第50話 逃げようか


 思えば、引っ越しの翌日に会ったのも、彼がテュールの部屋に出入りしていたからに違いない。

 残念だ、と云うのが素直な感想だった。何時いつもの事だ、とも思った。

 何かを欲しがっても、何時いつだって私の手には入らない。運良く転がり込んで来るような事があっても、自分の物にったと云う気がしない。

 いずれにしろ、満たされる事は無いのだから、欲しがっても仕様しょうがない。

 そう思っていた。

 でも、今は私の望みだけの問題ではない。テュールに近い者ほど、醸造じょうぞう術のとばっちりを受けるはずだった。

 トビーは無口になって行った。最近は演劇の話もしなくなっている。

 私はビッツィーにそれとなく訊ねた。

「どのくらいまで此所ここに居る?」

「もう少しかな。車の燃料は仕込んでいる途中だし」

 ビッツィーがテュールをいただくなら、出立の直前に違いない。

 つまり。今ならまだトビーは助かるという事だ。


 次に会った時、彼は裸足だった。一目で調子の悪い日だと分かった。

 靴が、如何どうしても見つからないのだと云う。

 正にその靴を手にぶら下げていたので「そこにあるよ」と私は云ったのだけれど、彼は「これは僕の靴じゃない」と云ってきかなかった。

 私は靴の事に触れるのは避け、演劇の話をしようとした。

「演劇」

 長い沈黙の後、うつろな声が返って来た。沈黙と云うよりは放心だった。彼が息を吐く度、空気と一緒に私の知っているトビーが漏れて消えて行く気がした。

「舞台に上がりたかったのでしょう」

「そんな夢を見ていたっけ」

「演劇が好きなのでしょう」

「好きじゃないよ、ごめんなさい、嘘だったんです」

 そう云って彼はしゃがみこんだ。そしてまた靴を探し始めた。

「苦しい?」と私は云った。

「苦しいです」と彼は応えた。

「頑張れそうにありませんか」

「はい、頑張れそうにありません」

「ねえトビー」

「はい」

「逃げようか。二人で」

 云ってしまってから、気づいた。

 私が何も手に入れられなかった理由。

 偶然手に入れても満たされなかった理由。

 それは自分で動かなかったからだ。手に入れようと努力してこなかった。貧しいのは家ではなく、私の心の方だった。

 それを教えてくれたのは、ビッツィーと、そして多分テュールだった。

 そしてこの時、私はこの二人からも逃げようと決心したのだ。トビーを手に入れるために。

 トビーの服は汚れていたが、不思議な甘いような臭いがした。

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