第52話 テュールの為の花たち


 今まで経験した事のない強い感情だった。怒りなのか哀しみなのかは分からない。多分、これからもずっと名づけられないままだろう。

 私はビッツィーの胸ぐらを掴んで壁へ押しつけた。そのまま腕で何度も突き上げた。ビッツィーは抵抗しなかった。

「ビッツィー」

「ノリコ、話を聞いて」

「ビッツィー」

「知るべき事をちゃんと見なさい」

「ビッツィー」

「逃げるな」

「ビッツィーどうして」

「ノリコ。私があなたに隠れて彼らを殺すと思う? 私は欲しければ誰の前でも奪うものよ」

 膝から力が抜けた。私はビッツィーにすがってずるずると座りこんで仕舞った。

 ビッツィーからは醸造術じょうぞうじゅつを使った時の香りがしない。その代わり、室内に立ちめているのは、生々しい死の臭いと、甘いような異様な香りだけだった。

「ビッツィー、教えて。何があったか」


 ビッツィーは歩いて行って、白い粉のついた袋を拾ってきた。粉からは甘ったるい様なえた臭いがした。同じ日、トビーの服からも嗅いだ臭いだった。思えば、以前にも。

「これが彼女のビジネス」

 ビッツィーの説明はこうだった。

 テュールは父親の貿易ルートを悪用して、違法な薬物を売買していたらしい。

 快楽を得られる薬物。安堵を得られる薬物。色々。

 アパルトマンは薬物の保管庫であり、パーティー会場でもあった。トモダチとは薬物中毒者の輪の事だった。アパルトマンに出入りする若者たちのほとんどは、薬物目的の客だったらしい。テュールならめずらしい薬も用意できる。

「おそらく、いえ、確実にトビーはそのお薬の中毒だったようね」

 彼の不調はビッツィーのせいではなく、薬物の副作用だったのだ。ビッツィーはこう尋ねた。

「彼にお金を貸したことは」

「……ない」

「じゃあ、お金や持ち物が消えたりした事があるでしょう。そしてあなたはそれを知っていた」

 私は頷いた。

 その通りだった。アルバイト先で商品や売り上げの数字が合わないことがあった。それが彼の遊びに来た時ばかりに起こる。私は自分のお給料から補填ほじゅうして、問題を無かった事にした。

「テュールから仕事を請け負ったりはしていたみたいだけど、ヘビーユーザーだったみたいだし、お金が足りるわけないわよね」

 二人は並んで倒れている。もう呼吸をしていない様だった。

「二人は……どうなったの?」

「……状況的に見て、行き詰まったトビーがテュールを道連れにしたってとこかな。テュールは首を絞められていて、トビーは……私が来たときには首を吊っていた」

 しばらく言葉が出なかった。

「お金のことは」と私は云った。「知ってたけど……薬物を買ってるって分かってたら……」

「止められたと思う? あなたは一方的に奪われていただけ。彼を支配できていた訳じゃない。それでは欲望は止められない」

「ビッツィーは」

「ええ」

「ビッツィーは気づいていたんだね。どうして私に教えてくれなかったの」

「あなたに良い経験をして欲しいから」

「良い経験? これが?」

「幸福なだけが良いものとは限らない」

 ビッツィーの表情に、後ろ暗さは微塵みじんも見えなかった。彼女は心からそう思っているのだ。

 この時、私は怒るべきだったのだろうか? でも私はれどころではなかった。

 私はずっとテュールを見ていた。トビーではなく彼女を。

 テュールの服が綺麗に整えられていた。

 傍らに花まで添えてある。

 トビー用意したのだ。

 テュールのために。

 彼女のための花だ。

「さあ、こうなったらもう此所ここには居られないわ」

 ビッツィーの声がする。

 醸造蚕じょうぞうかいこが飛び始め、遺体を繭で包んでいった。

 二人一緒に見えなくなった。

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