィーが言い終える前に、私は飲んだ。
グラスを握る間も惜しんで、ビッツィーの手から飲んだ。
香りは薄く、そして渋い。お酒の知識は無かったけれど、彼が良いワインではない事は分かった。
だが、欲しかった。
これだけは全部、一滴残らず自分の物にしたい。
飲み干してしまおうと、グラスへ
ビッツィーが止めた。
「待って。ノリコ。待って。それ以上は身体に悪い」
「まだ」
「ノリコ、もういいから」
「嫌だ」
無理に奪い取ろうとして、私は
私の咳が治まるまで待ってから、ビッツィーはこう云う。
「ノリコ」
「嫌だ」
「ノリコ。ワインをね、飲み過ぎてしまいそうな時に云うオマジナイがあるんだけど、聞く気ある? とっても素敵な言葉なんだけど、聞きたくない?」
ビッツィーは辛抱強く私に云い聞かせた。
ようやく私は落ち着いた。グラスから手を離して、ビッツィーの次の言葉を待った。
「簡単な事。飲む前にね、こう唱えるだけで良いんだ。いい? 『ワインは素晴らしい。でも私の人生はもっと素晴らしい』この言葉を知っている人はね、後悔するような飲み方はしないものよ」
私は目元を拭ってビッツィーを見た。
「どう? このオマジナイ。信じてみても良いと思わない? オマジナイが出来るなら飲ませて上げる」
「ビッツィー、私トビーが欲しい」
「そうね、分かるわ。でも?」
「でも、私の人生は……これからの人生はもっと素晴らしい」
私は
それでもビッツィーは目を細め、許しを与えてくれた。
「ちゃんと、もう一度云って。それで満足するから。『私の素晴らしい人生のために』と」
そう云ってグラスを差し出した。私は従った。
「私の――私の素晴らしい人生のために」
私はグラスを受け取り、今度はゆっくりと味わって、トビーを
飲み干した時、私はトビーとお別れしたのを感じた。
「これで、彼はあなたをひとつ豊かにした。でもね
そう云うと、ビッツィーは車を加速させた。
彼の味と、エンジンの音と、異空間の光、フランソワの歌声が混じり合って、私を
私はぼんやりとした頭で、しかし明確に、自分が人の道を踏み外したのを自覚していた。そしてビッツィーにひとつ近づいた事を感じて、喜びを覚えた。
ビッ=ツィー。
酩酊の魔女。奪い与える者。私の共犯者。
ビッツィー。
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